明くる日の朝。窓から入り込んできた朝日で、フィーリルは目を覚ました。どうやって自宅に帰って来たのかははっきりしないが、ベッドで寝ているという事は、
「朝……?そうだ、私、どうなって……」
何十年と繰り返してきた朝ならば、窓から見える景色で違いが判る。置き時計を確認して窓から外を見ると、窓の外には
「あ、ああ……!?あああ…っ!」
いつもの朝であれば、この時間に外を歩いている子供は一人だけだったはずだ。記憶の中にあるいつもと違う朝の光景は、今日が昨日とは違う一日の始まりだと教えてくれているようだった。フィーリルは大慌ててベッドから飛び起きて、玄関から外へ出た。
(この時間、は……っ、そう、玄関の前でチャロムおばさんが掃除をしていて…!)
まさに取るものもとりあえずといった有り様で玄関を開くと、眩しい朝陽がフィーリルの瞳に飛び込んでくる。一瞬、強く目をつぶった後、ゆっくりと目を開けるとそこには向かいに住むチャロムという老女とその夫バロムがいて、仲睦まじく出かける所であった。
「あ、あのっ!お、おばさっ……!」
「あら、フィーちゃんどうしたの?そんなに急いで」
「おばさん!き、今日は何日?!
「え?ええ……今日は四日よ。どうしちゃったの?昨日はあんまり元気がなさそうだったけど、大丈夫?」
「あ、あはは……はははは……やった。抜け出せたんだ、私……!」
涙と共に崩れ落ちて笑うフィーリルの様子に、チャロム夫婦は顔を見合わせて心配そうにしている。それが数十年分にも及ぶ長きの間繰り返されてきたフィーリルの、長い…長い一日が終わった安堵の涙であるとは、夢にも思っていないのだ。
「ありがとう、無明さん……ありがとう……!」
そうして呟くフィーリルの声が、鳥のさえずりと共に消えていく。フィーリルの呪いにも似たスキルの呪縛はこうして幕を下ろしたのだった。
「それじゃ、女神様との契約だっていうのか!?」
「……朝っぱらから元気でござるなぁ、ジークリンデ殿は。もう少し静かに喋ってもらえると拙者の耳が助かるのでござるが」
フィーリルが五月三日から抜け出した事を知り、安堵の涙を流していたちょうどその頃、部屋から出てきた無明を捕まえたジークリンデとエスメラルダは、事の真相を聞いて驚いていた。興奮気味に声を張り上げているが、ジークリンデはその性格の通り、地声の音量が大きい。かすかな物音でも聞き取れるよう鍛錬している無明達忍びにとって、それは苦痛を感じる大きさだった。そんな無明の嘆願は完全にスルーされ、ジークリンデは大声を張り上げている。
「そんな悠長なことを言っている場合か!女神様と交流するなんて前代未聞だぞ!?それを可能にするのは
更にヒートアップするジークリンデとは真逆で、エスメラルダは冷静そのものといった様子である。しばらく何かを考え込んだ後、紙とペンを持って、確認するように無明に問いかけた。
「ええと、それで無明さんが女神様に直接頼まれたのは、スキルの回収ってことでいいんですか?」
「いや、あくまで世界の危機に対応してくれと請われただけでござるな。ただ、漠然とだが、今回のような人の手に余るスキルが暴走している事も対処の範囲に入るようだと認識しているでござる。どうにもあの女神様とやらは説明が足りぬ、そそっかしい所があるお方のようでござるよ」
チラリとジークリンデの方を視つつ無明はそう呟いた。ジークリンデの場合、そそっかしいというよりは細かい事を注意するのが苦手という感じなのだが、そこを敢えてつつく必要はないだろう。まさか自分が女神と比較されているなどとは思っていないのか、ジークリンデはまだ現実逃避の真っ最中である。
「世界の危機……ですか、確かに抽象的ですね。ロイド叔父様は、そんなに危ない事なんて中々ないって仰ってましたし、フィーリルさんのスキルだって、世界の危機とまではいかないものだったような……」
「そうでもないでござるぞ。同じスキルが複数の人間に現れるのは稀らしいが、万が一にもあのようなスキルを持つものが二人三人と増えていけば、いずれ世界は大混乱に陥るでござる。何しろ、人の時間が進まなくなる訳でござるからな。確率は低くても危険な事に変わりは無いでござろう」
「そっか、そうですよね。放って置いたらいつかはそういう人達で溢れちゃいますもんね。でも、女神様なら自分で何とかできそうですけど」
「その辺りの事情は拙者にも解らんでござるが、誰かに頼まねばならない理由があるのでござろう。拙者、こう見えて人を見る眼はあると自負しておるのでな。少なくとも女神様は信用してもよいと思っているでござるよ」
「当たり前じゃないかっ!女神様だぞ!?」
「わっ!?いきなり耳元で叫ぶのは卑怯にてっ!?み、耳が……っ!」
「だ、大丈夫ですか?無明さん。……お姉様、もうあんまり無明さんを無下にしちゃダメですよ?女神様に怒られちゃいます」
「私は別に無明を無下にしたことなど……というか、無下にされてるのは私の方じゃないか?この男の私に対する扱いは、およそ女性にするものじゃないぞ。これでも私だって、貴族令嬢なんだが……」
「せ、拙者の知る姫君というものは、もう少し儚げで……」
「聞こえてるぞ!」
ジークリンデがギロリと睨みを利かせると、無明はそっぽを向き何も言っていないアピールをして誤魔化そうとしている。余計な事を言わなければいいのに、と思う反面、ああしたやり取りは二人の関係がいいからこそできるのだとエスメラルダは知っている。そもそも、貴族の令嬢として蝶よ花よと扱われるよりも、ジークリンデは気の置けない関係の方が好みなのだ。とはいえ、ジークリンデも恋する乙女である。好いた無明に優しくされたい気持ちもあるのが、厄介な所だ。
放っておくとまたジークリンデが爆発しそうなので、エスメラルダはそれとなく助け舟を出す事にした。
「それにしても、女神様から世界を救って欲しいと頼まれるなんて、流石は無明さんですねぇ」
「……ロイドが聞いたら卒倒しそうだな。無明のやる事にはもう驚かないと言ってたが、今回ばかりは驚かない訳にはいかないだろう」
「とはいえ、具体的に何をすればいいのかは解らんでござるからな。冒険者ギルドで依頼とやらを受けつつ、それらしい仕事をこなしていくしかあるまいて」
「世界を救うという割にずいぶん地味だな……」
「それは拙者のせいではないでござるからして」
結局、これまでとやる事はそう変わらない事に気が付いて、三人は笑うしかなかった。使命を思い出した無明の活躍が、伝説となっていくのはこれからである。