ガラガラと音を立てて、大型の乗合馬車が進んでいく。それ自体はずいぶん牧歌的な光景だが、馬車の中は見た目ほど落ち着いた状況ではなかった。何しろ、乗っているのは半数以上が怪我人であり、血と包帯、そして傷薬の臭いが車の中に満ち溢れていたからだ。怪我人達の多くはボロボロの鎧を纏っていて、どこかで戦いを繰り広げてきたのだと一目で解る出で立ちであった。
時折、傷の痛みに呻く声が聞こえる他には、誰も喋ったりしようとはしていない。まるで、戦争に敗けた国の民であるかのような悲壮さが車内に渦巻いている。
そんな車内に乗り込んでしまった一般客は、怯えながら目的地に着くのを待っていた、そんな時だった。馬車が大きく揺れて、馭者台から焦ったような声が聞こえてきたのだ。
「サベージ・アントだっ!」
緊張感のあるその一声で、客達の間に緊張が走る。サベージ・アントは、火の属性を持った蟻型のモンスターだ。蟻と言ってもその身体はかなり大きく、一匹一匹が人間の腰くらいまでのサイズを持つ。また、蟻だけあって数が多く、性質は獰猛で炎を吐く事からかなり危険な種族として認知されている。しかし、本来は火山帯などの地熱が高い場所に生息するモンスターであり、近くに山もないこのような平原に出てくるような存在ではないはずだ。
サベージ・アントは地中を進んできたようで、馬車の進行方向の地面が突然盛り上がり、そこから飛び出してきたらしい。あっという間に数十匹の群れが地面の穴から這い出してきて、狙いを馬車に定めたようだった。
「スピードを上げて振りきるぞ!お客さん方、何かに掴まれっ!」
馭者が馬に鞭を入れて、逆方向へ一気に加速する。進んできたのは一本道の街道だが、Uターンするだけの広さはある。あと二時間もすれば目的地の街・ワルキュリアだったのだが、この状態では進む事は出来ない。何とか一つ前の街へ戻って、そこの衛兵たちに頼るしかないだろう。
不運だったのは、この乗合馬車が長距離移動用の大型車だったことだ。このタイプは一度にたくさんの人を乗せて、かつ、長い距離を走れるよう設計された馬車であり、高速移動には適していない。そもそも、曳いている馬の種類が違うのである。普通の馬車は一般的な馬を使うものだが、この大型馬車は馬力とスタミナに重点を置いた特殊な馬を使っている。日本で言う輓馬を、更に大きく品種改良した馬である。
その為、普通の馬車よりも居住性や乗り心地は良いものの、あまり速度が出せないという欠点があった。対して、サベージ・アントはサイズこそ大きいものの、多脚である故か足の運びが素早く、全体的に移動が速い。このままでは大した距離も稼げずに捕まるだろう。そして、サベージ・アントは雑食だ。捕まれば確実に乗客や馭者は助からない、そう思われた。
「……私が出ます。馬車はそのまま走らせて」
そんな危機的状況の中、黒い軽鎧と双剣を手にした若い女性がすっと立ち上がり馭者台の後ろへ近づいて言った。突然の宣言に、馭者は何を言っているのか解らないようだったが、彼女は短く切り揃えられた赤い髪を軽く揺らしてスタスタと歩き、客車後部の出入り口を開けた。
「お、おい!?お客さん何やってんだ!危ないぞ、止めろ!」
馭者の男はその女性の動きに気付くと振り向いて止めようと声を掛けたが、女は制止を全く気にせず、開いた後部出入口から追いすがるサベージ・アントを見下ろしている。
「この程度の数なら、問題ありません」
音もなく、腰に佩いた双剣を抜き、女はそれを構えて客車から飛び降りる。それなりに速度が出ている車から飛び降りれば、普通ならただでは済まないはずだが、女は器用にその勢いを活かして追って来る先頭のサベージ・アントの頭に双剣を突き刺した。
「ギャッ!」
先頭にいたサベージ・アントは小さく叫ぶと、そのまま絶命したようだ。走っている馬車のスピードの分だけ勢いがついていたので、その威力はかなりのものだったのだろう。女はその勢いに乗ってサベージ・アントの頭から体までを切り裂き、地面へ落ちた。だが、それでも彼女は止まらなかった。
「次……っ!」
地面に落ちたように見えた彼女は、ゴロゴロと身体を前転させて進み、次の獲物の前で弾けるように飛び上がる。後方にいたサベージ・アントは何が起こったのかも解らずに双剣で首を刎ねられた。そこでようやく、サベージ・アント達は追っている馬車から何かが出てきたのだと気付いたようだ。馬車を追う動きを止めて、仲間の死体の上に立つ、女性を取り囲んでいく。
「危険なものを排除しようという本能はあるのですね。
首を落とした死体の上で、女は双剣を構えてサベージ・アントの群れをぐるりと見回す。全周隙間なく取り囲まれ、ギチギチと奇怪な音がする中で、彼女は全く臆することなくそれらを見た。敗北など微塵も考えておらず、かといって、戦いに高揚している訳でもない。彼女の心は凪そのものである。
「さぁ、来なさい。このロスヴァイセ・レギンレイヴが相手になってあげましょう」
その言葉に反応したかのように、背後から一匹のサベージ・アントがロスヴァイセに飛び掛かった。だが、彼女はそれを見越していたかのように振り向きざまに剣を振るう。不安定な死体の上だというのに、くるりと回転しながら剣を振るっただけで、向かってきたサベージ・アントは三つに切断されていた。それを合図にロスヴァイセは動き出す。
「ふっ!」
切り落としたばかりのサベージ・アント首を蹴りつけ、正面にいたサベージ・アントへぶつけてみせると、死体の鋭く尖った顎が突き刺さり、正面のサベージ・アントがのけぞって後退する。その隙にロスヴァイセ自身が飛び込んで斬りつけたのだ。見事真っ二つになったサベージ・アントの分、包囲に隙が生まれたのをチャンスとしてロスヴァイセは左右の双剣を巧みに操り、次々に別の個体へと斬りかかっていった。
見るものが見れば、それはまるで優雅な舞のように見えただろう。軽やかなステップと重心移動、そして、余計な力みが一切ない剣の冴え。二本の剣を別々の生き物のように動かしては、ほとんど一刀のもとに敵を斬り伏せる。それはまさに達人と言うべき腕前だった。彼女の不思議な所は、それだけの動きを見せながら欠片も表情を変えないところだろう。切れ長の瞳と整った顔立ちは、僅かな感情の動きすら感じさせない美しい彫刻のようだった。
そうして、サベージ・アント達は、自分達の得意技である炎を吐く事すら出来ずに制圧された。辛うじて即死はしなかった者がいる程度で、大半は死んでいるだろう。ロスヴァイセはふぅと一息吐いて、じっと少し先の地面を見つめている。
「そう、まだいるのですね。……
ロスヴァイセは双剣を納めず、戦いの意思を続けている。そのまま少しの時間が経つと、やがて地面が揺れて、地の下から巨体が抜け出してきた。ロスヴァイセの言う通り、それは彼ら、サベージ・アントの女王だ。通常のサベージ・アントよりも三回りは大きく決して、小さくないロスヴァイセが見上げるほどのサイズだ。
女王蟻は子供達を殺された為に怒っているようで、その目を朱く爛々と輝かせていた。
「いいでしょう、雑魚相手では不足していた所です。あなたが
ロスヴァイセは大きく息を吐き、女王蟻と対峙する。そして、戦いが始まった。
それから数時間後、馬車が助けを求めた街の兵士達が集団で戦いの現場に向かうと、そこには激しい戦闘の痕跡だけが残されていた。微塵切りにされた女王蟻の死体と、戦闘の余波で粉々になったサベージ・アントの死体が放置されていて、それを行ったはずのロスヴァイセの姿は、どこにも見当たらなかったという。