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第40話 お嬢様の受難

 ゴトゴトと音を立てて、馬車が街道を進んでいく。この世界の暦でも、六月カビラルは初夏である。気温は少しずつ上がり始め、平野では少し汗ばむ日も増えてくる頃合いだ。しかし、現在進んでいるこの山間の街道は、山の中だけあって比較的気温が低めで過ごしやすい状態のようだ。

 そんな長閑で平和な雰囲気とは裏腹に、馬車の中は暗くどんよりと沈んだ空気に包まれていた。


「……まったく、エスメラルダめ。あの子は最近どうも押しが強くなった気がするな。少し前まで、あんなにかわいい子供だったというのに」


 文庫サイズに描かれたエスメラルダの似姿を手に、ジークリンデがハラハラと涙を流している。その向かいの席に座り、困った顔をしているのは無明であった。


「エスメラルダ殿に逆らえない気持ちは解るし同情もするでござるが、泣きたいのはこちらも一緒でござるよ。帰って来るなりいきなり馬車の中へ押し込まれて、何が何やら……今日はいい猪肉を分けて貰えたのに。仕方ないのでこれは拙者達の晩飯にするか、傷まぬとよいのでござるが」


「そもそもエスメラルダがあんなに図太くなってしまったのは誰のせいだと……!というか、夕飯の心配なんてしてる場合か?ロレッタ村に着くには早くても二日はかかるぞ」


「まあまあ。おおよその話はここまでの説明で解ったでござる。民草が苦しんでいるのを見ていられぬというジークリンデ殿の気概は立派。拙者も協力は惜しまぬから安心するとよい。エスメラルダ殿の教育については御父上などとよく相談して頂くとして……そういう事ならのんびり進んでいる暇などなかろう。ここは拙者にお任せあれ」


「お、おい、待て。待ってくれ、無明。君がそうやってやる気を出すときは大概嫌な予感しかしないんだが……聞いているか?そういう所をエスメラルダが見習ってしまってるんだぞ!?おいっ!」


 ジークリンデの訴えを完全に無視した無明は、馬車の窓を開けて馭者を務めるロスヴァイセを呼んだ。今回は馭者兼従者がロスヴァイセで、後は無明とジークリンデの三人旅なのだ。


「ロスヴァイセ殿、馭者は拙者が代わるので、そなたは中でジークリンデ殿を守ってやってくれ。少々荒っぽく進む事になるのでな」


「かしこまりました。しかし、荒っぽいとはどういう事になるのでしょう?」


「ふっふっふ……拙者、転生前の記憶を取り戻したお陰で忘れていた秘薬の作り方も思い出したのでござる。今回使うのはこれ、馬専用滋養強壮剤・餌須腑烈素エスプレッソでござるよ」


「おい待て止めろ!ロヴァ、止めさせるんだ!コラ!聞いてるのか!?」


「ふむ。ではその餌須腑烈素エスプレッソとは、どのような薬なので?」


「うむ、よくぞ聞いてくれた。これは馬に飲ませる専用の秘薬でな、これを飲むとどんな老馬でも立ちどころに元気を取り戻して疲労が回復し、潜在する能力の全てを一時的に引き出す事が可能となるのでござる。しかも、なんと副作用は一切ない!……ただまぁ、この薬は馬用でござってな。うっかり人間が飲むとそれはそれは大変な事になってしまうので注意が必要なのでござるよ」


「そんな危ないものを飲ませるんじゃないっっ!」


「なるほど、それは凄まじいですね。では、私はお嬢様と共に車内に避難……いえ、籠っておりますので」


「それで結構。少々揺れるが心配ご無用でござるぞ。……さぁ、お前達これを飲むでござる。うむ、良い飲みっぷりだ。それでは、ハイヨーッ!」


「止めろーっ!……お?!おおおおおおおっ!?う、きゃあああああっ!」


 黒々とした液体の秘薬、餌須腑烈素エスプレッソを飲んだ馬達は、瞳を爛々と輝かせて合図と共に一気に走りだした。通常、人を運ぶ馬車のスピードはおよそ時速7kmほどだが、餌須腑烈素エスプレッソの効果によって馬達はそれを遥かに超える時速80km以上のスピードを叩きだす。その速さはサラブレッドをも超えるスピードだ。その尋常でない速さによって、車内は揺れに揺れた。というか、車体が壊れないのが不思議な程だ。そうしてジークリンデの悲鳴を響かせながら、馬車はあっという間にロレッタ村へ向けて突き進んでいった。







 それから三時間後、無明達を乗せた馬車はロレッタ村の入口に到着した。あまりに揺れたせいか、ジークリンデは完全に車酔いしてしまっていて、まっすぐに立つことすら覚束ず、顔色は真っ青で今にも吐きそうだ。


「うむ、予定よりだいぶ早く着いたでござるな。拙者が走ればもっと早いのだが、まぁ、馬でこれなら十分でござろう。なぁ?ジークリンデ殿」


「ぉぇっぷ……うぅ……ゆれる、きもちわるい……」


「お嬢様には刺激が強すぎたようですね。まぁ、剣神のスキル持ちですから大丈夫でしょう。ひとまず、今夜の宿を探してまいります」


 スキルは何の関係もないだろうと叫びたかったジークリンデだったが、未だ揺れ続ける視界と吐き気で喋る事が出来なかった。だが、同じように揺られていたはずのロスヴァイセが何故平気なのかは謎だ。ちなみにここまで全力疾走を続けてきたはずの馬達は、まだ元気が有り余っているようだが、無明曰くそろそろ秘薬の効果が切れて大人しくなるとのことだった。あれほどの効果をみせた薬なので副作用がないというのはどうにも信じ難いが、今夜一晩しっかり休ませれば何の問題もないと豪語する以上、何も言えない。そもそも、今のジークリンデは喋る事が出来ないのだ。


 そうしてロスヴァイセが村の中へ入って行こうとした時、村の外を歩いていた老人がこちらに気付き、近づいてきた。特に敵意のようなものは感じられず、むしろ、少し困惑しているような雰囲気が見て取れる。無明とロスヴァイセがその老人を見つめていると、不意に老人が声を上げた。


「お嬢様……?もしや、ジークリンデお嬢様ではありますまいか?」


「む?そ、そのこえ、は……ぅぅ、吐きそ…で、でる……っ!」


「ジークリンデ殿……そういう時は我慢せずに吐いてしまった方が良いでござるぞ」


 無明はこともなくそう言ったが、それは乙女として、絶対に避けたい展開だ。何が悲しくて惚れた男に嘔吐する姿を見せなければならないのか。というか、貴族令嬢の端くれとしては、人前で嘔吐するなどあってはならない失態である。そのプライドだけが、ジークリンデの覚悟を支えているようだ。


「おお!やはりジークリンデお嬢様でしたかっ!儂です、一昨年まで騎士隊長を務めていたマルキュリオでございますっ!」


「ま、マルキュリオ……?あ、あの…………うっ!?ごめんやっぱりむりだっ!と、トイレっ!」


 限界を迎えたジークリンデはそう言い残して走り去ってしまった。ロスヴァイセが後を追っていったので、たぶん大丈夫だろう。その場に残されたマルキュリオ老人と無明は気まずい空気の中、二人の戻りを待つ事になったのだった。

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