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第51話 湖畔にて

 手つかずで鬱蒼とした森の中を進んでいくと、突如として開けた場所に出た。そこはとても大きな湖の畔で、周囲には全く人気が無い為か、ただでさえ静かな湖畔は鳥のさえずりさえも聞こえず、耳鳴りが聞こえてくるほど静まり返っていた。


 大レナーラ湖……それはワーグナー王国でも屈指の大きさを誇る巨大な湖であり、ライトニング領の中でも特に重要な水源として知られている大きな湖だ。一説によると地下でライトニング領の各地に繋がっているというので、領内の水源と考えられているのだそうだ。

 そしてこの世界では月をレナラと呼ぶのだが、満月の夜になると、この湖面一杯に巨大な月が映しだされ、空と湖の両面から月の光が輝いてまるで一つの巨大な月のようになる。そこから、この湖を大レナーラと呼ばれるようになったらしい。


 そんな湖を一望できる場所にその屋敷は建っている。そして、その屋敷の前にはいつもの見慣れた忍者装束の男がいた。


「ここが問題の屋敷でござるか。特に怪しい気配は感じられぬが……ともかく、もう少し辺りを調べてみなくてはな。しかし、大きな湖だ。さながら琵琶湖のようでござる」


 今回、無明は単独で屋敷の調査に来ていた。表向きはSランク冒険者であるジークリンデが受けた依頼という事になっているが、何が起こるか解らない危険な場所に彼女を連れてくる訳にはいかないと、敢えて一人でやってきたのだ。


 無明が見て回った所、どうやら屋敷の周辺におかしな点は見当たらなかったようだ。となれば、やはり問題は屋敷の中ということになる。入った者が決して戻らないという謎の屋敷。そこに立ち入ることには抵抗があるが、だからといってこのまま何もせずに帰る訳にはいかないだろう。言い知れない胸騒ぎを覚えつつ、無明は意を決して屋敷の扉を開いた。


 重く、大きな木製の扉は、かなり長い年月放置されているにも関わらず朽ちている様子は全く無い。風雨に晒された事による汚れはあるが、それだけだ。この屋敷は魔王の襲来以前に建てられたものであるというから、ざっと計算しても二百年近い時間が経っている事になる。普通、木で出来ているのなら、メンテナンスも無しに維持できているとは思えない。


 だが、この屋敷は曰く付きで、現在は国の管理下にある。その為、ロイドが知る限り少なくとも百年以上は、誰もこの屋敷を維持する行動はとられていないはずだ。そんな屋敷が扉だけでなく当時とほとんど変わらず健在である事自体が、異常な事だと言ってもいいだろう。


「中は……特に変わった様子はないでござるな。いくらか外よりも空気が冷たいが、ふむ」


 玄関の扉を開けて数歩中に入ってみても、やはり異常は感じられなかった。強いて言うならば、石造りの家屋敷というのが、日本で生まれ育ってきた無明には奇妙なものに感じられるのだが。

 そもそも、この世界は中世から近世ヨーロッパに準ずる文化が主体である。無明は日本から出たことがないので解らないようだが、おおよそ大航海時代ぐらいの文明が基本と考えればよいだろう。魔法やスキルといった現代にはない特殊な力が存在するものの、文化や文明の進みがやや遅いのは女神の意向によるものだろうか。また、科学知識などは明らかに進んでいないようである。


 無明が建物の中を進んでいくと、段々とその異常さが浮き彫りになって行った。長年放置されているにも関わらず、不思議と活けたばかりのような観葉植物が所々に置かれていて、瑞々しささえ保っている。それらに混じって調度品も散見されたが、それらも埃一つ被っている様子はない。何よりもおかしいのは、建物の中が明るいということだ。


 この世界では蝋燭や、魔力によって灯される魔力灯が主たる灯りである。それらは当然、そこに住む人間が取り替えたり、魔力を充填する事で機能するものだが、人の気配がないこの屋敷の中で保たれているのは絶対にあり得ない。この世界に来て一ヵ月と少しになる無明でさえ、それが異常だとすぐに解る事態だ。

 だが、それに対する答えが、無明の中にはまだ見つかっていない。


「普通に考えれば、何者かがここに潜んで生活し、管理しているとみるべきだが……それにしては生活感というものが全くないでござるな」


 そう、誰かがここで暮らしているのなら、何らかの形で気配を感じるはずである。それは食事の匂いであったり、生活音であったり様々だろうが、そう言ったものが一切ない。無明は日本で迷い家マヨヒガと呼ばれる怪異の存在を耳にした事はあるが、迷い家マヨヒガの場合は、そこに人の気配が感じられるものである。まるで今の今までここに誰かがいて生活をしていたような痕跡がある、というのが迷い家マヨヒガだが、この屋敷はそれとは全く逆に人がいない事を感じさせるものばかりなのだ。


 ある程度進んだ時、突然、玄関の方から扉の締まる音が聞こえた。無明が急いで戻ってみると、開け放っておいたはずの玄関の大扉は完全に締まっており、どれほどの力を入れて押しても引いても、ビクともしない。お手上げの状態だった。


「閉じ込められたか……しかし、これはこれで一つ前進したと言うべきでござるかな」


 閉じ込められたと知った無明だったが、後ろ向きなままではいなかったようだ。何故ならここへ来て初めて、何か他者の意思と言うものが感じられたからである。相手の正体こそ未だ不明ではあるが、少なくとも無明をここから帰さないという意志はしっかりと示された。以前、ここの調査に来たという者達もこうやって閉じ込められたということだろう。であれば、次は彼らがどこに行ったのかを探すべきである。


 ロイドの言によると、この屋敷の調査に訪れた者達は、数十人に及ぶという。しかも、一番新しいものでも数十年前だというから、彼らが生きている可能性は低いだろう。しかし、先にここへ来たものがいるのなら、何らかの手掛かりは残っているかもしれない。ましてや、それらが優秀な冒険者達であれば尚更だ。

 そして、無明のような忍びは、そうした痕跡を探るのがもっとも得意なのである。久々に忍びとしての腕がなると、無明はどこか喜びを抱きながら屋敷の中を再び進んでいった。







「ようやく森を抜けたか。無明のヤツ、私を置いていくなんて……!あれほど一緒に行くと言っておいたのに」


 無明の到着から遅れる事、およそ一時間ほど後。大レナーラ湖の湖畔に辿り着いたのはジークリンデとロスヴァイセである。二人は無明と共に屋敷の調査をするつもりでいたのだが、ロイドの説明から危険だからと言われて置いて行かれてしまったのだ。しかし、この二人はその程度で大人しく引き下がるようなタイプではなかった。そもそもジークリンデは今回の件を、家族の問題に無明を巻き込んでしまったと負い目に感じているのだ。その為に危険な場所へ行くというなら、尚更指を咥えて見ていることなど出来るはずがない。二人がこういう行動に出ると思い至らなかったのは、無明の落ち度と言えるだろう。


「お嬢様、あちらが件の屋敷のようです。無明様はもう中に入られたようですね」


「あれが誰一人帰って来ないという屋敷か……外から見た感じは普通の建物だが、きっと見た目通りのものではないんだろうな。ロヴァ、準備はいいか?」


「はい、問題ありません。補給なしでも数日は過ごせるだけの用意をしてきております」


 そう語るロスヴァイセの背中にはギッチリと物資が詰め込まれた、大きなザックが背負われている。流石は傭兵として生きてきただけあって、準備は万端なようだ。それを見たジークリンデは頼もしそうに頷いて、ゆっくりと屋敷の門を抜け玄関の大扉へと向かっていくのだった。

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