「それにしても、近くで見てみるとそんなに荒れていないものなんだな。普通、百年以上も手入れをしていないなら、庭も建物も酷い事になりそうだが」
「それも含めて、このお屋敷が異常なものだという証拠なのかもしれませんね。……ロイド様から頂いた詳細な情報によると、このお屋敷の持ち主はアルベリヒ・ニーベルング公爵という方だったそうです」
「アルベリヒ……聞き覚えがあるな。確か、歴史の授業で学んだ名前だったはずだ。そうだ、勇者が異世界から転生してくる直前に魔王と戦う為に旅立ち、多くの魔族を打ち倒したと言われた伝説の人物だ」
警戒しつつ玄関まで進む二人は、そんな会話をしながら屋敷の持ち主に思いを馳せていた。ジークリンデの記憶にあるように、当時、アルベリヒ・ニーベルングはこの世界でも屈指の実力者として魔族と正面から戦う貴族であったという。それまでにも何人か、高い実力を持って魔族と戦う者達はいたが、アルベリヒほどの猛者は他に居なかったらしい。彼は『人類の切り札』や『希望の英雄』と謳われ、もしも魔王を倒せる者がいるとするなら、それは彼だろうと目されていたようである。
そんな人類最強の呼び声高かったアルベリヒだったが、その力は魔王を始めとする魔族達にとっても脅威だったのだろう。彼は魔王と相対する前に、魔王の腹心と言われた魔族の戦士ファフナーと戦うことになった。二人の力は互角で、熾烈な戦いは三日三晩続いたといい、僅かな差で勝利はアルベリヒのものになるはずだった。そうならなかったのは、戦場にファフナーの娘だという魔族の少女が割って入ったからだ。
ファフナーの娘ミーメは、アルベリヒとファフナーの死闘の最中、まるで人間の親子のように父であるファフナーを庇おうとした。不運だったのは、アルベリヒには子がおらず、誰よりも子を欲して親となる事を望んでいた人物だったことだろう。トドメを刺そうとしていたアルベリヒは、そんなミーメの行動に動揺して動きを止めてしまった。そして、それを最後のチャンスとみたファフナーはミーメと自分自身の身もろともにアルベリヒを巻き込んで壮絶な自爆をし、相討ちとなったのだ。
これが、貴族達が歴史の授業で学ぶという、偉大なるアルベリヒ公爵の逸話である。
なお、このアルベリヒの死去からほとんど間を置かずして、異世界から勇者と呼ばれる存在が転生してきた。彼は圧倒的な力を以て並み居る魔族を打ち倒し、召喚からたったの三カ月で魔王を打ち倒したのだという。その後、勇者の行方は解っておらず、また勇者について個人的に関りを持っていた人物も少なかった為、勇者についての逸話や情報は驚くほどに残っていないのだそうだ。疾風のように現れて、疾風のように去って行った男……それが勇者である。
そんな勇者についてよりもアルベリヒの逸話を歴史として多く学ぶのは、勇者について学びたくとも学ぶだけの情報がない事も原因だった。
「私達貴族にとっての英雄は、勇者よりもアルベリヒ公の方だからな。そうか、ここはアルベリヒ公の別荘だったのか」
「貴族とはかくあるべし…ですか」
「そうだ。いかに魔族が怨敵といえど、心優しき幼子を前にして情けを掛けられぬ非情な人間になってはならないという教えだな」
「それが私にはよく解りません。魔族に情けを掛ける必要など、あるのでしょうか?」
「その気持ちは解るよ。私達は心を鬼にして魔族と戦わねばならない、しかし、心の底まで鬼と化してしまったら魔族と変わらないだろう。民を従え導く貴族として、彼らと同じ魔に堕してはならないという戒めだな。……その、全てを認めた訳ではないが、ロヴァが私達の家族になるなら、君もこれからは貴族の一員なんだ。そういう意識は持っておいた方がいい。それに、リジェレを見ていると、魔族が本当に悪なのかもよく解らなくなってくるしな」
「お嬢様……」
そう呟くジークリンデの頬は真っ赤に染まっている。あの母への反発と反抗心もあって簡単に認める事は出来ないが、ジークリンデ個人としてはロスヴァイセが家族になるのは嬉しい事だと思っているようだ。
そんなジークリンデを微笑ましく思いつつ、玄関に着いたロスヴァイセは大扉に手を伸ばして力を込めた。無明があれほど開こうとしても開かなかった扉は、外からだと問題なく開くらしい。ズズッと重く引きずるような音がして玄関の大扉が開いていく。そうして室内に入った二人は、その静かな雰囲気に眉をひそめ、声をあげた。
「無明!いないのか?無明、私だ!ジークリンデだ!……ダメだ、近くにはいないのか」
「かなり広いお屋敷のようですし、外から見た所では上階もあるようです。ここからでは聞こえないのかも知れませんね」
「進むしかない、か。行こう」
二人は顔を見合わせ、小さく頷いて一歩を踏み出した。中に入ってみても、相変わらず人の気配が全く無い為に無明が本当に仲に入ったのかも不明だ。ロスヴァイセの言う通り、かなり大きな屋敷なので呼びかけが聞こえなくても仕方がないだろう。
そのまま二人が進んでいくと、
何度か廊下を曲がり、扉を開けて進んでいくとそこでようやく変化が起きた。薄暗い廊下の先で、何かがうずくまっているのだ。
「人……?!まさか、無明か!?」
「お嬢様、ダメです!」
咄嗟に近づこうとするジークリンデの腕を掴んでロスヴァイセが大声で制止する。その声に気付いたのか、うずくまっていた何かがゆっくりと振り返りその顔を覘かせた。
「な、ななな……っ!?」
「か、怪物……!?」
それは口元を真っ赤に染め上げ、石のような灰色の肌をした女であった。瞳は完全に混濁して不気味に白く光っており、肌の一部は腐り落ちて骨が見えている。明らかに生きているとは思えない様子だ。そのゾンビ染みた女はゆらりと立ち上がり、ボロボロのドレスと髪を振り乱しながら、ジークリンデ達の方へゆっくりと近づいてきた。
いかに狂戦士と剣神のスキルを持つ二人であっても、生理的な嫌悪感からは逃れられない。ゾワゾワと寒気がして肌が粟立ち、剣を抜く事さえ忘れてしまうほどに驚いている。女ゾンビの動きがゆっくりなのでまだ余裕はあるが、かといって、このままではただでは済まないだろう。
一歩、二歩…と歩みを進めて近づいてくる女ゾンビを前にして、ジークリンデ達は同時に動き出し、振り返って走り出した。訳の分からない相手ではあるが、走れば追い付かれる事はまずない速さだ。一旦心を落ち着かせる為にも、外へ逃げ出てしまえばいい、二人はそう思ったのだろう。……だが。
「ドアが……開かない!?」
玄関の大扉まで戻ってみれば、無明の時と同じように、玄関は一枚岩のようにガッチリと固まって動こうとしなかった。怪力自慢の二人が力を合わせてみてもビクともせず、蹴っても叩いても傷一つ付かないのだ。ここへ来て、二人はようやくここが危険な場所だというロイドの依頼の意味を理解した。
「くっ!?どうなっているんだ?!窓さえも壊れないなんて!」
「剣で斬りつけても弾かれるばかり……これは、何らかの魔法かスキルがかかっているのでは。閉じ込められたようですね」
「こうやって調査に来た人達は帰って来れなくなったのか。こうなると、他にも何か怪物が潜んでいるかも……っ?!」
二人が玄関付近で立ち往生している間に、女ゾンビはゆっくりとこちらへ向かってきていた。ズルズルと床をする足音が不快で耳障りだ。二人は緊張しつつ、その足音が聞こえる方向を睨みつけるのだった。