そのメッセージは、走り書きか殴り書きのように荒く、また小さく書き込まれていた。まるで、誰かが急いでここに書き足したかのようだ。
(さっき私もここを見たはずだったんだが、こんなものがあったか?見落としか?)
「ふむ。何々、『たゆまぬ英雄の歩みが、困難を退け道を開く』……か。今までの謎解きと似ているでござるが、はて」
無明はざっとホールを見回すが、特に英雄と関連付けられそうなものは何も見当たらなかった。強いて言うならば、肖像画に描かれているアルベリヒ公が英雄と言えるかもしれないが、これはどこをどう見ても絵である。とても歩き出しそうにはないし、何かが起こりそうな様子もなかった。
「英雄……歩み……しかし、ここにはそれらしいものは何も……困難を退ける?何かの暗喩か……それとも……」
「ロヴァはすっかり解読モードに入ってしまったな。私達にも何か出来る事があればいいのだが」
「余計な事を言って、思案の邪魔をしてもいかんでござるしな。…………しかし、我々にもやれることはあるようでござるぞ」
「え?」
無明はそう言うと、そっと廊下側の壁に耳を押し当て、外の物音を聞き始めた。ジークリンデは怪訝な様子でそれを見つめていたが、すぐに何かを察したようだ。静かに剣を抜きドアに向かって立ちはだかる。
「無明、敵か?」
「いかにも。ゆっくりだが、確実に近づいてきているでござる。だが、どうも足音が混ざっていてよく解らぬ。かなりの数がいるのは間違いなさそうでござるが」
「なるほど。……こういうことか、実に解りやすいな」
無明の答えを待つまでもなく、ジークリンデが状況を察せられたのは廊下に面した壁が段々と古く傷んだ姿に変わり始めたからだ。ここに来るまでにも何度か怪物の襲撃はあったが、ほとんどが不意打ちに近い接触だったので変化を目の当たりにすることはなかった。しかし、今初めて変わりゆく様を見ていると、その異常さがよく解る。
緊張で手に汗をじわりと滲ませながら、絵画が絵具で無理矢理に塗り替えられていくようだなと、ジークリンデは思った。もちろんこれは絵ではなく現実なのだが、そう思いたくなるほど、理解を超えたものだったのだ。
そして、そんなジークリンデの様子に気付いたのか、無明はすぐに壁から離れて忍者刀を抜き、ジークリンデの前に出た。
「ジークリンデ殿、ここは拙者が打って出よう。ロスヴァイセ殿を守ってくだされ」
「無明?しかし……!」
「なぁに、心配無用でござる。たかが亡者の群れなど、恐るるに足らぬ。では、頼んだでござるぞ!」
「あっ!」
ジークリンデが止める間もなく、無明は部屋を飛び出していった。それが彼なりの気遣いだと、ジークリンデにはよく解っている。実を言えば、最初に出会ったあの女ゾンビが半ばトラウマのようになっていて、余りのおぞましさに想像しただけで震えがくるようだ。冒険者時代には何度も怪物と戦った事はあるが、あそこまで嫌悪感を抱かせる敵は初めてだった。
(理由は解っている……あの怪物が
ジークリンデの脳裏に浮かんだのはかつての仲間だ。彼女が学生時代に冒険者として活動をしていた仲間……その少女に、あの怪物はよく似ていたのである。
「てぇいっ!」
部屋から飛び出した無明は、まず一番先頭にいた山羊頭の怪物の首を刎ねた。暗がりの中で鮮血が飛び散り、壁や床を汚す。しかし、その後に続く廊下を埋め尽くさんばかりの怪物達は仲間の死に怯むことなく、無明に強烈な敵意を向けていた。
「これはこれは……見事な百鬼夜行でござるな。壮観ではあるが、ジークリンデ殿達には少々刺激がきついようでござるぞ!」
怪物達の群れは、実にバリエーション豊かな集団だった。最初に出会った女ゾンビのような亡者もいれば、たった今倒した山羊頭の怪物のような悪魔、更にはスライム状のモンスターなど……他にも様々な存在を雑多に集めて放ったような、異様な光景である。
無明はそれらと対峙して、右手を引き、力を溜めて拳を放つ。
「火遁!忍法・
高速で振り抜かれた拳から火の手が上がり、それが大きな炎の車輪となって怪物達の群れへと突撃する。
燃え上がる虚火車は強烈な勢いで怪物の群れを踏み潰していった。しかし、まだかなりの数の怪物が残っており、壊滅には程遠い。
「手持ちの火薬の残量では、全てを屠るという訳にはいかんか。……ならば!」
無明は再び忍者刀を構えると、すかさず群れの中へ飛び込んで刃を振るった。廊下にしては広いとはいえ、この狭い屋内と、黒焦げになった怪物の死体が山積みになった状況では、とても光速まで加速は出来ないがそれでも凄まじい速さだ。怪物達の大半は無明の速度にはついていけず、更なる敵の躯が積み上げられていく。
一方、その頃、ホール内では剣を手にしたまま、ジークリンデがドアを睨んで立ち尽くしていた。本当であれば無明と共に暴れたい所だったが、万が一、打ち漏らした敵が室内に入ってきた時、思案しているロスヴァイセを守れるのはジークリンデしかいない。それを考えると、迂闊に飛び出して隙を晒す訳にはいかなかった。
「また無明一人に頼らなければならないとは……悔しい、私にももっと力があれば……」
「お嬢様っ!」
「ぅわぁっ!?な、なんだロヴァ、どうしたんだ!?」
「お嬢様、解りました。あのメッセージの意味が!」
「なに!?本当か?!」
「はい、あのメッセージに込められた英雄の歩みとは、恐らく『英雄の騎行』です!」
「英雄の騎行……って、あの交響曲の?」
それは、かつて魔王討伐の最中に命を落とした英雄、アルベリヒ・ニーベルングを称える為に作られた曲である。彼の人生を完璧に切り取り表現したと評され、この国では、いや、他国でも知らぬ者はいないと言われるほど有名な楽曲だ。
だが、ジークリンデには、それがどうしてあのメッセージと繋がるのかが理解できていなかった。
「待ってくれ。どうしてあのメッセージが英雄の騎行だという事になるんだ?仮にそうだとして、一体、どういうことなんだ?」
「英雄の歩みとは、アルベリヒ公の歩んだ戦いの人生に違いありません。そして、それを切り取って曲に落とし込んだのが英雄の騎行です。だからこそ、この部屋にはアルベリヒ公の肖像画があり、
「ということは、もしかして……」
「はい、恐らくこの部屋に隠された仕掛けは、あのピアノを使って英雄の騎行を弾く事なんです。ですから、どこかに楽譜が隠されているはず……」
「楽譜って、そんなもの、どこにも……」
二人はホール内を改めて見回したが、それらしいものはどこにも見当たらなかった。本当にこのホールは、清々しいほどに物がないのだ。ピアノと肖像画だけが、この広いホールに置かれたものの全てである。広い部屋にピアノはあるのに、その演奏を聞く人が座る椅子さえないというのは、奇妙過ぎるレイアウトだろう。
そうしてしばらく二人でホールの中を探し回ったが、やはり、楽譜は見つからない。
「ダメですね。……楽譜さえあれば、この状況を打開できると思ったのですが」
「ロヴァ、こう言ってはなんだが、その謎解きが出来たら本当に状況が変わると思うか?外では無明が懸命に戦ってくれている。謎解きよりも、私達は彼と一緒に戦うべきでは?」
「お嬢様の仰りたい事は解ります。ですが、私にはこの屋敷に残された謎そのものに、意味があるような気がするのです」
「謎の、意味?」
「はい。これだけのお屋敷で、ここに至るまでに張り巡らされた数々の謎……それがどうしても、遊びで作られたものとは思えません。これは物語ではありませんが、本を嗜む物として断言できます。これだけのものを仕込む人間が無意味にそれをすることなどありえません。私はずっと考えていました、この屋敷は、訪れた者を試しているのではないかと」
「試している……?」
「ええ。知恵と武勇、それらを兼ね備えた存在をこの謎を用意したものは求めている……そう思えます」
その時、壁の向こうの廊下から、ダダン!と激しく何かがぶつかる音がした。まさか無明がやられたとは考えにくいが、万が一という事もある。ジークリンデは意を決したようにピアノへ向かった。
「いいだろう。ロヴァ、私が演奏しよう」
「お嬢様?しかし、楽譜がなければ……」
「ふふ、私を誰だと思っているんだ。これでも貴族の令嬢だぞ?英雄の騎行なら、今までに何百回、いや何千回と練習してきているさ。それこそ、楽譜など無くても演奏できるくらいにね。ピアノは貴族令嬢の教養の一つだからな」
ジークリンデはウィンクをしてピアノの前に座り、目をつぶった。確かに、貴族令嬢は教養や嗜みとしてピアノを習う事はある。しかし、楽譜を見ずに空で演奏するとなると、それはかなりの技術と繰り返しの鍛錬が必要になるだろう。何よりも、ロスヴァイセの想定には演奏が失敗したらどうなるか?という部分がない。それが、ジークリンデにプレッシャーとなって重く圧し掛かる。
(無明はたった一人で、私達を守る為に戦ってくれている。……ならば、私だってそれに応えたい。今の私に出来ることがこれしかないなら、私は全力で演奏するまでだ!)
そうして、ジークリンデはかつてない緊張感の中で、鍵盤を叩きだす。その手は滑らかに、まさに踊っているかのように鍵盤の上を滑り続け、ジークリンデは全身全霊を懸けて演奏するのだった。