一打、また一打と鍵を叩く度に、ジークリンデの身体の中から熱が湧き出て、それが体内で暴れ狂うように波打っては消えていく。それに引きずられるようにして体力が失われ、ジークリンデは演奏開始から数十秒で、尋常でない程の疲労に襲われていた。
(決して疑っていた訳ではなかったが、この異常な感覚と疲れは普通じゃない!確かに、このピアノには
英雄の騎行は、本来は交響曲だけあってその長さも30分以上あるものだが、今ジークリンデが演奏しているのはピアノだけで演奏できるように編曲された独奏バージョンだ。その為、実際に演奏する時間は精々20分弱といった所だろう。しかし、それでもそこそこの長丁場であるし、何より先程表現した通り、ピアノ自体が何かの力を持っているからか、演奏しているジークリンデの疲労は通常よりも遥かに大きい。だが、ジークリンデは自分でもかつてない程の集中力を持って演奏に取り組むことで、ミスなく演奏してみせていた。
「お嬢様、なんて素晴らしい……!」
それを見守るロスヴァイセは、ジークリンデの鬼気迫る演奏姿に心を奪われ、感嘆の声をあげた。設置されたピアノで英雄の騎行を演奏する所までは思いつく事が出来たが、流石に傭兵団育ちのロスヴァイセにはピアノを演奏する技術はない。団の仲間の中にはそうした技術が得意な仲間もいるので、演奏技術の良し悪しくらいは解るのだが、そんな彼女から見てもジークリンデの演奏は堂に入った大したものであった。
「この音は?そうか、これが
一方、廊下で大立ち回りを演じていた無明は、眼前の様子に困惑しつつそれをチャンスと見た。何故なら、ホールからピアノの音がかすかに聞こえてきた途端、目に見えて怪物達の動きが悪くなってきたからだ。場所が廊下という狭さと数の差で思うように戦えなかった事もあり、無明はこの世界に来て初めて苦戦を強いられていたのだが、怪物達の群れが動きを遅らせた事で俄然戦いやすくなった。
無明は気合を入れ直し、怪物の群れから少し離れて右手に忍者刀を構えたまま、左手を腰だめに構え印を結ぶ。
「ふうぅぅ……!いくぞ!
無明が叫ぶと同時に、全身を包むように激しい突風が吹き荒れ始めた。
だが、それを見越した無明は持ち前のスピードを駆使して、敵集団の中央へと飛び込んでいった。こうすることで密集している敵を効率的に攻撃出来るのだ。もちろん、その間も忍者刀による攻撃は忘れない。
多くの敵を攻撃するなら、もっとも攻撃力が高いのは先程使った火遁の虚火車で、次に敵を押し流す水遁の技があるのだが、残念ながら屋内で使うと自分にも被害が及ぶ可能性がある。まして、今この屋敷は外へ出る事が出来ないので、水遁で水を大量に溢れさせれば溺れてしまうのはこちらも同じだ。その為に、纏かまいたちを使ったのである。
あっという間に怪物達の大半は風の刃と忍者刀の連携により、大量の屍へと変わっていく。あと少しで殲滅出来るというその時に、それは現れた。
「むっ!?コイツは……!」
かなりゆっくりとした歩みで無明の前に立ちはだかったのは、身長にして2メートルほどの大きさをした、全身鎧を着こんだ人物であった。2メートルといっても、他の怪物達よりは小ぶりで、人間大のサイズではある。ただ、その鎧は分厚く頑丈な岩を削り出して作られており、いかに風の刃と言えど切り裂く事は出来そうにない。更に、忍者刀で斬りつけても弾かれてしまう頑丈さだ。
その手には成人男性ほどの大きさもある巨大なハンマーが握られていて、無明の攻撃を無効化しつつ、彼目掛けてそのハンマーを振り下ろそうとした。
「ちっ……!」
刃が通じないと気付いた無明は、すかさず鎧の腹部分へ乗るようにして軽く跳び、蹴りを放った。その敵は体幹も凄まじく、無明の蹴りを受けてもビクともせずにそのままハンマーが振り下ろされた。しかし、その蹴りはあくまで無明が一撃を避ける為の一手だったようだ。無明はその蹴りの反動を利用して後方へ飛び、ハンマーの一撃を回避した。
「拙者の蹴りを受けてビクともせぬとは、こやつ一体……!?」
無明は信じられないといった様子で、その敵を睨みつけた。光速に匹敵する速度を誇る無明の足から繰り出される蹴りは、本来であればそれだけでも必殺の威力がある一撃だ。いくら鎧を着ていても、無傷どころか身動ぎもしないなど考えられないことだった。にもかかわらず、この敵は動じずに反撃すらしてくる有り様だ。
ただ、元々鈍重なのか、ジークリンデの演奏が効いているのかは定かではないが、動きが緩慢なのは幸いである。無明は息吹を吐いて忍者刀を鞘に納めると、何かを確かめるように再び両手で印を組み、技を放った。
「かあぁっ……!風遁・忍法
指を曲げ、両の手のひらで空気を掴むようにして腕を回して振り抜くことで、それぞれ二つの小型竜巻を発生させる。そして、その竜巻がぶつかり合って真空状態を作り出すのが、
轟々と轟音を響かせてぶつかる竜巻は、動きの遅い鎧の怪物では避けることなど不可能だ。それらは完全に命中し、怪物を中心に真空のフィールドが形成された。しかし。
「なんとっ!?この状態でまだ動けるのか!?」
鎧の怪物はギシギシと身体を軋ませながらそれでも一歩ずつ無明へ向かって前進していた。いかなる生物であろうと、真空状態で生きる事など出来はしない。ましてやその中で歩を進めることなどあり得ないことだ。驚くべき耐久性を持つクマムシでさえ、真空状態では活動を停止するのである。
その様子を目の当たりにした無明は、そこで一つの答えをみた。
聞こえてくる英雄の騎行が段々と激しさを増し、いよいよクライマックスにさしかかる中、無明は次の一手に打って出ることにした。流石の無明も大技の連発で疲れが見え始めている。次に繰り出す技で仕留められなければ、後は無い。
「やれやれ、ここまで追い詰められることになろうとは……お主は大したヤツだ。次に見せる拙者の技に耐えられたなら、遠慮なくこの首、持ってゆくがよい」
徐々に竜巻の勢いが衰え、真空状態が解除されていく。流石の無明も、真空の中に飛び込んでは命はないので、それが消えたその瞬間が合図だ。そのタイミングで全力の一撃を放つしかないだろう。
無明は徐に手甲と足に履いていた脛当を取り外し、それらを変形させ組み合わせて一つの筒を作った。それから大きく深呼吸をして目をつぶり、機を計る。
「……ここだ!」
鎧の怪物を縛る真空が消えたと同時に、無明は全速力で怪物の懐に飛び込み、筒先を押し当てた。その動きの速さによって、再び火花が巻き起こり、筒の中で爆発するかのように炎が巻き起こる。
「火遁・忍法
ゼロ距離から放たれる爆発と炎の槍……火竜槍とは、古くは明の時代に開発された火槍という武器の強化発展型である。それをアレンジして、忍法として確立させたのが虚火竜槍だ。本来の火竜槍は応仁の乱の頃に日本へ伝来したが、その後時代の進化と共に威力不足となり、使われなくなってしまった。しかし、無明の祖父である天才、霧隠才蔵は、それを忍術として昇華させる事で更なる威力の向上を実現させた。この技こそ、無明が単独で放つ事が出来る技の中で最も威力に秀でた技なのだ。
鎧の怪物の胴体には大きな風穴が開き、怪物は身体を軋ませながらその動きを停止した。それは、奇しくもジークリンデの奏でる英雄の騎行が、その演奏を終える瞬間と全く同じタイミングであったという。