「ふぅっ……はぁっ、はぁっ!お、終わった…………」
「お嬢様っ!ご無事ですか!?素晴らしい、本当に素晴らしい演奏でした!」
「あ、ありがとう、ロヴァ。私は大丈夫だが、少し疲れたな。まぁ、休めば大丈夫さ……それより、何か変化はあったか?」
ジークリンデが問いかけると、よほど感動したのか目に涙を湛えたロスヴァイセがそっとホールの奥を指差した。ジークリンデは演奏に集中していたので気付かなかったが、そこには人間一人が通れるほどのドアが現れていた。よく注意して見てみれば、いつの間にか、他の汚れて傷んでいた壁も元の美しい形に戻っている。という事は、怪物も消えたに違いない。
ちょうどその時、ホール入口のドアが開いて、廊下から無明が戻ってきた。いつも飄々として疲れなど見せない彼が、今回ばかりは疲労困憊という様子で、少し足元が覚束ないようだ。ロスヴァイセとジークリンデは慌てて無明の元へと駆け寄り、声を掛けた。
「無明!大丈夫か?!」
「やぁ、二人共、ぴあのとやらの演奏、聞こえていたでござるよ。大したものでござった」
「そんなこと……いや、ありがとう。しかし、無明こそかなり辛そうじゃないか。相当無茶をさせたようだな、すまない、私達の為に」
「なに、忍術を多用して少々疲れただけでござる。少し休めば問題ない。それで、何か変化はあったのでござるか?」
無明の質問に、ジークリンデ達は苦笑いしながら出現したドアを示した。何故二人が笑っているのか無明には解らなかったが、それは大丈夫かと問われた無明の答えがジークリンデとそっくりだったからである。無明とジークリンデは、強がる所や強がり方まで一緒なのだ。それが何ともおかしくて、二人は笑ったのだった。
そして、その場で数分休んだ三人は、現れたドアの向こうへ進むことにした。鬼が出るか蛇が出るかという緊張感の中、進んだ先にあったのは更に狭い小部屋だった。大きさ的には人間一人が入ってピッタリというサイズだ。
その部屋には床に階段が作られていて、どうやらそこを下っていくのが正解らしい。三人は訝しみながらも地下へと潜ってみることにした。
コツコツと石造りの階段を下っていくと、足元には冷えた空気が感じられる。ややらせん状の階段は緩やかで、降りるのに苦はない設計だ。ただ、そこそこの段数がありそうなので、疲れ切っているジークリンデには帰りに登るのが心配だった。しばらくすると階段は終わり、そこには一つの部屋と繋がっていた。
「な、なんだこれは……?!」
「これはまた……」
「……」
三人はそれぞれ絶句し、言葉が出ないようだ。何故ならそこは、およそ公爵家の屋敷には相応しくない少女趣味、いや、幼女趣味が全開の部屋だったからだ。八畳ほどの室内は床から始まり、壁紙に至るまで全てがピンクで統一されていて、本棚や机にはかわいい動物のぬいぐるみが所狭しと並んでいる。現在十三歳のエスメラルダの部屋でさえ、ここまでではないだろう。もっとも、彼女の場合は年齢以上に落ち着いているので比較対象にもならないのだが。
「これが、これがあの英雄と謳われたアルベリヒ公の部屋なのか?信じられない……」
「よく解らんが、少なくとも元服済みの男の部屋とは思えんでござるな。……ええと、何々『ベリちゃんのひみつにっき☆』?これは一体……」
「どうやら、隠したかったのはこの部屋の存在だったようですね。確かに、イメージが崩れますから隠したくなる気持ちは解りますが」
呆気にとられる三人の前に、ゆらりと何かが揺らめいた。それは影となり、やがて一人の人間の形を取る。そして、影はゆっくりと椅子に座り、真っ黒な形のままでこちらを向いた。
『――よくぞここまで辿り着いた。試練に打ち克ち、知恵と力を示した者達よ。私はこの部屋を守る為に遺された者……さて、お前達は何故ここへ来た?』
「へ?ああ、いや、私達がここへ来たのは、この屋敷にかけられた呪いを解くためで……って、もしかして」
突然問われたジークリンデは、少し焦っていたものの、ふとその問いかけに疑問を抱いた。目の前の影は、この部屋を守る為に遺されたと言った。つまり。
「ここに至るまでの試練…とやらをけしかけてきたのはあなたなのか?」
『その通りだ。我が主、アルベリヒは、自らの秘密であるこの部屋を他人に決して見せたくなかったのだ。ここに立ち入ってよいのは、主と主が認めた知恵と力を持つ者のみ……私はそう言い含められている。だから、私はここへ来たものに試練を与えてきた』
「この部屋を他人に見られたくないと思う気持ちは十二分に理解出来ますね。ということは、あなたはこのお屋敷そのものだという事でしょうか?……屋敷が意思を持つなど、聞いたことがありませんが」
「ははぁ、なるほど。つまり、ここは化け物屋敷ならぬ、
「厄介なんてレベルじゃないと思うが……というか、屋敷を怪物に変えてしまうなんて、そんな事が可能なのか?」
ジークリンデは俄かには信じられないといった様子で首を傾げている。すると、影は首肯して、その疑問に答えた。
『無論だ。我が主は自らのスキルを用いて私を生み出し、この部屋の番人としたのだから。いつか、ここに相応しい人間が来た時、私の役目は終わる。そう聞かされてきた』
「スキルだって!?家を使い魔にしてしまうなんて、一体どういうスキルなんだ……」
すると、何気なく無明が手にしていた『ベリちゃんのひみつにっき☆』がぼんやりと光りを放ち、独りでにパラパラとページが開かれていく。全員が唖然とする中、とあるページで、その動きが止まった。
――5月16日、昨夜は不思議な夢を見ちゃった☆なんとベリちゃんの夢に女神様が出てきたんだ、ビックリコキマロ~★!なんでも、女神様がこの世界を創る時に設定した大事な大事なスキルシステムが暴走し始めてるんだって!?ベリちゃんチョ~怖イッ!(>_<)で、ベリちゃんのスキルもおかしくなっちゃったから、気を付けてねって言われちゃったぁ。ションボリ……ベリちゃんが選んだものは何でも使い魔になっちゃうスキルって、ベンリだと思ったのになぁ~~((+_+))とりあえず、悪用しなければそのままでおkって言われたから、ひみつにっきとか守ってもらおっかな?!これからどうなっちゃうんだろ~、ベリちゃん困っちゃうな☆ミ――
「なんだこの頭の悪い日記は!?……これが本当に、かの英雄が遺した言葉なのか」
「ま、まぁこういう文章もあるのではないでしょうか……」
「ロスヴァイセ殿、顔色が酷い事になっているでござるよ」
特に本好きなロスヴァイセにとって、アルベリヒの日記はダメージが大きいらしい。これはあくまで個人の書いた日記なのだから、どんな文体や文章でも構わないはずだが、それでも酷い文章というものは、目にするとキツイものがある。ロスヴァイセの苦悩を心配しつつも、無明はその内容について、気になる部分があったようだ。
「しかし、女神様とやらが告げたスキルの暴走というものが気になるでござるな。これは、拙者が頼まれた事に繋がるのでは?」
そう、無明がこの世界に転生する直前、女神によって依頼されたスキルの回収という使命。それは、この日記に記されているスキルシステムの暴走というものに関係があるような気がするのだ。相変わらず、肝心の女神から正確な話が聞けない以上、これは重要なヒントであるとも思えた。
『その日記を持っていくがいい。どの道、私に課せられた使命はこの部屋に辿り着く者が現れるまで、ここを守り抜くこと。お前達のようなものが現れたのだから、私の役割は終わった。これでようやく、私は解放されるのだ』
「え?それは、どういう……な、なんだっ!?」
ジークリンデが問い質そうとしたその時、地鳴りのような低い音が響いて、地下だというのに部屋が揺れ出していった。まさか、と考えた瞬間、影はふっと消え去り屋敷全体を轟音が包み込む。
「まずい……この屋敷、崩壊するようでござるぞ!?」
「はぁ!?冗談じゃない、こんな地下で屋敷が崩れたら生き埋めだっ!」
「逃げましょう!」
三人は大慌てで、階段を上って来た道を戻り、屋敷の外へと走った。鳴動を続ける屋敷は、二百年分の時間が一気に過ぎていくようで、それに耐えきれなくなったのだろう。辛くも三人が屋敷から脱出するのと同時に、屋敷は崩れ落ち、灰のようになって消えていった。
「間一髪……危ない所でござった」
「大変な一日だったな……」
「ところで、お屋敷はなくなってしまいましたが、無明様の引っ越し先はどうなるのですか?」
「あ!?」
すっかり忘れていた本来の目的を思い出し、無明とジークリンデはガックリと肩を落とした。その後、三人が家に帰ってエスメラルダに事の顛末を話すと、何とも言えない目で見られたのは別の話である。