「ふぅむ……」
無明はずいぶんと渋い顔をしながら、何かを読んでいる。読んでいるのは、先日、アルベリヒ公の別荘から持ち帰って来た『ベリちゃんのひみつにっき☆』だ。どうやら彼は女神の夢を見て、スキルについてお告げのようなものを得たらしい。無明がこの世界に転生してくるきっかけとなったのもその女神であるから、何か女神について情報はないかと読み込んでいるのだ。しかし、結果は思わしくなく、今の所はただひたすらに読み難くて意味のほとんどない日常や感想が綴られているだけである。
「無明、何をそんなに悩んでいるのだ?」
「これ、リジェレ。悪戯をするでない。これは故人の大事なものなのだぞ」
「別にそんなのにキョーミないのだ。でも、そんな辛そうな顔をしてまで読むものなのだ?」
「辛い訳では……ないこともないのでござるが、これは日記でござるからな。本来、人に読ませる類いのものではないのだから、読み辛いのは致し方あるまいて。しかし、どうしてこれを持ち帰れと言われたのかが解らぬ。せめて、女神様とやらの情報がもう少しあれば……」
無明がそう呟くと、リジェレは何やら不思議そうな顔をして首を傾げた。
「無明は女神の事が知りたいのだ?」
「まぁ、そうでござるな。拙者をこの世界に呼んだのは女神様だという所までは思い出せたし、スキルを集めろという指示も解ってはいるが、どうもイマイチはっきりせぬ事も多い。もう一度、詳しく話を聞かせて貰いたい所でござる」
「そっか……考えておくのだ」
「は?」
意味の解らないリジェレの返答に今度は無明が首を傾げたが、それっきりリジェレは猫のように丸まって眠りに就いてしまった。こうなると、リジェレはテコでも起きようとしないので、無明は諦めるしかない。もちろん、本気で起こそうと思えば拷問するなりなんなりで起こす手段はいくらでもあるが、そこまでする必要もないだろう。無明はこれまでの経験で、この気まぐれな同居人の言う事を真面目に取り合ってはいけないと学習しているのだった。
ちょうどその時、コンコンとドアをノックする音がして、無明はそれ以上リジェレを構うのは止めてドアの方へ向かう。ドアを開けて待っていたのは、エスメラルダであった。
「おや、エスメラルダ殿。どうなされた?昼飯にはまだ早いと思うが」
「あ、無明さんにお客様です。ロイド叔父様がお見えになりました」
「ロイド殿が?……ああ、
無明はちょうど持ったままだった日記に気が付き、それを懐にしまう。先日の一件は、元々ロイドがやってはどうか?と薦めてくれたものだったので、彼には詳しく説明しておく必要がある。一応、依頼を引き受けたのはジークリンデという事になっている為、彼女が説明に行ったはずなのだが、この日記については後日目立たぬ場所でと話していたのを思い出したのだ。
アルベリヒ公と言えば、この国では英雄中の英雄であるから、イメージが壊れすぎるこの日記はあまり表に出すべきではないという判断もあるのだろう。
「うふふ、無明さん。それが例の日記ですか?依頼自体もずいぶん楽しまれたようで……」
「う、いや、楽しかったというものではないでござるよ。というか、エスメラルダ殿」
「はい?」
「あの時も説明したが、そなたを連れて行かなかったのは危険な場所だったからであって、決して意地悪をした訳ではないのでござる。そんなに怒らないで頂きたいのだが……」
「別に?ちーっとも怒ってませんよ?ええ。謎解きとか、私だって大好きだったのに、なんて思ってませんから。うふふ」
「うぅむ……」
にっこりと微笑みながらそう語るエスメラルダの表情は、確かに明るい。彼女をよく知らない人間からすれば、間違いなく彼女は怒っていないと思うだろう。だが、エスメラルダを知る者がみれば、それは全くの見当違いだと判るはずだ。ジークリンデとその母、ブリュンヒルデは怒ると解りやすく圧を放つタイプだが、エスメラルダは怒ると笑いながら圧をかけて来るのである。はっきり言って、普通に怒られた方がよほどマシだ。しかも、本人は怒っていない体でいるから、謝る事も難しい。無明は踏んではいけない虎の尾がどちらだったのかを、今回の事で改めて思い知らされたのだった。
「よう、無明。……どうした?目に力がないぞ」
「ごきげんよう、ロイド殿。何と言うか、ジークリンデ殿はまだかわいかったのだなぁと思っていた所でござる」
「はぁっ!?お、お前……!」
「?」
通された第二応接室では、ロイドが一人で無明を待っていた。エスメラルダは無明を案内すると、スタスタと歩いて行ってしまったので、無明も気が緩んだのだろう。ロイドは無明からとんでもない爆弾発言が返って来た事に驚きを隠せないようだ。無明本人は自分のとんでもない誤解を招く迂闊過ぎる発言に気付いておらず、ロイドが何に驚いているのかもよく解っていないようだ。
狼狽するロイドが落ち着いた頃には、無明もすっかりエスメラルダのプレッシャーから解放されていて、ようやく話が出来るようになった。無明は件の日記をロイドに手渡し、それをおもむろにロイドが読み始めた瞬間、彼の口から大量のお茶が噴き出してしまった。
「ブフォッ!ゲホッゲホッ!な、なんだこれは?!これがあの英雄アルベリヒの日記だというのか!?」
「汚いでござるぞ、ロイド殿。一応、その日記は故人の遺した大事なものであるがゆえ、あまり汚さんでくれ。……そう言えば、かのアルベリヒ公には家族はおらなんだのか?」
「あ、ああ、そうだな。すまない。家族か……確か、アルベリヒ公は独身で親や兄弟といった家族もいなかったはずだ。天涯孤独だった事が、彼自身の遺した功績により深みをもたらしたのだという学者もいたくらいだからな。しかし、こんな日記を書くような人物だったのなら、結婚も難しかっただろうな。普段の生活で隠さねばならないものが大きすぎる。というか、ベリちゃんって……」
「ロイド殿も独身でござろうが。もしや、そなたにも思い当たるフシでも?」
「ないない!絶対ない!俺の場合は、まぁその……なんだ、約束をした相手はいるんだが、今はどこにいるのか……」
「……ロイド殿も波瀾万丈な人生を送ってきたようでござるなぁ」
「か、勘違いするなよ!?兄貴のアレとは違うんだからな?!ちゃんと約束はしてあるんだ、帰ってきたら結婚しようって!聞いてるか?!なぁ!?」
段々としぼんでいくロイドの言葉に無明は何かを察したのか、敢えてそれ以上の追及はしないことにした。ロイドの場合、冒険者として活動していた時に同じパーティ内で婚約者の女性がいたのだが、年齢を理由にロイドが冒険者を辞めても彼女はそれを辞めず、今もどこかのダンジョン探索に出かけているのである。結婚してから逃げられた兄と、結婚する前に逃げられた弟という、なんとも不名誉な兄弟であった。
結局、ロイドはこの後、日記については触れずに依頼の報酬の説明をして帰っていった。アルベリヒの別荘に関しては、かなりの長い間、未解決だった依頼を解決したので報酬はかなりのものであるらしいが、それについてはジークリンデが管理することになるだろう。無明自身、金に執着がないので尚更である。それよりも、エスメラルダの機嫌をとる方法を考えるのが最優先だと無明は思っていた。
その日の夜、無明の夢に女神が出て来るまでは。