「すぅ……すぅ……」
規則正しい寝息が、室内に響いている。
寝息を立てているのは無明……ではなく、リジェレだ。彼女は夕飯を食べてすぐにベッドの中に入り、あっという間に寝てしまった。リジェレはいつも寝てばかりで起きている時間の方が短いのだが、今日は特別よく眠っている方である。
「…………」
そして同じ部屋に二つあるベッドの内、わざわざ硬い敷きパッドを追加してある方が無明のベッドだ。無明の方は、いびきはおろか寝息すらも立てずに寝るものだから、当初、リジェレは無明が死んでしまったかと誤解し、一騒動あったほどである。
この世界における貴族のベッドは、江戸時代の日本で生活してきた無明には柔らかすぎるらしく、ライトニング家に来てしばらくの間、無明は壁際で立ったまま腕を組んで眠っていた。それを夜中に目が醒めてしまったリジェレが目の当たりにして驚きのあまり気絶してしまってから、硬いパッドを入れてベッドで眠るようになったのだった。
「――無明……無明、起きて下さい。私です、目を覚まして」
「む……んん。ここ、は?」
ふとそばで女性の声がして無明が目を覚ますと、そこは見渡す限り真っ白で静寂に包まれた場所であった。その場所には見覚えがある。ここは以前、無明が転生してくる前に、女神と邂逅した場所だ。
「ここは、女神殿と最初に話した……とすると、先程の声は」
「ここです。私はあなたの目の前にいますよ、無明」
「おお……!」
まるで浮かび上がるように淡い光が集まって、やがて人の形を取ると、それは美しい女性の姿へと変わった。彼女の名は女神アストレア。
アストレアの美しくたなびき輝く金色の髪は腰まで伸びていて、その肌の白さを極限まで際立たせている。シルクのように光沢ある薄手に生地で出来た服は、古代ギリシャの女神が纏う神衣のようだった。
「女神殿、ご無沙汰でござるな。まさかこのような形で目通りが叶うとは思わなんだ。いやはや、驚いたでござる」
「
「何かご事情がおありなのでござろう?それについては拙者も敢えて責めるつもりはござらぬよ。それよりも、今話せる事を出来るだけ聞かせて頂きたい」
それは、偽らざる無明の本心だった。確かに、説明が足りないとぼやいていた事はあったが、わざわざ異なる世界から自分を呼ぶほどに、彼女は問題を抱えているのだ。ならば、急いで言葉が足らなくなっても仕方がないことだと割り切っている。そんな無明の気遣いにアストレアは小さく頷いてから、話を始めた。
「ありがとう、無明。とはいえ、余りゆっくりお話している時間もないのですが……まず、あなたにお願いしたスキルの回収についてです。今現在、この世界に産まれた者には、私の加護として必ず何らかのスキル…つまり、力を与えるようにシステムが組み込まれています。それが、一部で異常をきたしているのです。あなたにお願いしたのは、そのスキルによって苦しむ人間を救ってもらう為でした」
「ふむ、それは概ね聞いていた話と同じでござるな。しかし、何ゆえに異常をきたしておるのでござるか?それと、どうしてそれを拙者に頼まれたのか。アストレア殿本人が対処すれば済む話では?」
「……仰る通り。ですが、それは出来ないのです」
「それは、何ゆえ?」
「私が現在、ある存在によって追い詰められているからです」
「なんと……!?どういうことでござる?」
アストレアは悲しげな表情をしたまま、尚も言葉を続ける。
「かつて、私はこの世界の生命に発展と進化をもたらすべく、ある存在を呼び込んでしまいました。それは当初、私に快く協力してくれていたのですが……ある時、私に対して反旗を翻したのです。そして、私はそれを抑え込むためにその力の大部分を使ってしまった。しかも、それは相討ちに近い形で、私自身もその存在によって抑え込まれてしまっています。本当に、私が愚かでした……」
「むぅ……という事は、今もその者はいずこかで生きておって、女神殿と戦っておるということでござるか?」
「現時点では、お互いに干渉しあっている……というべきですね。その余波によって、人間達に与える私の加護が異常をきたしているのです。ですから、せめてあなたに暴走してしまったスキルを集めて貰いたいとお願いしたのですよ」
「なるほど、そういう状況でござったか。だが、そういう事なら、その相手を倒してしまう……という事は出来ぬのでござるか?」
「現時点でそれは難しいでしょう。あれを見つけ出し、打ち倒すというのはとても……うぅっ!?」
「女神殿!?如何なされた!」
アストレアは胸を押さえて苦しむ素振りを見せると、段々とその象が歪み、ぶれ始めた。どうやら、限界が近いようだ。息を荒くして汗を流し、かなりの苦痛に耐えている。
無明はアストレアに近づこうとしたが、足に根が生えたようになってその場から一歩も動く事は出来なかった。そんな無明に向けて、アストレアは絞り出すようにして声をあげた。
「よ、よいですか、無明……私はあなたを信じ、転生の際にある力を……与えておきました。記憶が戻った、今ならば……それを扱える、はずです……」
「力?スキルということでござるか?」
「そう、です……とても強い力ですが、あなたならば、きっと……悪用、せずに…正しく使ってくれる……はずで」
「女神殿!もうよい、それ以上喋ってはいかん!」
「詳細、は……女神の、瞳……を…………その力で、この世界を………………」
「す、姿が、消えて……?!女神殿!女神殿っ!」
アストレアの姿が光に消えていくと共に、無明の視界もまた強烈な白い光に包まれ、何も見えなくなっていった。同時に音も消えて、体の自由も完全に失われ、意識さえも飲み込まれていく。最後に感じたのは強い浮遊感と、強い焦燥……そして、例えようもない不快感が無明の中に溢れていった。
「女神殿っ!」
大声で叫びながら無明が飛び起きた時、そこは元々いた部屋のベッドの中であった。全身がびっしょりと汗に濡れていて、異常なほどに感覚だけが研ぎ澄まされているようだ。無明は眠る時も忍び装束のままだったが、流石に着替えて洗濯をしなければならないだろう。
「今のは、夢……か?いや、ただの夢ではない。あれが、あの日記に書かれていた女神殿が夢枕に立ったという事か。しかし、あの内容は……」
夢の内容を思い出し、反芻する無明。普通、夢と言うものは眠りから覚めてしまえばどんどんと記憶から薄れていくものだが、今の夢は全く消える事なく無明の胸に残り続けている。あの焦りも、言い知れぬ不快感も全てだ。それを確かめる術は、アストレアの言っていた無明に与えられた力の有無だろう。そんなものが本当にあるのなら、あれは夢ではなく現実だったと言い切れる。
「うー……無明、うるさいのだぁ。夜は静かにしろぉ……むにゃむにゃ」
「ああ、すまぬな、リジェレ。……そう言えば昼間、リジェレが妙なことを……いや、まさかな。ともかく、明日確かめてみるか」
月明かりが室内を照らす中、無明なベッドから起き出して窓の外へ視線を向けた。今夜は満月ではないが、それに近い月が大きく見えている。きっと、大レナーラ湖を臨むあの別荘からは素晴らしい景色が見られただろう。引っ越し先としては惜しい場所を失ったと思いつつ、無明は月に女神の無事を祈っていた。