「ふう……む、もうこんな時間か。集中していると、時が経つのは速いものでござるな」
窓の外を見ると、すっかり陽が落ちていた。時計を見ると夕食の時間の直前である。あと数分もしない内に、誰かが夕食を告げに来るだろう。無明は立ちあがって身体を伸ばし、凝り固まっていた体のあちこちをほぐしていった。
アイザックの手記は、現在序章までを読み終えた所だ。何故ここで読むのを止めたのかといえば、手記の中にそう指示があったからだ。無明が読んだ序章は、錬成というスキルの基礎部分について細かく説明したものだった。そして、基礎は基本であり、ここから先へ進む前にまずその基本を実践し、完璧に理解してから進む事と書かれていたのである。
アイザックの手記によると、錬成スキルは創造と呼ばれるスキルと同じく何かを生み出すスキルであるという。ただし、無から有、つまり0から1を生み出せる創造とは違って、錬成は0を1にすることは出来ない。あくまで、そこにあるものを全く別のものに変える事が出来るスキルなのだ。
そう聞くと大した事のないスキルに聞こえるかもしれないが、それは違う。錬成は使い方次第で1を2に変える事も出来るし、全く価値の無かったものを優れた価値あるものに変える事も出来るのだ。そして、創造よりも錬成が優れている点はもう一つある。それは、スキルの使用に際して消費される、魔力の量である。
無から有を生み出すスキルである創造は、その特性上、尋常でないほどの魔力を消費するという。世界を創り上げる女神と同等の、つまり神にも等しい力であるが故に、創造はおよそ人の身では耐えられないほどの魔力が必要となるのだ。それ故に、創造というスキルを使いこなせたものはいない。もっとも、創造もまたレアなスキルであるので、持ち主自体が非常に稀なのだが。
しかし、錬成はその限りではない。変換する元を用意するという特性からか、驚くほど魔力の消費が少ないのである。現代風に言えば、抜群にコスパがいいのである。
アイザックの手記曰く、錬成スキルの最高到達点に至れば新たなる生命を生み出す事すら可能であり、その頂点は完璧なる不死身の生命を得ることであるようだ。そしてそれは、彼の手記に書かれた全てをマスターし、そこから一歩踏み出した先へ進むことで完成するのだそうだ。大錬金術師と称され、錬成スキルを極めたという彼でさえ成し得なかった永遠の命……それこそが錬成スキル最大の目標といえるだろう。
「永遠の命、か。かようなものに興味はないが、確かにそれが得られるのだとすれば途轍もない力であろうな。そんなものよりも、拙者が今欲しいのは……む」
そこでぐぅと無明の腹が鳴り、空腹を主張する。無明は苦笑して頭を掻いた。
「……差し当たっては飯でござるな。やれやれ、拙者もまだまだ修行が足りんようだ」
そう呟いた無明の言葉を、闇の中で静かにリジェレが聞いていた。そして、フッと安心したように笑うと、何事もなかったかのようにまた眠りに就く。ちょうどその時、コンコンとリズムよくドアをノックする音がして、続けて女性の声で無明の名を呼んだ。
無明は足早にドアを開けると、そこに立っていたのはロスヴァイセだった。その傍らにはサービングカートと呼ぶルームサービスなどで使われるキッチンワゴンがあって、その上には一人分の食事が載せられている。そのまま中に入って、手際よく作業を始めていた。
「おお、ロスヴァイセ殿。食事の時間でござるかな?」
「はい、夕食の支度が整いました。こちらはリジェレさんの分でございます。ハヤメさんの水と餌も新しくしておきますね」
「いつも手間をかけさせてしまってかたじけない。おいリジェレ、起きているでござろう。夕餉でござるぞ。全く、そなたも皆と一緒に食堂で食べればよかろうに」
「あふ……うぅーん。私はご飯をゆっくり落ち着いて食べたい派なのだ。でも、ジークリンデのママは怖いから一緒にいるのはまだ嫌なのだ」
「まぁ、団長は底知れぬ人ですからね」
「ロスヴァイセ殿から見てもそうなのでござるな、確かに癖の強いお方でござるが……相分かった。ならば落ち着いてゆっくり食べるとよい。よく噛んで食べるのだぞ?」
「はーい、頂きますなのだー!」
ロスヴァイセは話しながらテキパキと食事の支度を済ませており、リジェレが席に着く頃には既にテーブルの上に料理が並べられていた。今はお茶を淹れている所である。いつみても大した手際だと感心しつつ、無明はロスヴァイセと共に食堂へと向かった。
「そう言えば、無明。今日はどこかへ出かけた後、ずっと部屋に閉じこもりっきりだったみたいだが、何かあったのか?」
夕食が始まり、団欒の時間になるとすぐにジークリンデが疑問を投げ掛けた。どうやら、ずっと今日の無明の事が気になっていたようである。どこかソワソワしていたのはこれが原因だったのだと気付いたエスメラルダは、そんな姉のかわいい一面を見てニコニコ顔だ。
「ああ、ロイド殿の所へ行ってきてな。拙者のスキルについて書かれた本を借りてきたのでござる。つい時間を忘れて読んでしまった」
「スキル?無明にスキルがあったのか?!以前確認した時は文字化けしていて解らなかったはずじゃ……」
「ちと色々あってな。今はしっかり確認できたのでござるよ」
「へぇ~、無明さんもスキルを持っていたんですね。どんなスキルだったんですか?」
「明日、確かめてみるのでその時のお楽しみでござるよ。そういう訳なので、中庭を少し借りたいのでござるが、アレックス殿よろしいかな?」
「うむ、構わん。ところでその、無明とやら。お前はジークリンデの事をどう……」
「お、と、う、さ、ま?」
「な、何でもないっ!?」
「うふふ、あなた達が私のいない間にどういう暮らしをしてきたのかよく解るわ~。ああ、楽し」
「和やかですね、だんちょ…いえ、お母様」
貴族の食卓だけあって、非常に長く大きなテーブルにはロスヴァイセを含めた全員が一堂に会して食事を楽しんでいる。ロスヴァイセは普段メイド役をこなしているが、この時ばかりは娘として同じ食卓を囲むよう命じられているからだ。ただ、ずっとブリュンヒルデを団長と呼んでいたせいか、つい団長と呼んでしまいそうになり、何ともバツが悪そうだ。普通はお母さんと呼び間違えるのがミスなのだが、彼女に限っては逆なのだった。
「団長って言った?今、団長って言ったわよね?」
「い、言ってません!」
照れ臭そうにそっぽを向いて頬を赤く染めるロスヴァイセ。ブリュンヒルデはからかうのが面白いのか、ここぞとばかりに追撃して笑っている。そんな微笑ましい光景を前に無明はふと、かつて日本にいた頃の自分を思い出していた。
(あの頃の食事といえば、このように笑い合って楽しい空気ではなかった。互いに無言で、ただひたすらに食べるのみ……それが当たり前であったとはいえ、今この空気を味わってしまっては、あの頃が味気なかったと実感してしまうな。思えば、我が子らと冗談を言って話した記憶すらないとは。きっと、拙者は良き父ではなかったのだろうな。許せ、
「無明さん、どうかしました?」
「いや、何でもないでござる。明日を楽しみにしていて下され」
心配そうに見つめるエスメラルダに、無明は覆面の下で笑ってみせた。かつての自分と我が子の記憶を、この温かい家族には悟られないようにと願いながら。