夜の帳が降り、公爵家の屋敷は静寂に包まれていた。広大な敷地を取り囲む森からは、夜風に乗ってかすかなざわめきが聞こえる。屋敷の廊下を一人歩くティアラの足音は、その静寂をほんの少しだけ乱していた。
夕食後、執事長グレゴリーから「夜、庭園で散歩することをお勧めします」と何気なく言われた。普通なら奇妙に思うかもしれないが、ティアラにはその言葉がどこか意味深に感じられた。何かを見せたいのか、それとも知らせたいことがあるのか――彼女はその意図を探りつつ、薄いショールを羽織って夜の庭園に足を運んだ。
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庭園は昼間とは違った趣を見せていた。満月の光が花壇や噴水を淡く照らし、木々の影が地面に複雑な模様を描いている。昼間には気づかなかった美しさに、ティアラはしばし足を止めた。だが、その美しさには、どこか不穏な空気も含まれているように感じられた。
「誰かいるの?」
ティアラはふと気配を感じて周囲を見渡した。だが、答えはない。風が草を揺らす音だけが響く。
「気のせい……かしら」
彼女は小さく息を吐き、再び歩き出そうとした。その瞬間――
どこからともなく、低い声が聞こえた。
「お前は……誰だ……」
ティアラの体は一瞬にして硬直した。声の方向を探すが、そこには人の姿はない。耳元で聞こえたような声が、風に紛れて消えていった。
「……気のせいじゃない」
そうつぶやきながら、ティアラは慎重に庭の奥へと進んだ。すると、噴水のそばで奇妙な光景が目に飛び込んできた。
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噴水の縁には、白い光が揺らめいていた。それはまるで月光が凝縮されたような光で、人の形をしているようにも見える。ティアラは恐る恐る一歩近づいた。
「あなたは……誰?」
恐怖と好奇心が入り混じった声で問いかける。しかし、光の塊は何の反応も示さない。ただ静かに揺れているだけだった。
その時、不意にティアラの胸元が温かくなった。彼女が幼い頃から大切にしているペンダントが、まるで自らの意思を持つかのように輝き始めたのだ。
「これは……」
驚きの声を漏らすティアラ。ペンダントから放たれた光が、噴水の光と交わるように広がっていく。やがて、それは彼女の体を包み込み、何かが流れ込んでくるような感覚を与えた。
「お前が……選ばれし者……」
再び聞こえた低い声。それは風の音ではなく、彼女自身の心に直接語りかけているようだった。
「選ばれし者……? 何のこと?」
ティアラは問い返すが、声はそれ以上何も答えない。ただ光が彼女の周囲でさらに強く輝き、次の瞬間、頭の中に鮮明な映像が流れ込んできた。
それはかつて、この地で起きた戦いの光景だった。公爵家の先祖たちが強大な魔物と戦い、その魔物を封じ込めるために多くの犠牲を払った歴史。そして、封印の鍵となったのが、自分が持つこのペンダントだという事実。
「このペンダントが……封印の鍵……?」
ティアラは信じられない気持ちで胸元のペンダントを見つめた。だが、心のどこかで、それが真実であると理解している自分がいた。
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その後、光は次第に弱まり、庭園には再び静寂が戻った。ティアラはその場に膝をつき、深く息をついた。彼女の中には今、自分でも説明のつかない感覚が芽生えていた。
「この力が……私の中にあるなんて」
彼女の手は無意識にペンダントを握り締めていた。その感覚は、彼女に不思議な安心感と責任感を同時に与えていた。
しかし、ティアラには分かっていた。この力が自分をどこへ導くのかはまだ未知数だ。そして、これを知った時、公爵家の人々がどのように反応するかも想像がつかない。
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その夜、ティアラは自室に戻った後もペンダントを見つめながら考え込んでいた。自分がこの家に呼ばれた理由が、単なる政略結婚ではないのではないか――そんな思いが頭をよぎる。
「私は……何をすべきなの?」
呟きは答えを求めるものではなく、自らを奮い立たせるためのものだった。ティアラは決意を新たにした。自分に課された役割を果たし、真実を明らかにすると。
その目に浮かぶのは、恐れではなく、静かに燃える意志の光だった。
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