クラリスの失敗による騒動が収まった後、ハロルド公爵家の屋敷には、再び静けさが戻っていた。しかし、ティアラの心にはまだ不安が残っていた。お茶会の混乱に際して、自分自身が十分な対応をできなかったのではないかという思いが彼女を悩ませていたのだ。
その夜、ティアラは庭園に一人で立っていた。月明かりが花々を照らし、穏やかな風が彼女の髪をそっと揺らしている。だが、その美しい光景を前にしても、彼女の心は晴れなかった。
「私はこの家で本当に役に立てているのだろうか……」
彼女は小さな声で呟いた。その声は夜の静寂に溶け込み、自分にしか聞こえないほどかすかだった。
「何を悩んでいる?」
突然背後から低い声が聞こえた。驚いて振り返ると、そこにはレオンの姿があった。月光に照らされた彼の顔は無表情で、いつもの冷たい雰囲気を漂わせていた。
「公爵様……」
ティアラは慌てて頭を下げた。彼がここに来るとは思っておらず、動揺を隠しきれなかった。
「夜更けにここで何をしている?」
レオンは彼女に近づきながら問いかけた。その声にはわずかな興味が含まれているようにも聞こえた。
「少し、風に当たりたくて……」
ティアラはそう答えながら、視線を地面に落とした。彼の目を直接見るのが怖かったのだ。
レオンは彼女の横に立ち、庭を見渡した。しばらくの沈黙が続いた後、彼は静かに言葉を紡いだ。
「今日のお茶会の件、よく対応したな」
その言葉に、ティアラは驚いて顔を上げた。彼から直接褒められるなど想像もしていなかった。
「……いえ、私は何も……。執事長が全てを収めてくださいました」
彼女は謙虚に答えたが、レオンは首を横に振った。
「執事長が動いたのは事実だが、お前が冷静に振る舞ったからこそ、大きな混乱にはならなかった。あの場で取り乱していれば、貴族たちの信頼を失うことになっていただろう」
レオンの声には冷静な評価が込められていた。彼の言葉は事実を述べるだけだったが、ティアラの胸に温かさをもたらした。
「ありがとうございます……」
ティアラは小さく呟き、再び目を伏せた。彼女の頬がわずかに紅潮していることに気づかれるのが恥ずかしかったからだ。
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その後、二人はしばらく庭園を歩きながら話を続けた。レオンの言葉はこれまでのように冷たく突き放すものではなく、どこか穏やかなものだった。ティアラは少しずつ彼との距離が縮まっているような気がした。
「……公爵様は、この家を守るためにどれほどのことを犠牲にされてきたのでしょうか」
ティアラがふとそう尋ねると、レオンは一瞬立ち止まった。月明かりの下で彼の横顔はどこか寂しげに見えた。
「……全てだ」
彼は短く答えた。その言葉には深い重みがあった。
「自由も、友人も、感情を持つことさえも……全てを犠牲にしてきた」
レオンの言葉にティアラの胸が締め付けられるようだった。彼の冷たい態度の裏には、計り知れない孤独と責任があったのだ。
「公爵様……」
ティアラは何と言えばいいのか分からず、ただ彼を見つめるしかなかった。
「だが、そんなことを話しても何の意味もない」
レオンはそう言いながら再び歩き出した。その背中はいつも以上に大きく見えたが、同時にどこか脆く感じられた。
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その夜、ティアラは自室に戻った後もレオンの言葉を何度も思い返していた。冷酷に見えた彼の態度の裏には、自分では想像もできないほどの苦しみと孤独が隠されていた。そして、彼がそれを抱えながらも公爵家を守り続けていることに気づいた時、彼女の心には小さな変化が生まれていた。
「私は彼の助けになれるだろうか……」
ティアラは小さく呟いた。彼の孤独を完全に理解することはできないかもしれないが、それでも彼の側に立ち、支える存在になりたいという思いが芽生え始めていた。
彼女はペンダントを握りしめながら決意を新たにした。自分の役割は、この家の平和を守ることだけではない。彼の心を少しでも軽くするために、何ができるかを考え続けることだ。
月明かりが窓から差し込む中、ティアラの瞳にはかすかな希望の光が宿っていた。
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