ティアラがハロルド公爵家での生活に少しずつ馴染んできた頃、穏やかな日常を乱すような出来事が起きた。ある朝、庭で日課の読書をしていたティアラに、一人の侍女が駆け寄ってきた。
「ティアラ様、大変です! 公爵様の元婚約者、エリス様が訪問されました!」
その一言で、ティアラの胸は嫌な予感に包まれた。エリス――その名前はティアラも耳にしたことがあった。彼女はかつてレオンの婚約者だったが、婚約が破棄されたと噂されていた。美しい顔立ちと気位の高さから、貴族社会で注目を集める存在だった。
「エリス様が……ここに?」
ティアラは本を閉じ、立ち上がった。どうして突然彼女がこの家を訪ねてきたのか、その理由を考えるだけで胸がざわつく。
「公爵様はお会いになるのですか?」
侍女に尋ねると、彼女は申し訳なさそうに顔を伏せた。
「はい、執事長が客間へ案内するよう指示を受けたとのことです。ただ、公爵様からは、ティアラ様も同席するようにとのご命令が……」
「私も?」
予想外の展開に、ティアラは驚きと不安を隠せなかった。しかし、彼女は頷き、毅然とした態度を取ることに決めた。どんな状況であれ、公爵家の一員として恥じるわけにはいかない。
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ティアラが客間に入ると、そこにはエリスがいた。彼女は明るい金髪を美しく結い上げ、高価な装飾品で身を飾っていた。その姿は気品に満ちていたが、その目は冷たく鋭く、ティアラを値踏みするように見ていた。
「あなたが、今の公爵夫人候補というわけね」
エリスは微笑を浮かべながら、ティアラに視線を向けた。その言葉には棘が含まれている。
「初めまして、ティアラ・クレメンティスです。お会いできて光栄です、エリス様」
ティアラは礼儀正しく頭を下げたが、エリスの笑みは変わらなかった。
「まあ、思ったより地味な方ね。レオン様の婚約者としては少し物足りない気もするけれど……」
エリスはわざとらしくため息をつきながらソファに腰を下ろした。彼女の態度は明らかに挑発的だったが、ティアラは冷静さを保った。
その時、扉が開き、レオンが入ってきた。彼の姿を見た瞬間、エリスの顔には喜びの色が浮かんだが、レオンの表情は冷ややかだった。
「エリス、久しぶりだな」
レオンの声は感情のない冷たい響きを帯びていた。それを聞いたエリスは、微かに眉をひそめたが、すぐに笑みを取り戻した。
「ええ、とても久しぶりね、レオン様。こうしてまたお会いできて嬉しいわ」
エリスは立ち上がり、彼に近づこうとしたが、レオンは一歩も動かず、その場に立ち尽くした。
「用件を言え。ここに来た理由を知りたい」
レオンの端的な言葉に、エリスの笑みがわずかに引きつった。
「そんなに冷たくしないで。私はただ、昔の縁がどうなっているのか確認したかっただけよ。それに、この新しい婚約者の方にご挨拶もしておこうと思ってね」
エリスはティアラの方を見ながら言った。その視線は鋭く、ティアラの心を突き刺すようだった。
「ティアラは関係ない。お前が私に何を言いたいのかだけ話せ」
レオンは毅然とした態度でエリスを遮った。その言葉に、ティアラは心の中で少しだけ安堵を覚えたが、それを表情に出すことはなかった。
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「まあ、分かったわ」
エリスは肩をすくめて微笑んだ。その笑顔は不気味なほど完璧だった。
「私はただ、少しだけ昔話をしたかったの。あなたが私との婚約を破棄した理由を、まだ納得していないのよ」
その言葉に、レオンの表情が微かに険しくなった。
「その話は終わったはずだ。お前の行動が原因で婚約は解消された。それ以上の説明は必要ないだろう」
彼の冷たい声に、エリスは一瞬顔を歪めたが、すぐに笑みに戻した。
「そうね、でもあの頃と今では状況が違うわ。あなたの隣にふさわしいのは、やはり私だと思うのだけれど……どうかしら?」
エリスは挑発的な視線をティアラに向けた。その言葉に含まれる意味を、ティアラはすぐに理解した。
「エリス様」
ティアラは静かに口を開いた。その声は驚くほど落ち着いていた。
「私がこの家にいるのは、公爵様が望んでくださったからです。どのような状況であれ、私はこの家の一員として、自分の役割を果たす覚悟があります」
その毅然とした言葉に、エリスは一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐに冷笑を浮かべた。
「まあ、意外と強気なのね。でも、そう簡単にあなたがこの家にふさわしいとは思えないわ」
「それを判断するのは私ではないし、エリス様でもありません。この家の未来は、公爵様ご自身がお決めになることですから」
ティアラの静かな反論に、エリスの表情が硬直した。その場の空気が一瞬にして張り詰めたが、レオンがその緊張を断ち切るように声を発した。
「話は終わりだ、エリス。もう帰るといい」
レオンの冷たい声に、エリスは不満げな表情を浮かべたが、それ以上は何も言わずにその場を後にした。
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エリスが去った後、ティアラは深く息をついた。緊張していた身体が一気に力を失い、座り込んでしまいそうになる。
「よく耐えたな」
レオンがふと呟いた。その声には、どこか小さな感謝の響きが含まれていた。
ティアラは驚きながらも微笑んで答えた。
「これも、公爵家の一員としての務めですから」
その言葉に、レオンは何も言わずに部屋を出て行った。しかし、彼の背中がいつもより少しだけ優しく見えたのは、ティアラの気のせいではなかったのかもしれない。