「無理でしょ」
「無理じゃないですー!」
「いや無理だって。お前、力ないだろ」
「…けど、妓女にはなりたくないんです」
「えー…?」
蒼黒は少し考えた後、こちらを見つめた。
「俺は、今すぐここでお前を殺してもいいんだよ?」
心臓が掴まれたようだった。鼓動が速くなるのを感じ、蒼黒の瞳の鋭さに息を呑む。ここで反抗してはいけない。本能がそう言っている。
けれど、あくまでそれは本能というだけ。
気づけば、蒼黒の頬に口付けをしていた。
我ながらひどい。なにしてるんだろう、私。けど顔はなぜか微笑んでいて、余裕を感じさせている。
こんなこと、慣れているであろう蒼黒はというと、目を見開いたのち、数秒経ってから顔を赤くした。少し意外かもしれない。
「蒼黒…」
「見るな」
「けど…」
「…あークソが。分かった、妓女にはしない」
「ほんとう…!?」
「ああ。けどな、俺の仕事も就かせない。そんなに良い仕事じゃねえし」
吐き捨てるように言った。万屋らしいけど、蒼黒はどこまでのことを引き受けているのだろう。
それから私は再び金魚屋に連れて行かれ、女将さんも待ってましたと言わんばかりに笑顔で出迎えてくれた。
「だから、こいつは雑用係として使ってくれ」
「えー?もったいないよ。せっかく顔が良いのに…」
「掃除、洗濯、料理、ひと通りできるそうだ」
「…まあしょうがないね。客を取る気になったらすぐに言うんだよ?」
「はい」
「それじゃあ、案内するからついておいで」
女将さんが店の奥へ進む。私もあとを追ったが、ふと頭をよぎるものがあって、後ろを振り向いた。
蒼黒には、また会えるのだろうか。
「あっ、いけない」
突然女将さんが何かに気づいたように言う。そして、店を出ようとする蒼黒の襟を掴んだ。
「あんた、家は広いかい?」
「え、なんの話だよ」
「妓女ならここに住んでもらう必要があるんだけど、この子は雑用係だろ?うちの雑用係は基本的に自宅から通うように言っているんだ」
「へぇ……ん?つまり?」
「あんたの家、空いてるかい?」
「正気かよ…」
嫌そうな顔したのち、私の方を見る。
今日の仕事が終わったら店の前で待ってろ、ということだった。
私はどうやら、蒼黒の家で寝泊まりすることになったらしい。
「さぁ、まずは着替えようか」
物置から服を持ってきてもらい、まずは着替えることに。元々私が着ていた服は預かってくれるそうだ。
それから、殴られた痕を隠すために湿布も貼ってもらう。なんだか久しぶりに貼った気がしてしみじみしていると、すぐに女将さんに呼ばれた。
「今日からあんたの教育係だよ」
そう言われた人は、大きな瞳が特徴の、背が高い人だった。
「あんた、名前は?」
「菖蒲といいます」
「菖蒲ね、よろしく」
「よろしくお願いします!」
「それじゃあ早苗、後は頼んだよ」
「はーい。女将さんはもう少し休みなね。腰が痛いんだろ?」
「はいはい、ありがとね」
女将さん、大丈夫かな。早苗さんも同じように少し見つめたのち、その大きな瞳で私を捉える。まず最初の仕事は、大量の荷物をうちの店の稼ぎ頭に運ぶ仕事だ。
大きいものから、小さいけれど高価そうな箱まで、たくさんの貢物だ。瑠璃も贈り物をもらうことはあったけど、これの半分以下だったはず。
まずは色々な仕事を体験して、私に合った仕事を選ぶ方法らしい。適材適所というのだとか。
早苗さんは自分の腰くらいにもなる大きな荷物を2つも運んでいるのに、私はひとつと小さなもので精一杯だ。しかもこれを最上階まで。終わる頃にはどっと疲れが押し寄せる。
「おい大丈夫か?」
「はい…」
「お前に力仕事は無理か…。じゃあ次だ。ついてこい」
「はい…!」
続いてやってきたのは厨房。料理を作るのだ。
これならば活躍できる。瑠璃のために腕を磨いていたのが役に立った。
「できました」
「おお、随分手際がいいな。じゃあ盛り付けておいてくれ」
「はい」
瑠璃に食べてもらえるように、盛り付けも常に気を配っている。それが認められたらしく、早苗さんに褒められた時は心底嬉しかった。
「早苗さん、あの盆は?」
「ひとり、病気のやつがいるんだ。そいつの部屋に持って行ってもらえるか?」
「はい」
料理の乗った盆を持って、広い建物を歩く。時折休憩中の妓女さんたちにすれ違い、みんな綺麗だなと見惚れてしまう。
その病気の子がいるのは、1番端の、人が最も少ないところだった。
「失礼します…」
襖を開けて、思わず絶句した。
暗く澱んだ空気に窓は閉め切られ、薄い布団に痩せこけた人が寝ている。
「…ひどい」
しかも確認してみれば、私の持っている盆に並んだ料理も酷いものだ。病人に肉や魚が食べられるわけがない。
「ありがとう。そこに置いておいてくれる?」
「…嫌です」
「え?」
「私、もっと良い食事を持ってきます!」
浮かれている場合じゃない。目を覚ませ。
厨房へ急いで戻ると早苗さんがいて、お願いして料理を作らせてもらえることになった。
できるだけ、消化の良いものを。杏が病気になった時もこうやって作った記憶がある。
「お待たせしました。ゆっくり食べてください」
作ったのは簡単なお粥だ。けど病人が食べられるものでもある。
窓を開けて換気をし、布団を交換する。お粥を食べ終われば身体を拭き、水で絞った布巾を額に乗せる。
「…あなた、名前は?」
「菖蒲と言います」
「…ありがとう、菖蒲」
「当然のことをしたまでです。さあ、あとはしっかり寝て、元気になりましょう」
「…ええ」
瞳に、微かに光が灯った。
さっきから私は、褒められたり感謝されたりしている。こんな能無しな私のことを褒めるだなんて、みんな優しいんだ。
早苗さんを見つけると、今日はもう上がっていいと言われた。
そう、現在時刻は4時。もう太陽が昇る時間なのだ。どうりで眠いと思った。今日はまだ寝ていない。
女将さんにも挨拶してからそのまま外へ出る。そういえば、蒼黒が待ってくれているんだっけ。
店の外へ出ると、明らかに只者ではない雰囲気を纏った男性が立っている。分かってはいたが、蒼黒って顔がいい。少なくとも今まで見た中では最も。
そんな蒼黒が、小さく手を振っている。
顔が暑くならないことは、決してないわけだ。