翌朝、私は目を覚ますと、いつもと変わらない部屋の静けさに一瞬現実を忘れそうになった。だが、昨夜の出来事を思い出し、微かなため息をつく。
「婚約破棄された令嬢」――貴族社会でその烙印を押されることがどれほどの意味を持つかは分かっている。この先、私が何をしても「一度捨てられた女」として周囲の冷ややかな目がつきまとうのだろう。だが、それも予想の範囲内だ。むしろ、こうして心が落ち着いている自分に驚いていた。
そんな私の静かな朝を打ち破るように、ドアを激しく叩く音が響いた。
「アルシェナール様、失礼いたします!」
入ってきたのは父の執事長だった。眉間に深い皺を寄せ、何かを躊躇うようにしている。その様子から、良い知らせではないことは容易に想像がついた。
「何の用かしら?」
「……侯爵様が、お話があると。」
執事長の声は重く、視線が揺れている。彼が言葉を選んでいるのが明らかだった。それだけで、私がこれから直面するものの輪郭が見えてくる。
父の執務室に通されると、そこには父だけでなく、義母と義妹エリゼの姿もあった。義母は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、エリゼはあえて視線を合わせないようにしている。父の顔は険しく、その口から発せられた言葉は予想を裏切るものではなかった。
「アルシェナール、お前にはもうこの家にいる理由がない。すぐに荷物をまとめて出て行きなさい。」
私はわずかに眉をひそめたが、それ以上の感情を見せることはなかった。
「理由をお聞きしても?」
「婚約破棄されたお前は、この家の恥だ。この家の名誉を守るためにも、ここを去ってもらう。」
「そうですか。」
私の淡々とした返答に、父は目を見開いた。義母は薄く笑い、エリゼはちらりと私を見て小さく肩をすくめた。
「ずいぶんあっさりしているのね。泣いて許しを乞うかと思ったのに。」
義母の嫌味たっぷりの声に、私は微笑みを浮かべて答える。
「泣いてすがるような価値が、この家にあるとは思えませんので。」
その瞬間、義母の顔が凍りついた。父は拳を握りしめたが、怒りをぶつける前に、私は一礼して部屋を出た。
「追放――予想していたことだけれど、早いわね。」
自分の部屋に戻ると、すぐに荷物をまとめ始める。使用人たちが私の動きを手伝おうと近づいてきたが、私は静かに首を振った。
「私一人で大丈夫です。」
中には、涙ぐみながら「アルシェナール様がいなくなるなんて……」と呟く者もいた。少なくとも、私のことを慕ってくれた人がいたことが、わずかな救いだった。
すべてを詰め終えると、老執事がそっと私に手紙を差し出した。
「お嬢様、これは私の私財からのささやかな援助です。どうかお受け取りください。」
「ありがとう。でも、これは返せないわ。」
「お嬢様にはいつかきっと、この恩を返していただける日が来ると信じています。」
彼の言葉に心が少しだけ温かくなった。感謝を込めて彼に微笑むと、私は侯爵家を後にした。
門を出た瞬間、自由の風が私の頬を撫でた。この家に縛られていた日々が終わり、これからは自分の足で歩いていくのだ。道の先に何が待っているかは分からない。けれども、私は後ろを振り返るつもりはなかった。
馬車に乗り込むと、遠ざかる屋敷を見つめながら、静かに呟いた。
「婚約破棄されて、家を追い出されましたけど、何か?」
その言葉に込めたのは、これから新たな未来を切り開く覚悟と、自分を見下した者たちへの静かな宣戦布告だった。