薬草店での新しい仕事を始めて一週間ほど経った。私は徐々に日々の生活に慣れ、店主のマリーヌ夫人からの信頼も得始めていた。薬草の調合や軟膏の製造、商品の整理など、これまで貴族の娘としての生活では経験しなかった仕事が、今では日常の一部になりつつあった。
「アル、今日も手際がいいわね。助かるわ。」
「ありがとうございます。これもマリーヌさんのおかげです。」
そう言って微笑むと、マリーヌ夫人も笑顔を返してくれる。この温かいやり取りが、今の私の支えとなっていた。貴族の豪華な屋敷での生活とは全く異なるが、ここには真の居場所と感じられる何かがあった。
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その日の昼下がり、マリーヌ夫人が市場での買い物を頼んできた。薬草や日用品の補充が必要とのことだ。私は快く引き受け、店を出て市場へ向かった。市場は今日も多くの人で賑わい、店主たちの声が飛び交っている。
「新鮮な果物はいかがですか!」
「特価の布地ですよ、見ていっておくれ!」
活気あふれる光景に少し元気をもらいながら、私は買い物を進めていった。しかし、そんな中で突然、大きな怒声が響き渡る。
「待て!この泥棒め!」
声の方を振り向くと、ひとりの少年が果物を抱え、必死に逃げ出しているのが目に入った。その後ろを店主らしき男が追いかけている。市場の客たちが驚いた顔で道を譲る中、私は少年の行く先を見極めて、その進路に立ちはだかった。
「そこまでよ!」
とっさに手を伸ばし、少年の腕を掴む。軽い体重の少年は勢い余って私の手元で止まり、抱えていた果物を地面に散らばらせた。
「放せよ!離せって!」
少年は必死にもがくが、私は冷静に腕を離さない。その間に、息を切らした店主が追いついてきた。
「おいおい、またお前か!何度もやりやがって!」
「すみません、この子、しっかり話を聞かせますから。」
私は財布から硬貨を取り出し、店主に渡した。
「これで果物代は足りますか?」
「あ、ああ、これで十分だ。ありがとよ。」
店主が去ると、私は少年をじっと見下ろした。彼はしばらく私を睨んでいたが、次第に視線を逸らし、しゅんとした表情になる。
「何で助けたんだよ……。」
「助けたというより、問題をこれ以上大きくしたくなかっただけよ。あなたも自分が悪いことをしたのは分かっているんでしょう?」
少年は何も言い返さなかった。私は彼の手を離し、もう一度彼の顔を見つめる。まだ幼い顔立ちに、どこか寂しげな影が見えた。
「名前は?」
「……ロイ。」
「ロイ、今度こんなことをしたら、次は容赦しないから。」
「……分かったよ。」
ロイが去ろうとしたその時、不意に背後から軽快な声が響いた。
「いやあ、見事な腕前だね。」
振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。黒いマントを羽織り、堂々とした立ち姿。整った顔立ちには余裕があり、その瞳にはどこか鋭さが宿っている。
「あなたは……?」
「アシュレイ。ちょっとした通りすがりの者だよ。」
彼は微笑みながら答え、私とロイを交互に見た。
「君、なかなかやるね。普通の人間なら見て見ぬ振りをするところを、しっかり行動するなんて。」
「褒め言葉なら受け取っておきますけど、何かご用ですか?」
私が問いかけると、彼は少し驚いたように目を丸くした。
「ご用か……特にはないけど、君に興味が湧いただけさ。」
「興味?」
「そうだ。君の立ち居振る舞い、それに隠しきれない品の良さ。君、貴族だろう?」
私は一瞬驚いたが、それを表情に出さずに返した。
「今はただの薬草店で働く者よ。貴族だったのは過去の話。」
「なるほど、面白いね。」
彼は飄々とした態度を崩さず、私をじっと見つめた。その視線にどこか底知れないものを感じ、私は内心で警戒心を強める。
「まあ、何かあればまた会おう。」
そう言い残し、彼は軽やかにその場を去っていった。後に残された私は、彼の存在がどこか気にかかる自分に戸惑いながらも、買い物を済ませるべく足を進めた。
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その夜、私は一日の出来事を振り返りながらベッドに横たわっていた。ロイとの出会い、そして謎の青年アシュレイ。市場での些細な出来事のはずが、どこか波乱の予感を感じさせるものだった。
「不思議な人だったわね……。」
そう呟きながら目を閉じる。これが、私とアシュレイとの関係の始まりになるとは、この時はまだ気づいていなかった。
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執筆意図
ロイとのトラブルを通じて、ヒロインの行動力と冷静さを表現しました。
アシュレイの登場により、今後の物語への期待感を高める構成にしています。
貴族の娘だったヒロインの新しい生活での適応力や変化を描き、読者が彼女の成長を感じられる展開を意識しました。