春の朝――。
王都近くの街は、まだ日が高くなる前から、すでに多くの人でにぎわっていた。
石畳の通りを馬車が行き交い、店先には色とりどりの果物や布地、香辛料の匂いが漂っている。
初めてシオンをこの街に連れてきたのは、今日が初めてだった。
とはいえ、侯爵家の子女がふらりと立ち寄れるような場ではない。護衛と侍女が数名同行し、父様と母様も共にいるという、いかにも“お披露目の外出”というような、少しだけかしこまった雰囲気だった。
それでも、私は知っている。
この日を、誰よりも楽しみにしていたのは――妹のシオンだということを。
「ねえ、シオン。楽しみね、今日は」
そう声をかけると、シオンはふわっと笑った。
その笑顔は、まるで春の風みたいだった。
小さな手には、いつも一緒にいるぬいぐるみ――“ルナちゃん”が握られている。
そのふわふわの毛並みも、陽光に照らされてどこかうれしそうに見えた。
「……おそと、きれい……」
まだ幼いシオンの語彙は少ない。けれど、その声には、驚きと喜びと、ほんの少しの戸惑いが入り混じっていた。
そんな妹を見ていると、私は胸の奥がじんわりとあたたかくなるのを感じた。
妹は、いつも穏やかだ。
泣きわめくこともなければ、我を通すことも少ない。
けれど、今日の彼女は――どこか、いつもと違って見えた。
目の奥に、ほんの小さな光がきらめいていたのだ。
「こっちにはね、お菓子のお店が並んでいるの。シオンが好きそうな甘いものが、たくさんあるのよ」
そう言って手を引くと、彼女は小さくうなずいてから、とことこと歩き出す。
春色のワンピースが風に揺れ、シオンの白銀の髪が陽に透ける。
ほんとうに――まるで、妖精のような子。
けれど、そんな彼女を見つめる人々の視線が、時折こちらに刺さるような感覚を、私は見逃さなかった。
「あの子……」
「白銀の髪……見たことない」
「エルステリア侯爵家の娘かしら?」
ひそひそとした声。遠巻きに向けられる視線。
そのどれもが、シオンにではなく、シオンの“異質さ”に向けられている気がした。
私はそっと妹の肩に手を添える。
「大丈夫よ、シオン。わたしがいるから」
そう囁くと、彼女はくるりとこちらを振り返り、少しだけ照れたように笑った。
その笑顔を見た瞬間、私は強く思った。
(この子は、守られなければならない子じゃない。――でも、守ってあげたい)
姉としての役目――そんなもの、これまでは漠然とした“お姉さん”の自覚でしかなかった。
でも今日、初めて街に出た妹を前にして、私ははっきりと、それを“意志”として感じていた。
(わたしが、この子の光を、守らなきゃ)
市場通りに入ると、通りは一層にぎやかだった。
パン屋からは焼きたての香りが漂い、花屋には春の花が色とりどりに並んでいる。道行く人の笑い声や呼び込みの声が重なり合い、まるでひとつの音楽のように響いていた。
シオンはというと、目をまんまるにして周囲を見渡している。
何かに驚いたり、目を細めてうれしそうに笑ったり。
その一つひとつの反応が新鮮で、隣にいる私まで心が躍るようだった。
「シオン、ほら。あのリボン、可愛いわね」
私が指さしたのは、小さな露店で売られていた布製の髪飾り。
春色の花の刺繍が施されていて、どこかシオンに似合いそうだった。
「……かわいい……」
シオンはぽつりとつぶやいて、ふわりと微笑んだ。
私の手をきゅっと握るその小さな手から、少しだけ震えが伝わってきた。
それは、決して寒さのせいではない。
きっと、今感じている世界の大きさに――彼女自身が戸惑っているのだ。
(でも、大丈夫よ)
そう思いながら、私はその手を離さずに歩いた。
◇
事件は、ほんの数十歩先の角を曲がったときに起こった。
馬のいななきと、男の怒鳴り声――
次いで、鉄の車輪が石畳を削るような音が響き渡った。
「――馬車だッ!」
誰かの叫びが空気を切り裂いた。
その瞬間、周囲の人々の動きが止まり、次いで蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い始める。
私は思わず足を止め、咄嗟にシオンを庇うように腕を伸ばす。
「危ない、シオン、こっちに――」
けれど、私の声が届くよりも早く。
シオンは、その場を飛び出していた。
「シオン――!?」
信じられなかった。
あの子が、あの静かで控えめなシオンが、私の制止を振り切って走り出したのだ。
私の視線の先、暴走する馬車の進行方向に、小さな男の子が立ち尽くしていた。
その場から逃げ出せないまま、震えて動けなくなっている。
誰もが息を呑んだ。助けようにも間に合わない距離。
誰かが叫び、誰かが泣き、誰かが顔を背けた。
――でも、シオンだけは違った。
ぬいぐるみをぎゅっと胸に抱きながら、子どもの前に立ちはだかるようにして、叫んだ。
「……まもって……!」
そして――歌い出した。
「――ひかりのうたが きみをつつむよ
こわくない だいじょうぶ……♪」
澄んだ声だった。
幼い声。それなのに、どこまでもまっすぐで、震えも濁りもなかった。
その歌声が響いた瞬間、空気が変わったのを、私ははっきりと感じた。
風が止んだ。
喧騒が、ぱたりと消えた。
市場の一角が、まるで時間から切り離されたような静寂に包まれる。
音も動きも、全てが“その声”に支配されたかのように、静まり返っていた。
黄金の粒のような光が、シオンの足元からふわりと立ち上がる。
歌に呼応するように、それはまるで陽だまりの中の埃の粒のように、きらきらと舞い上がっていった。
そして――
暴走していたはずの馬が、その光に触れた瞬間。
ぴたりと脚を止めた。
いや、止まったというより――その場に“絡め取られた”ようだった。
馬は苦しげにいななきながら、足元をもつれさせて転倒した。
馬車は勢いのまま石畳に横転し、土煙と木の破片が宙を舞った。
数歩先。ほんの数歩先で、シオンとその子どもが止まっていた。
私は、息を呑んでいた。
何も言えなかった。叫ぶこともできなかった。
ただ――震えていた。
あの子は、何をしたの?
どうして……止まったの?
目の前で起きた出来事が、現実とは思えなかった。
でも、確かに。
馬車は止まり、あの子どもは無傷で、そして――シオンは、歌っていた。
◇
「……し、シオン……?」
気づけば、私は走り出していた。
土煙をかきわけて、何度も転びそうになりながら、妹のもとへ駆け寄る。
彼女はまだ、歌っていた。
「……きずのいたみも なみだのいたみも
ひかりになって とどけ――うたのまほう……♪」
歌は、次第に祈りへと変わっていた。
まるで、全てを赦し、全てを包みこむような音色。
声量は小さかった。けれど、その響きは、通りの隅々にまで届いていた。
光が――広がっていく。
妹の足元から、生まれるように、揺らぎながら、優しく――
倒れていた人々のもとへと、やわらかく触れるように、光が流れていく。
呻いていた青年が、驚いたように顔を上げる。
肩を押さえていた少女が、ゆっくりとその手を離す。
お腹をかばっていた母親が、震える手で立ち上がる。
「なんだ……これは……?」
「魔法……?」
「いや、でも……詠唱は……」
「“歌”……歌っているのか?」
誰かがそう言った。
次いで、誰かが膝をついた。
祈るように。崇めるように。
「……聖女様……?」
その声が広がったとき――私は、妹の背中を見つめていた。
細くて、幼くて、なのにあんなにも大きく見えた背中。
彼女はただ、“助けたい”という想いだけで、奇跡を起こした。
(この子は――普通の子じゃない)
だけど、それは――
(怖いことじゃない)
妹は、この世界に光をもたらすために、生まれてきたんだ。
「シオン!」
駆け寄る足音と共に、聞き慣れた声が響いた。
振り返らなくてもわかった。母様だ。
金の髪が揺れる。青のドレスの裾が翻る。
その姿が、風を割って走ってきた。
そして、妹の小さな身体を――強く、優しく、抱きしめた。
「……無事で、よかった……! 本当に……」
その腕の中で、シオンは力を抜いた。
歌声は止まり、ふぅ、と小さく息を吐くような声が漏れた。
まるで、全てを出し切った後のように。
私の隣に、別の影が立つ。
「リリカ、無事か?」
落ち着いた声。リート兄様だった。
彼はすでに状況を把握しているようで、倒れた馬車を見やりながら、騎士らしい冷静なまなざしを崩さない。
「……ああ、妹が……」
私は言葉にならないまま、指をさしていた。
リート兄様は、黙ってうなずくと、そっと母様とシオンの方へ歩み寄った。
「シオン、今の……お前が、やったのか?」
静かな問いかけ。
それに対して、妹はほんの少しだけうなずいた。
「――みんなを、助けたかったの」
その言葉は、小さな呟きだったけれど。
私には、それが――とても大きな音に聞こえた。
誰かを助けたい。
ただその一心で、あの子は力を使った。
見返りも、恐れも、迷いもなく。
そしてその結果が、目の前の光景だ。
倒れた人々は立ち上がり、子どもは母親の元へと駆け戻り、通りには奇跡のような静けさが流れていた。
◇
「リリカ」
母様の声がした。
視線を向けると、彼女は私の方を見て微笑んでいた。
「ありがとう。あなたがそばにいてくれて……シオンも、きっと心強かったと思うわ」
その言葉に、私は胸が詰まった。
(私は、何も……していない)
シオンを止めることもできなかった。
歌を聴いて立ち尽くすだけで、何も、何もできなかった。
だけど――
妹の背を見て、私は、はじめて“祈った”。
(お願い、間に合って――)
(助かって――)
(誰も、傷つきませんように――)
あの瞬間。
私はただの姉ではなかった。
あの子の歌に、誰よりも強く、願いを託していた。
◇
市民たちはざわめきながらも、少しずつ距離を取り始めていた。
畏れか、敬意か――
あるいは、どちらでもない“異質な何か”に対する反応。
それは、日が経てば「噂」になり、「誤解」になり、時には「脅威」へと変わってしまうものかもしれない。
でも、今だけは――この空間だけは、祝福に満ちていた。
「すぐに馬車を呼びます。騎士たちに命じて、通りを封鎖させましょう」
兄様が母様に耳打ちする。
その背は、もう“家族の一員”としてだけではない、“守る者”のそれだった。
私は、その隣に立っている自分に気づく。
(そうだ。私も――)
シオンは、ただの妹じゃない。
何か、とても大きな使命を背負って生まれてきた子。
だけどそれを、たった一人で背負わせるつもりはなかった。
私は、姉として。家族として。
この子の光を、夢を――守っていく。
そう、強く、心に誓った。
◇
日が傾き始めた通りに、風がそっと吹く。
土煙の残り香を運びながら、それは優しく妹の髪を揺らした。
白銀の髪。月の光のように透き通るその色が、夕日の中できらめいていた。
その中で、シオンは“ルナちゃん”をぎゅっと抱きしめたまま、そっと空を見上げていた。
まだ幼いその姿は、何も知らないようで――けれど、すべてを知っているようだった。
私はそっと隣に立ち、その手に手を重ねる。
「ねえ、シオン」
妹が私を見上げる。
その瞳に映る私は、ちゃんと“お姉さん”に見えているだろうか。
「さっきの歌、とても綺麗だった。……ありがとう」
シオンは、ぽかんとした後で、ふわりと笑った。
その笑顔が、あまりにもまぶしくて――私は胸の奥に、熱い何かが満ちていくのを感じた。
(もう迷わない)
(私が、守る)
この子の笑顔を、歌を、生き方を。
どんな未来が待っていても――私は、姉として、隣にいる。