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13 姉としての祈り、隣で見た奇跡 (リリカ視点の挿話)

 春の朝――。


 王都近くの街は、まだ日が高くなる前から、すでに多くの人でにぎわっていた。

 石畳の通りを馬車が行き交い、店先には色とりどりの果物や布地、香辛料の匂いが漂っている。


 初めてシオンをこの街に連れてきたのは、今日が初めてだった。


 とはいえ、侯爵家の子女がふらりと立ち寄れるような場ではない。護衛と侍女が数名同行し、父様と母様も共にいるという、いかにも“お披露目の外出”というような、少しだけかしこまった雰囲気だった。


 それでも、私は知っている。


 この日を、誰よりも楽しみにしていたのは――妹のシオンだということを。


 「ねえ、シオン。楽しみね、今日は」


 そう声をかけると、シオンはふわっと笑った。

 その笑顔は、まるで春の風みたいだった。


 小さな手には、いつも一緒にいるぬいぐるみ――“ルナちゃん”が握られている。

 そのふわふわの毛並みも、陽光に照らされてどこかうれしそうに見えた。


「……おそと、きれい……」


 まだ幼いシオンの語彙は少ない。けれど、その声には、驚きと喜びと、ほんの少しの戸惑いが入り混じっていた。


 そんな妹を見ていると、私は胸の奥がじんわりとあたたかくなるのを感じた。


 妹は、いつも穏やかだ。

 泣きわめくこともなければ、我を通すことも少ない。

 けれど、今日の彼女は――どこか、いつもと違って見えた。


 目の奥に、ほんの小さな光がきらめいていたのだ。


 「こっちにはね、お菓子のお店が並んでいるの。シオンが好きそうな甘いものが、たくさんあるのよ」


 そう言って手を引くと、彼女は小さくうなずいてから、とことこと歩き出す。


 春色のワンピースが風に揺れ、シオンの白銀の髪が陽に透ける。


 ほんとうに――まるで、妖精のような子。


 けれど、そんな彼女を見つめる人々の視線が、時折こちらに刺さるような感覚を、私は見逃さなかった。


 「あの子……」


 「白銀の髪……見たことない」


 「エルステリア侯爵家の娘かしら?」


 ひそひそとした声。遠巻きに向けられる視線。


 そのどれもが、シオンにではなく、シオンの“異質さ”に向けられている気がした。


 私はそっと妹の肩に手を添える。


「大丈夫よ、シオン。わたしがいるから」


 そう囁くと、彼女はくるりとこちらを振り返り、少しだけ照れたように笑った。


 その笑顔を見た瞬間、私は強く思った。


(この子は、守られなければならない子じゃない。――でも、守ってあげたい)


 姉としての役目――そんなもの、これまでは漠然とした“お姉さん”の自覚でしかなかった。

 でも今日、初めて街に出た妹を前にして、私ははっきりと、それを“意志”として感じていた。


 (わたしが、この子の光を、守らなきゃ)


 市場通りに入ると、通りは一層にぎやかだった。


 パン屋からは焼きたての香りが漂い、花屋には春の花が色とりどりに並んでいる。道行く人の笑い声や呼び込みの声が重なり合い、まるでひとつの音楽のように響いていた。


 シオンはというと、目をまんまるにして周囲を見渡している。

 何かに驚いたり、目を細めてうれしそうに笑ったり。

 その一つひとつの反応が新鮮で、隣にいる私まで心が躍るようだった。


「シオン、ほら。あのリボン、可愛いわね」


 私が指さしたのは、小さな露店で売られていた布製の髪飾り。

 春色の花の刺繍が施されていて、どこかシオンに似合いそうだった。


「……かわいい……」


 シオンはぽつりとつぶやいて、ふわりと微笑んだ。


 私の手をきゅっと握るその小さな手から、少しだけ震えが伝わってきた。

 それは、決して寒さのせいではない。

 きっと、今感じている世界の大きさに――彼女自身が戸惑っているのだ。


(でも、大丈夫よ)


 そう思いながら、私はその手を離さずに歩いた。



 事件は、ほんの数十歩先の角を曲がったときに起こった。


 馬のいななきと、男の怒鳴り声――

 次いで、鉄の車輪が石畳を削るような音が響き渡った。


「――馬車だッ!」


 誰かの叫びが空気を切り裂いた。


 その瞬間、周囲の人々の動きが止まり、次いで蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い始める。


 私は思わず足を止め、咄嗟にシオンを庇うように腕を伸ばす。


「危ない、シオン、こっちに――」


 けれど、私の声が届くよりも早く。

 シオンは、その場を飛び出していた。


「シオン――!?」


 信じられなかった。


 あの子が、あの静かで控えめなシオンが、私の制止を振り切って走り出したのだ。


 私の視線の先、暴走する馬車の進行方向に、小さな男の子が立ち尽くしていた。


 その場から逃げ出せないまま、震えて動けなくなっている。


 誰もが息を呑んだ。助けようにも間に合わない距離。

 誰かが叫び、誰かが泣き、誰かが顔を背けた。


 ――でも、シオンだけは違った。


 ぬいぐるみをぎゅっと胸に抱きながら、子どもの前に立ちはだかるようにして、叫んだ。


「……まもって……!」


 そして――歌い出した。


 「――ひかりのうたが きみをつつむよ

  こわくない だいじょうぶ……♪」


 澄んだ声だった。


 幼い声。それなのに、どこまでもまっすぐで、震えも濁りもなかった。


 その歌声が響いた瞬間、空気が変わったのを、私ははっきりと感じた。


 風が止んだ。


 喧騒が、ぱたりと消えた。


 市場の一角が、まるで時間から切り離されたような静寂に包まれる。

 音も動きも、全てが“その声”に支配されたかのように、静まり返っていた。


 黄金の粒のような光が、シオンの足元からふわりと立ち上がる。


 歌に呼応するように、それはまるで陽だまりの中の埃の粒のように、きらきらと舞い上がっていった。


 そして――


 暴走していたはずの馬が、その光に触れた瞬間。


 ぴたりと脚を止めた。


 いや、止まったというより――その場に“絡め取られた”ようだった。


 馬は苦しげにいななきながら、足元をもつれさせて転倒した。

 馬車は勢いのまま石畳に横転し、土煙と木の破片が宙を舞った。


 数歩先。ほんの数歩先で、シオンとその子どもが止まっていた。


 私は、息を呑んでいた。


 何も言えなかった。叫ぶこともできなかった。


 ただ――震えていた。


 あの子は、何をしたの?


 どうして……止まったの?


 目の前で起きた出来事が、現実とは思えなかった。


 でも、確かに。


 馬車は止まり、あの子どもは無傷で、そして――シオンは、歌っていた。



「……し、シオン……?」


 気づけば、私は走り出していた。


 土煙をかきわけて、何度も転びそうになりながら、妹のもとへ駆け寄る。


 彼女はまだ、歌っていた。


 「……きずのいたみも なみだのいたみも

  ひかりになって とどけ――うたのまほう……♪」


 歌は、次第に祈りへと変わっていた。


 まるで、全てを赦し、全てを包みこむような音色。


 声量は小さかった。けれど、その響きは、通りの隅々にまで届いていた。


 光が――広がっていく。


 妹の足元から、生まれるように、揺らぎながら、優しく――


 倒れていた人々のもとへと、やわらかく触れるように、光が流れていく。


 呻いていた青年が、驚いたように顔を上げる。

 肩を押さえていた少女が、ゆっくりとその手を離す。

 お腹をかばっていた母親が、震える手で立ち上がる。


「なんだ……これは……?」


 「魔法……?」


 「いや、でも……詠唱は……」


 「“歌”……歌っているのか?」


 誰かがそう言った。


 次いで、誰かが膝をついた。


 祈るように。崇めるように。


 「……聖女様……?」


 その声が広がったとき――私は、妹の背中を見つめていた。


 細くて、幼くて、なのにあんなにも大きく見えた背中。


 彼女はただ、“助けたい”という想いだけで、奇跡を起こした。


(この子は――普通の子じゃない)


 だけど、それは――


(怖いことじゃない)


 妹は、この世界に光をもたらすために、生まれてきたんだ。


「シオン!」


 駆け寄る足音と共に、聞き慣れた声が響いた。


 振り返らなくてもわかった。母様だ。


 金の髪が揺れる。青のドレスの裾が翻る。

 その姿が、風を割って走ってきた。


 そして、妹の小さな身体を――強く、優しく、抱きしめた。


「……無事で、よかった……! 本当に……」


 その腕の中で、シオンは力を抜いた。


 歌声は止まり、ふぅ、と小さく息を吐くような声が漏れた。

 まるで、全てを出し切った後のように。


 私の隣に、別の影が立つ。


 「リリカ、無事か?」


 落ち着いた声。リート兄様だった。


 彼はすでに状況を把握しているようで、倒れた馬車を見やりながら、騎士らしい冷静なまなざしを崩さない。


「……ああ、妹が……」


 私は言葉にならないまま、指をさしていた。


 リート兄様は、黙ってうなずくと、そっと母様とシオンの方へ歩み寄った。


「シオン、今の……お前が、やったのか?」


 静かな問いかけ。


 それに対して、妹はほんの少しだけうなずいた。


「――みんなを、助けたかったの」


 その言葉は、小さな呟きだったけれど。


 私には、それが――とても大きな音に聞こえた。


 誰かを助けたい。

 ただその一心で、あの子は力を使った。

 見返りも、恐れも、迷いもなく。


 そしてその結果が、目の前の光景だ。


 倒れた人々は立ち上がり、子どもは母親の元へと駆け戻り、通りには奇跡のような静けさが流れていた。



「リリカ」


 母様の声がした。

 視線を向けると、彼女は私の方を見て微笑んでいた。


「ありがとう。あなたがそばにいてくれて……シオンも、きっと心強かったと思うわ」


 その言葉に、私は胸が詰まった。


 (私は、何も……していない)


 シオンを止めることもできなかった。

 歌を聴いて立ち尽くすだけで、何も、何もできなかった。


 だけど――


 妹の背を見て、私は、はじめて“祈った”。


(お願い、間に合って――)


 (助かって――)


 (誰も、傷つきませんように――)


 あの瞬間。

 私はただの姉ではなかった。


 あの子の歌に、誰よりも強く、願いを託していた。



 市民たちはざわめきながらも、少しずつ距離を取り始めていた。


 畏れか、敬意か――

 あるいは、どちらでもない“異質な何か”に対する反応。


 それは、日が経てば「噂」になり、「誤解」になり、時には「脅威」へと変わってしまうものかもしれない。


 でも、今だけは――この空間だけは、祝福に満ちていた。


「すぐに馬車を呼びます。騎士たちに命じて、通りを封鎖させましょう」


 兄様が母様に耳打ちする。

 その背は、もう“家族の一員”としてだけではない、“守る者”のそれだった。


 私は、その隣に立っている自分に気づく。


(そうだ。私も――)


 シオンは、ただの妹じゃない。

 何か、とても大きな使命を背負って生まれてきた子。


 だけどそれを、たった一人で背負わせるつもりはなかった。


 私は、姉として。家族として。


 この子の光を、夢を――守っていく。


 そう、強く、心に誓った。



 日が傾き始めた通りに、風がそっと吹く。


 土煙の残り香を運びながら、それは優しく妹の髪を揺らした。


 白銀の髪。月の光のように透き通るその色が、夕日の中できらめいていた。


 その中で、シオンは“ルナちゃん”をぎゅっと抱きしめたまま、そっと空を見上げていた。


 まだ幼いその姿は、何も知らないようで――けれど、すべてを知っているようだった。


 私はそっと隣に立ち、その手に手を重ねる。


 「ねえ、シオン」


 妹が私を見上げる。

 その瞳に映る私は、ちゃんと“お姉さん”に見えているだろうか。


 「さっきの歌、とても綺麗だった。……ありがとう」


 シオンは、ぽかんとした後で、ふわりと笑った。


 その笑顔が、あまりにもまぶしくて――私は胸の奥に、熱い何かが満ちていくのを感じた。


(もう迷わない)


(私が、守る)


 この子の笑顔を、歌を、生き方を。


 どんな未来が待っていても――私は、姉として、隣にいる。

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