騎士詰所の中は、いつもと変わらぬ日常の空気に満ちていた。
剣の研磨に勤しむ者。鎧を点検する者。仲間と冗談を交わしながら、昼食を取る者。
そのすべてが、どこか眩しく見えた。
父の使いで立ち寄ったのは、ほんの数分のつもりだった。
けれど、仲間たちの顔を見るだけで、少しだけ心が緩む自分に気づいていた。
「おう、リート! 今日は街に同行じゃなかったのか?」
見習い騎士のカルドが、軽く手を振りながら声をかけてきた。相変わらず陽気な男だ。
「ああ。母上とリリカ、そして……シオンの三人が街に出ている。俺は、途中まで同行していたが、少しだけ抜けてきた。父上の書簡を届けに来ただけだ」
「そうか。まあ、あの小さな姫様なら、町の人間も驚くだろうな」
くしゃりと笑うカルドに、リートは小さく苦笑を返す。
小さな姫様――そう、シオンはまだ三歳だ。
けれどあの子には、周囲の誰もが思わず目を奪われてしまう、不思議な“光”があった。
(今日が、あの子にとっては初めての街か……)
生まれてから屋敷の外に出る機会は限られていた。
その小さな手が、ようやく世界に触れようとしている。
(……本当に、大丈夫だろうか)
守備隊の中でも信頼できる者を選び、周囲の警戒は万全を期したつもりだった。
けれど、どこか胸騒ぎがしてならなかった。
それは、騎士としての直感というより――兄としての、本能だった。
「……悪い、先に戻る」
「ん? もう行くのか?」
「少しだけ気になることがある」
カルドに短く告げて、リートは詰所を後にした。
空は晴れていた。けれど、どこか空気がざわついている。
春風に乗って、微かなざわめきが遠くから聞こえてきた。
笑い声でも、怒号でもない。もっと……不自然な、何かが起きている音。
(……これは――)
思考より先に、足が動いた。
騎士としてではない。ただの勘――だが、否応なく胸がざわついている。
剣の柄にそっと手を添える。
騎士として研ぎ澄ませた感覚が、今まさに警鐘を鳴らしていた。
(シオン……無事でいてくれ)
その名を胸の奥で強く念じながら、リートは街の広場を目指して走り出した。
何も起きなければいい――そう願っていたはずなのに、どうしてか、胸の奥がざわついていた。
◇
遠くから、ざわめきが届いた。
喧噪とも、笑い声とも違う。
張り詰めた空気が波のように迫ってくる。
私は歩を早めた。次第に騎士たちの怒号や、人々の悲鳴、荷台が崩れる音――それらが混然一体となって耳に飛び込んできた。
(まさか、何かあったのか……?)
通りに差しかかった瞬間、私は息を呑んだ。
人の波が、動きを止めていた。
叫びも、足音も、消えている。
ただ――“光”だけが、通りを満たしていた。
春の陽射しをすり抜けて、黄金色の粒子が舞っている。
それは、どこか温かく、まるで夢の中にいるようだった。
(これは――魔力……いや、違う。もっと柔らかい、“なにか”だ)
私は歩みを止めた。
視線の先、通りの中央。
そこにいたのは――妹だった。
「……シオン……?」
言葉が喉に詰まる。
白銀の髪が陽に透けて揺れている。
小さな背中。ぎゅっと抱えたぬいぐるみ。
その腕の中に、見知らぬ男の子が、静かに包まれていた。
周囲には、倒れた馬車。
破損した屋台。瓦礫の破片と、地に座り込む人々の姿。
私は、ただ立ち尽くしていた。
(何が、起きた?)
(どうして、シオンが――この中心に?)
◇
そのときだった。
彼女が、歌い始めた。
「……きずのいたみも なみだのいたみも
ひかりになって とどけ――うたのまほう……♪」
それは、静かで、澄んだ声だった。
けれど確かに、空気を震わせていた。
詠唱ではない。呪文でもない。
それでも、そこには“力”があった。
光が、シオンの足元から広がっていく。
まるで水面に広がる波紋のように、優しく、静かに――。
傷ついた人々へ、瓦礫に伏した者へ、ふわりと光が包み込む。
呻いていた男が、息を整えて立ち上がる。
子どもが、母に抱きつきながら泣き出す。
そして、その光景を前に――誰もが言葉を失っていた。
◇
「……“歌”で……魔法を……?」
「聖女……様……?」
囁きが、あちこちから漏れる。
誰かが、跪いた。
誰かが、手を胸にあてた。
私は、その場に立ったまま、人々と妹の間に――ただ、立ちはだかった。
視線が、集まっていた。
賞賛、畏怖、信仰のような眼差し。
(違う――)
その光は、ただの奇跡なんかじゃない。
あれは、あの子が――命をかけて、誰かを守ろうとした結果だ。
「シオン……」
視界の隅に、揺れるスカートが映った。
母――アリエッタ・エルステリア。
普段は穏やかな母が、今は迷いも恐れもなく、まっすぐに走っていた。
優雅なドレスの裾を持ち上げ、娘のもとへと――ただ、それだけを想って。
そのすぐ横には、リリカの姿もあった。
私は、一歩だけ前へ進みかけて――その足を止めた。
(先に抱きしめるのは、母の役目だ)
(背中を支えるのは、リリカの想いだ)
だから私は、前には出なかった。
ただ――その前に立ち、あの子たちを守る盾になろうと、そう決めた。
「シオン……!」
母の声に、妹が顔を上げる。
ぬいぐるみを抱きしめたまま、少しだけ眉を下げて、けれど泣きそうな笑顔で。
その小さな身体が、母の腕に抱きしめられて包まれた。
母の肩にそっと顔をうずめるシオンの姿を見て、私はやっと息を吐いた。
◇
リリカもすぐそばにいた。
妹と同じくらい小さかったあの子は、いつの間にか成長して、いまはシオンの背をそっと支えている。
前には母がいて、シオンを強く抱きしめていた。
そして私は、その家族の前に立ち――通りに集まる人々の視線を、ひとりで受け止めていた。
言葉はなかった。
けれど、リリカと目が合った瞬間、確かに通じ合うものがあった。
姉として。兄として。家族として。
それぞれの立場で、あの子を守ると――そう、静かに誓い合ったように思う。
◇
騎士としての私ではなく、家族としての私が、そこで立っていた。
剣を抜く必要はなかった。
けれど、心はずっと構えていた。
この小さな命に向けられる“信仰”と“恐れ”――そのどちらもが、あの子を縛る鎖になる可能性を孕んでいたからだ。
視線はやがて、ざわつきに変わった。
「……あの子が、癒しを……?」
「まさか、奇跡……?」
「いや、魔法か……でも、あれは……」
誰かが名を問おうとした瞬間、私は足を前に出し、静かに声を発した。
「エルステリア侯爵家の娘だ」
その一言に、場の空気が変わった。
どよめきが広がる。
同時に、敬意と畏れが混じる視線が、私たち家族へと向けられた。
だが、それでも構わなかった。
この場で、妹の存在をあいまいにすれば、それこそ噂と興味が膨れ上がる。
ならば、最初から“名乗る”ことで、責任を引き受ける覚悟を見せた方がよい。
(お前がどんな存在になろうとも、俺たちが傍にいる。だから、恐れるな)
シオンは、まだ母の腕の中で、小さな手をぎゅっと握っていた。
◇
やがて、騎士団の副長が到着し、現場の収拾が始まった。
負傷者の手当て。瓦礫の撤去。騒ぎを収めるための配慮。
私はそれらを見届けながら、ただ妹の背中を見守っていた。
目を伏せ、ただ小さく揺れる肩。
その小さな背に、あの日とは違う“覚悟”が宿っていることを、私は誰よりも知っていた。
母が言葉をかける。
リリカがそっと寄り添う。
私は何も言わなかった。
ただ、剣に手を添え、妹を照らす光と影を、見守っていた。
(この子がもし、誰かに奪われそうになったとき――)
(そのときは、俺が剣を抜く)
◇
広場の騒ぎは、少しずつ落ち着きを取り戻していた。
けれど、完全な静寂が戻ることはなかった。
誰もが「見てしまった」のだ――あの光を。あの“歌”を。
エルステリア侯爵家の令嬢が歌い、傷ついた者を癒したという現実を。
騎士団副長が周囲に目配せし、通りの出入りを控えるように指示を飛ばしていた。
詰め所の連絡兵が手短に走っていき、町の入口で“これ以上の混乱”が広がらないようにと、指示が回されていく。
私は、その一部始終を目の端で捉えながら、依然として変わらず妹たちの前に立っていた。
(父上の名で、混乱を抑えるしかないな)
この件が、すぐに王都へ届くとは限らない。
だが――教会の耳に入れば最後、“奇跡”は“神の証”として利用される。
そしてそのとき、シオンはもう“ただの少女”ではいられなくなる。
だからこそ、今、私たちがやらねばならないのは――“人としての少女”を守ることだ。
兄として。家族として。
◇
「……帰りましょう」
母がそっと、シオンを抱きしめたまま呟いた。
リリカが頷き、小さな手で妹の腕をそっと包む。
私は一歩前に出て、広場にいた騎士たちに目で合図を送る。
無言のまま、通りの整理が始まる。目線を遮るように、屋台の覆いが展開された。
やがて、私たちはゆっくりと広場をあとにした。
その道すがら、何人もの視線を背に感じた。
称賛のまなざし。
驚き。
畏れ。
そして――神を見るような、熱のこもった信仰の眼差し。
(あれは……ただの奇跡なんかじゃない)
(シオンの想いが、あの“歌”を生んだんだ)
私だけは、それを知っている。
“魔法”でも“神の加護”でもなく――
あれは、妹という存在が抱いた、誰かを救いたいという一心の、かたち。
だからこそ、私は決めたのだ。
(たとえ世界が否定しても、俺だけは――あの子を信じる)
(俺が、あの“歌”の盾になる)
(この誓いが、きっとこれからの俺を導いてくれる)
◇
こうして――
あの日、あの場所で。
私は兄としての“誓い”を、心に深く刻んだ。