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14 兄としての誓い、見守る者の決意(リート視点の挿話)

 騎士詰所の中は、いつもと変わらぬ日常の空気に満ちていた。


 剣の研磨に勤しむ者。鎧を点検する者。仲間と冗談を交わしながら、昼食を取る者。

 そのすべてが、どこか眩しく見えた。


 父の使いで立ち寄ったのは、ほんの数分のつもりだった。

 けれど、仲間たちの顔を見るだけで、少しだけ心が緩む自分に気づいていた。


「おう、リート! 今日は街に同行じゃなかったのか?」


 見習い騎士のカルドが、軽く手を振りながら声をかけてきた。相変わらず陽気な男だ。


「ああ。母上とリリカ、そして……シオンの三人が街に出ている。俺は、途中まで同行していたが、少しだけ抜けてきた。父上の書簡を届けに来ただけだ」


「そうか。まあ、あの小さな姫様なら、町の人間も驚くだろうな」


 くしゃりと笑うカルドに、リートは小さく苦笑を返す。


 小さな姫様――そう、シオンはまだ三歳だ。

 けれどあの子には、周囲の誰もが思わず目を奪われてしまう、不思議な“光”があった。


(今日が、あの子にとっては初めての街か……)


 生まれてから屋敷の外に出る機会は限られていた。

 その小さな手が、ようやく世界に触れようとしている。


(……本当に、大丈夫だろうか)


 守備隊の中でも信頼できる者を選び、周囲の警戒は万全を期したつもりだった。

 けれど、どこか胸騒ぎがしてならなかった。


 それは、騎士としての直感というより――兄としての、本能だった。


「……悪い、先に戻る」


「ん? もう行くのか?」


「少しだけ気になることがある」


 カルドに短く告げて、リートは詰所を後にした。


 空は晴れていた。けれど、どこか空気がざわついている。

 春風に乗って、微かなざわめきが遠くから聞こえてきた。


 笑い声でも、怒号でもない。もっと……不自然な、何かが起きている音。


(……これは――)


 思考より先に、足が動いた。


 騎士としてではない。ただの勘――だが、否応なく胸がざわついている。


 剣の柄にそっと手を添える。

 騎士として研ぎ澄ませた感覚が、今まさに警鐘を鳴らしていた。


(シオン……無事でいてくれ)


 その名を胸の奥で強く念じながら、リートは街の広場を目指して走り出した。


 何も起きなければいい――そう願っていたはずなのに、どうしてか、胸の奥がざわついていた。



 遠くから、ざわめきが届いた。


 喧噪とも、笑い声とも違う。

 張り詰めた空気が波のように迫ってくる。


 私は歩を早めた。次第に騎士たちの怒号や、人々の悲鳴、荷台が崩れる音――それらが混然一体となって耳に飛び込んできた。


(まさか、何かあったのか……?)


 通りに差しかかった瞬間、私は息を呑んだ。


 人の波が、動きを止めていた。


 叫びも、足音も、消えている。


 ただ――“光”だけが、通りを満たしていた。


 春の陽射しをすり抜けて、黄金色の粒子が舞っている。

 それは、どこか温かく、まるで夢の中にいるようだった。


(これは――魔力……いや、違う。もっと柔らかい、“なにか”だ)


 私は歩みを止めた。


 視線の先、通りの中央。


 そこにいたのは――妹だった。


 「……シオン……?」


 言葉が喉に詰まる。


 白銀の髪が陽に透けて揺れている。

 小さな背中。ぎゅっと抱えたぬいぐるみ。

 その腕の中に、見知らぬ男の子が、静かに包まれていた。


 周囲には、倒れた馬車。

 破損した屋台。瓦礫の破片と、地に座り込む人々の姿。


 私は、ただ立ち尽くしていた。


(何が、起きた?)


(どうして、シオンが――この中心に?)



 そのときだった。


 彼女が、歌い始めた。


  「……きずのいたみも なみだのいたみも

   ひかりになって とどけ――うたのまほう……♪」


 それは、静かで、澄んだ声だった。


 けれど確かに、空気を震わせていた。


 詠唱ではない。呪文でもない。

 それでも、そこには“力”があった。


 光が、シオンの足元から広がっていく。

 まるで水面に広がる波紋のように、優しく、静かに――。


 傷ついた人々へ、瓦礫に伏した者へ、ふわりと光が包み込む。


 呻いていた男が、息を整えて立ち上がる。

 子どもが、母に抱きつきながら泣き出す。


 そして、その光景を前に――誰もが言葉を失っていた。



 「……“歌”で……魔法を……?」


 「聖女……様……?」


 囁きが、あちこちから漏れる。


 誰かが、跪いた。

 誰かが、手を胸にあてた。


 私は、その場に立ったまま、人々と妹の間に――ただ、立ちはだかった。


 視線が、集まっていた。

 賞賛、畏怖、信仰のような眼差し。


(違う――)


 その光は、ただの奇跡なんかじゃない。


 あれは、あの子が――命をかけて、誰かを守ろうとした結果だ。


 「シオン……」


 視界の隅に、揺れるスカートが映った。


 母――アリエッタ・エルステリア。


 普段は穏やかな母が、今は迷いも恐れもなく、まっすぐに走っていた。

 優雅なドレスの裾を持ち上げ、娘のもとへと――ただ、それだけを想って。


 そのすぐ横には、リリカの姿もあった。


 私は、一歩だけ前へ進みかけて――その足を止めた。


(先に抱きしめるのは、母の役目だ)


(背中を支えるのは、リリカの想いだ)


 だから私は、前には出なかった。

 ただ――その前に立ち、あの子たちを守る盾になろうと、そう決めた。


 「シオン……!」


 母の声に、妹が顔を上げる。


 ぬいぐるみを抱きしめたまま、少しだけ眉を下げて、けれど泣きそうな笑顔で。


 その小さな身体が、母の腕に抱きしめられて包まれた。


 母の肩にそっと顔をうずめるシオンの姿を見て、私はやっと息を吐いた。



 リリカもすぐそばにいた。


 妹と同じくらい小さかったあの子は、いつの間にか成長して、いまはシオンの背をそっと支えている。


 前には母がいて、シオンを強く抱きしめていた。

 そして私は、その家族の前に立ち――通りに集まる人々の視線を、ひとりで受け止めていた。


 言葉はなかった。

 けれど、リリカと目が合った瞬間、確かに通じ合うものがあった。


 姉として。兄として。家族として。

 それぞれの立場で、あの子を守ると――そう、静かに誓い合ったように思う。



 騎士としての私ではなく、家族としての私が、そこで立っていた。


 剣を抜く必要はなかった。

 けれど、心はずっと構えていた。

 この小さな命に向けられる“信仰”と“恐れ”――そのどちらもが、あの子を縛る鎖になる可能性を孕んでいたからだ。


 視線はやがて、ざわつきに変わった。


 「……あの子が、癒しを……?」


 「まさか、奇跡……?」


 「いや、魔法か……でも、あれは……」


 誰かが名を問おうとした瞬間、私は足を前に出し、静かに声を発した。


「エルステリア侯爵家の娘だ」


 その一言に、場の空気が変わった。


 どよめきが広がる。

 同時に、敬意と畏れが混じる視線が、私たち家族へと向けられた。


 だが、それでも構わなかった。


 この場で、妹の存在をあいまいにすれば、それこそ噂と興味が膨れ上がる。


 ならば、最初から“名乗る”ことで、責任を引き受ける覚悟を見せた方がよい。


(お前がどんな存在になろうとも、俺たちが傍にいる。だから、恐れるな)


 シオンは、まだ母の腕の中で、小さな手をぎゅっと握っていた。



 やがて、騎士団の副長が到着し、現場の収拾が始まった。


 負傷者の手当て。瓦礫の撤去。騒ぎを収めるための配慮。


 私はそれらを見届けながら、ただ妹の背中を見守っていた。


 目を伏せ、ただ小さく揺れる肩。


 その小さな背に、あの日とは違う“覚悟”が宿っていることを、私は誰よりも知っていた。


 母が言葉をかける。

 リリカがそっと寄り添う。


 私は何も言わなかった。

 ただ、剣に手を添え、妹を照らす光と影を、見守っていた。


(この子がもし、誰かに奪われそうになったとき――)


(そのときは、俺が剣を抜く)



 広場の騒ぎは、少しずつ落ち着きを取り戻していた。


 けれど、完全な静寂が戻ることはなかった。


 誰もが「見てしまった」のだ――あの光を。あの“歌”を。


 エルステリア侯爵家の令嬢が歌い、傷ついた者を癒したという現実を。


 騎士団副長が周囲に目配せし、通りの出入りを控えるように指示を飛ばしていた。

 詰め所の連絡兵が手短に走っていき、町の入口で“これ以上の混乱”が広がらないようにと、指示が回されていく。


 私は、その一部始終を目の端で捉えながら、依然として変わらず妹たちの前に立っていた。


 (父上の名で、混乱を抑えるしかないな)


 この件が、すぐに王都へ届くとは限らない。

 だが――教会の耳に入れば最後、“奇跡”は“神の証”として利用される。


 そしてそのとき、シオンはもう“ただの少女”ではいられなくなる。


 だからこそ、今、私たちがやらねばならないのは――“人としての少女”を守ることだ。


 兄として。家族として。



 「……帰りましょう」


 母がそっと、シオンを抱きしめたまま呟いた。


 リリカが頷き、小さな手で妹の腕をそっと包む。


 私は一歩前に出て、広場にいた騎士たちに目で合図を送る。

 無言のまま、通りの整理が始まる。目線を遮るように、屋台の覆いが展開された。


 やがて、私たちはゆっくりと広場をあとにした。


 その道すがら、何人もの視線を背に感じた。


 称賛のまなざし。

 驚き。

 畏れ。

 そして――神を見るような、熱のこもった信仰の眼差し。


(あれは……ただの奇跡なんかじゃない)


(シオンの想いが、あの“歌”を生んだんだ)


 私だけは、それを知っている。


 “魔法”でも“神の加護”でもなく――


 あれは、妹という存在が抱いた、誰かを救いたいという一心の、かたち。


 だからこそ、私は決めたのだ。


(たとえ世界が否定しても、俺だけは――あの子を信じる)


(俺が、あの“歌”の盾になる)


(この誓いが、きっとこれからの俺を導いてくれる)



 こうして――


 あの日、あの場所で。


 私は兄としての“誓い”を、心に深く刻んだ。

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