日はすでに傾き、空は茜に染まりはじめていた。
オレンジ色の光が馬車の窓辺から差し込み、私の膝に眠る小さな娘――シオンの髪を、金色に照らしていた。
静かだった。
街の喧騒は遠ざかり、馬車の車輪がゆっくりと石畳をなぞる音だけが耳に届く。
傍らにはリリカとリートが並び座り、言葉少なに外の風景を眺めていた。
私は、腕の中の温もりをそっと確かめる。
柔らかく、あたたかく、ふんわりとした呼吸が胸元に伝わってくる。
その小さな顔には、安らぎが宿っていた。
(……よく、眠ってるわ)
まるで何もなかったかのように――けれど、私は知っている。
あの子が、あの広場で見せた“光”。
歌うように放たれたその力が、傷ついた人々を癒し、悲鳴と混乱に包まれていた空気を、やわらかく包みこんだあの瞬間を。
あれは、奇跡だった。
ただの治癒魔法ではない。
私ですら、すぐには理解できなかった。
けれど、あの光景は、今も焼きついたまま、目の奥で何度もよみがえる。
人々の表情が、驚きから安堵へ、そして崇敬へと変わっていく。
誰かが「聖女様だ」とつぶやき、次々に跪いた。
あの時、私はシオンを抱きしめながら、ただ立ち尽くしていた。
(助けたい)
その気持ちだけで、恐れも迷いも見せずに歌った、あの子の姿。
まだほんの幼い子供だというのに、どれほどの覚悟を、あの背に宿していたのだろう。
「……母上」
不意に、リートが小さな声で呼びかけてきた。
彼の視線も、私の腕の中のシオンへと注がれている。
「本当に……あれは、シオンが?」
私は頷いた。
「ええ。確かに、あの光を生んだのはシオンよ」
リートは唇を引き結び、黙って俯いた。
リリカがその横で、ぎゅっと自分の手を握りしめているのが見えた。
その指先が、微かに震えていた。
「怖かった……けど……でも、すごかった」
リリカの言葉は小さなささやきだった。
けれど、どこまでも真っ直ぐで、姉としての気持ちが滲んでいた。
私はそっと微笑む。
「そうね、すごかったわ。でも……それだけでは、済まないの」
リリカが私を見上げる。
その視線は、不安と戸惑いを含んでいた。
「お母様……シオンは、どうなっちゃうの?」
「……それを、これから考えなければならないのよ」
馬車が大きく揺れた。
窓の外には、見慣れた街並みが通り過ぎていく。
この静けさの中にさえ、確かに感じるのだ――
これまでの日常とは、もう違う空気が流れていることを。
(私たちが守らなくては……この子の優しさを)
私は、もう一度シオンを抱き直した。
その小さな体から伝わってくる、命の鼓動。
この世界で、かけがえのない、私の娘。
――きっと、この日を境に、何かが大きく動き始める。
けれど、それでも。
(あなたは、あなたのままでいてほしい)
馬車はやがて、エルステリア侯爵邸の門へとたどり着いた。
夕陽に照らされた屋敷が、橙に染まって輝いていた。
◇
門が静かに開かれ、馬車はゆるやかに石畳を進んでいく。
エルステリア侯爵家の屋敷は、やわらかな橙に包まれていた。
昼間の出来事がまるで夢だったかのように、屋敷は静まり返っている。
けれど、その沈黙の裏にある緊張を、私は肌で感じていた。
扉が開いた瞬間、待機していた侍女たちが一斉に駆け寄ってくる。
彼女たちの顔には、不安と驚きが浮かんでいた。
「お嬢様、お怪我は――」
「お迎えが遅れて、申し訳ありません!」
「どうか、どちらかにお知らせを……!」
「――静かにお願いします」
私は、腕の中で眠るシオンを抱いたまま、少しだけ声を強めて言った。
その一言で、侍女たちの動きが止まった。
私の表情と、言葉の奥にある“何か”を感じ取ったのだろう。
誰ひとりとして質問を口にする者はいなかった。
深く頭を下げると、黙って下がっていった。
リートが扉を開け、私はそのまま邸の中へ足を踏み入れる。
少し遅れて、リリカもそっと後に続いた。
廊下には誰もいなかった。
けれど、空気はざわめいていた。
目に見えぬもの――声にならぬ“気配”が、家中に静かに波紋のように広がっていた。
「……大丈夫かな、シオン」
リリカのつぶやきに、私は頷いてみせた。
「今は、疲れて眠っているだけ。しばらくは、そっとしてあげましょう」
リートが、無言のまま私の隣に立つ。
そして、腕の中の妹の顔をじっと見つめた。
彼の瞳の奥に、言葉にならぬ想いが渦巻いているのを、私は感じ取っていた。
「リート……」
そっと声をかけると、彼はわずかに顔を上げて言った。
「……僕、ちゃんと守れていたのかな」
「あなたがいてくれたから、私は安心していられたのよ。ありがとう、リート」
その言葉に、彼の表情が少しだけ緩む。
リリカが近づいてきて、シオンの髪にそっと触れた。
けれど、すぐに手を引っ込める。その指先が、かすかに震えていた。
「……お母様」
「ええ?」
「シオン……泣いてなかった。あんなに人がいたのに。怖くなかったのかな……」
「きっと、怖かったと思うわ。でも、それ以上に、助けたいという気持ちが強かったのよ」
私はそう言いながら、静かに廊下を歩き出す。
娘を抱きかかえる腕に、重さはほとんど感じなかった。
それでも、その存在は、この上なく大きく、愛おしかった。
階段を上りながら、私は思う。
この家は、どこよりも安全で、誰よりも娘を大切に想う人々がいる場所。
それでも、今のこの子の存在は――この家だけでは、もう守りきれないのかもしれない。
(それでも、今だけは)
せめて今日だけは、眠るこの子の頬に、何ひとつ憂いの影を落としたくない。
そう願いながら、私は、シオンの寝室の扉をそっと開いた。
シオンの寝室は、やわらかな光に包まれていた。
窓辺のレースカーテンが淡く揺れ、夕暮れの陽射しが部屋に滲んでいる。
優しい青と白を基調とした内装は、あの子の穏やかな性格にどこかよく似ていた。
私はベッドの端に腰を下ろし、静かにシオンを寝かせた。
ふわりと広がった銀色の髪が、枕にほどけるように散る。
まつげの長いその瞳は、しっかりと閉じられ、呼吸は変わらず穏やかだった。
(どんな夢を見ているのかしら)
私は、額にそっと手を添えた。
熱はない。けれど、頬にほのかに浮かぶ赤みが、今日一日の疲れを物語っていた。
「……がんばったのね、シオン」
小さな声でそう囁くと、あの子はまるで聞こえていたかのように、ぬいぐるみを求めるように手を伸ばした。
私はベッド脇の椅子に置いていた“ルナちゃん”を取って、そっと胸元に抱かせた。
そのぬいぐるみは、兄のリートが贈ったもので、あの子にとっては誰よりも心を許せる存在。
不思議なことに、シオンはよくルナちゃんと“おしゃべり”をしていた。まるで、ぬいぐるみに命があるかのように。
ルナちゃんを抱いたシオンは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
安堵のような笑み――そのささやかな変化に、私は胸を締めつけられる。
(まだ、小さな子どもなのに……)
目の前の娘は、たった四歳。
それでも今日、あの広場で見せた姿は、大人の誰よりも強く、優しかった。
私はそっとシオンの髪を撫でた。
やわらかなその感触が、指先に残る。
「ごめんなさいね……本当は、こんな日が来るなんて思っていなかったの。あなたがこんなに早く、力を使うなんて」
声に出すと、胸の奥が少しだけ軽くなった。
けれど、その代わりに、不安が押し寄せてくる。
あの子が癒した傷。あの子が生んだ光。
あれが、もし“奇跡”だとすれば――人々は、それをどう見るのだろう。
救いの光として、讃える者もいる。
けれど同時に、得体の知れぬものとして、恐れる者もいるはず。
(どうか、誰にも奪わせはしない)
私たちの娘は、人の痛みに涙し、その痛みに手を差し伸べる優しさを持っている。
その優しさが、どうか踏みにじられませんように。
どうか――利用されることのないように。
私は立ち上がり、カーテンを少しだけ閉める。
それでも、窓の外にはまだ薄紅の空が残っていた。
この家は、静かで、あたたかい。
だからこそ、あの子が安心して眠れるように、ここだけは何があっても守りたい。
その時だった。
「……ルナちゃん、ありがとうね」
小さな寝言のような声が聞こえた。
私は振り返り、思わず目を見開いた。
シオンが、ルナちゃんを抱きしめたまま、ほんの少しだけ微笑んでいたのだ。
「……大丈夫。こわく、なかったよ。だって、ルナちゃんがいたから」
意識は夢の中にあるのだろう。
けれど、その言葉は、まるで本当にルナちゃんと会話しているかのようだった。
私は、静かに微笑む。
「……ありがとう、ルナちゃん。あの子を守ってくれて」
そのぬいぐるみに、私はそっと頭を下げた。
少しだけ、涙がにじみそうになった。
そのまま扉の前まで歩き、もう一度、シオンの姿を見やる。
光に包まれたような寝顔。
私は胸元に手を当て、息を整える。
「……大丈夫。あなたは、決してひとりじゃない」
そう告げるように、私はそっと扉を閉じた。
執務室の扉の前に立ち、私は深く息を吸った。
廊下の灯りが静かに揺れ、夜の静寂があたりを包んでいる。
この扉の向こうにいるのは、エルステリア侯爵――この国の貴族としての顔を持つ男であり、何より、私の夫であり、子どもたちの父親であるクラヴィス。
私は、扉を軽く叩いた。
「……あなた、私よ」
すぐに中から、低く通る声が返ってくる。
「入れ」
扉を開けると、そこには分厚い書類の束に囲まれた夫の姿があった。
蝋燭の光に照らされたその横顔は、冷静であると同時に、どこか険しかった。
けれど、私の姿を見ると、クラヴィスは立ち上がり、わずかに眉をひそめた。
「……無事だったか。遅かったな。屋敷からの報告が遅れて、不安だった」
「ごめんなさい。シオンが疲れていて……少し、時間がかかってしまったの」
「そうか……シオンは?」
「今は眠っているわ。自分の部屋で。静かに、ぐっすりと」
私がそう告げると、クラヴィスの表情にほんのわずか、安堵の色が浮かんだ。
けれど、その瞳の奥にあるものは、父としての安堵だけではない。
領主としての判断、責任、そして――恐れ。
私は、ゆっくりと歩み寄り、机の前に腰を下ろした。
クラヴィスも元の椅子に戻ると、机の上の書類に手をかけていた指先を、わずかに止める。
「……街での出来事、話してくれるか?」
「ええ」
私は語った。
暴走する馬車の音、群衆の叫び、子どもを庇って倒れた親子の姿。
そして、シオンがあの場に飛び出し、歌うように“癒し”の光を放ったこと。
その光に包まれた者たちが、たちまち傷を癒され、安堵の涙を流したこと。
そして、彼女を見上げた人々が、“聖女様”と口々に叫び、跪いたということ。
話しているうちに、胸の奥がまたざわついてくる。
けれど、私は最後まで、言葉を丁寧に紡いだ。
クラヴィスは長い沈黙の後、低く問うた。
「……詠唱は?」
「なかったわ。ただ、歌うように」
「……どの程度の範囲だった?」
「わからないわ。広場全体が、光に包まれていた」
その答えに、クラヴィスの眉がぴくりと動いた。
机の上の書類を、ひとつ、またひとつと重ねて閉じていく。
「……詠唱なしで、広域の治癒。それも、即時で完全に?」
「ええ。神官の術でも、ここまでの回復は難しいはずよ。しかも……あの子は、自然とそれをやってのけた」
夫は目を細めたまま、しばらく沈黙していた。
やがて椅子を離れ、窓辺へと歩いていく。
そこからは、夜空が広がっていた。星がいくつか瞬き、静かな風がカーテンを揺らす。
「……聞いたことがない。こんな力は、どの魔導書にも記されていない」
「私も同じ気持ちよ。理解が追いつかない。それでも――見たの」
私はまっすぐ、夫の背に語りかけた。
「確かに、あの子が癒したのよ。迷いも恐れもなく……ただ、“助けたい”という気持ちだけで」
「……あの子は、優しすぎる」
「ええ。だからこそ、恐れているのよ。誰かに“その優しさ”を利用されてしまうことを」
クラヴィスは、目を閉じた。
「この国は……優しさだけで守れるほど、甘くない。力があれば、必ず狙われる。例外はない」
その言葉の重さが、室内に落ちる。
私たちは知っている。貴族であるからこそ、この国の“現実”を。
「でも、だからこそ――私は守りたいの。今だけでも」
私は立ち上がり、窓辺のクラヴィスに向き合うように立った。
夫の目をまっすぐに見つめて言う。
「学院への入学までは、“ただの娘”でいさせてあげたい。外の世界が彼女の力に気づく前に、私たちが備える時間が欲しい」
クラヴィスは黙ったまま、窓の外を見ていた。
やがて、静かに呟く。
「……目撃者は?」
「たくさんいるわ。通りの商人、旅人、市民。……時間の問題よ。きっと、明日には噂が広がっている」
「……となれば、王宮も動く。教会も、黙ってはいまい。場合によっては……帝国や、枢機卿会議にも……」
私はその言葉に、小さく息を飲んだ。
「そこまで広がるの?」
「“聖女”という名は、民衆の希望だ。だからこそ、政の道具にもなる。あの子が、誰かの思惑に飲まれてしまえば――」
「そんなこと、絶対にさせない」
私の声は、自然と強くなっていた。
クラヴィスが、初めて私の目を真っ直ぐに見つめた。
「……じゃあ、どうする。どこまで守る?」
「この家が揺らぐことになっても、私は迷わない。あの子の心を守る。それだけよ」
長い沈黙のあと、クラヴィスは再び窓の外に目をやった。
そして、低く、けれど確かに言った。
「……家族で話し合おう。明日、全員を集めて。そのうえで、誓おう。この子を、どう守るか」
私は、静かに頷いた。
「ありがとう……クラヴィス」
執務室を出ると、屋敷の中はすっかり夜の帳に包まれていた。
廊下の灯はすでに落とされ、壁際の燭台だけが、かすかに灯りを揺らしている。
静寂が、まるでひとつの布のように家全体を覆っていた。
私はその静けさの中を、ゆっくりと歩いていく。
足音は、絨毯に吸い込まれて響かない。
それでも心の内側では、数えきれない想いが、波のように押し寄せていた。
(明日、家族で話し合う――クラヴィスはそう言った)
(この家の全員で、シオンの未来を見据え、守るための道を考える)
それはきっと、間違っていない。
けれど、母としての私は、それとは別に、ただ一人の娘の母親として、夜に祈らずにはいられなかった。
私はシオンの部屋の前で立ち止まる。
扉には手をかけず、耳を澄ませる。
――かすかに、寝息が聞こえた。
それだけで、心が少しだけほぐれる。
中の気配は、穏やかで、あたたかかった。
恐怖も、痛みも、後悔も――今は、何ひとつ存在しない。
(この静けさを、永遠に……とは言わない)
(でも、せめて……ほんの少しだけでも)
私は胸元に手をあてた。
掌に感じる鼓動は、速くもなく、遅くもなく、確かに命のリズムを刻んでいる。
娘が生まれた日を、私は思い出していた。
あの小さな産声。
この世に生まれ落ちたばかりなのに、目をしっかりと開いて私を見た、その強さ。
そして、その目の奥に宿っていた――言葉にならない輝き。
(この子は、きっと何かを背負って生まれてきた)
そんな直感が、確かにあった。
けれど、それが“癒しの光”だとは、思いもしなかった。
……いや、違う。
この力の本質は“癒し”ではない。
もっと根源的な、何か。
“歌”という、どこまでも優しく、けれど強い形で現れた力。
それは、この世界の常識の外にあるもの。
誰も知らず、誰も理解できない。
けれど、確かに人の心を動かし、救った。
その代償として、あの子は“異端”と呼ばれるかもしれない。
けれど、それでも。
(あの子は、自分の意思で、手を差し伸べた)
それだけでいい。
母として、それだけで、私はこの子を信じられる。
私は静かに目を閉じる。
言葉にはせず、けれど確かに祈る。
(どうか――)
(この子の歌が、誰かを癒す光であり続けますように)
(どうか、その優しさが、悲しみに染まることのないように)
(そして、この小さな命が――決してひとりぼっちになりませんように)
祈り終えると、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。
私は扉にそっと手を添え、小さく微笑んで、再び手を離す。
まだ、この扉を開ける必要はない。
今日という一日は、すでに終わった。
そして明日からの物語は、またあの子と一緒に紡いでいけばいい。
星の瞬く空の下、私はゆっくりと廊下を歩き出した。
微かな風がどこかから吹き抜け、夜の空気に花の香りを運んでくる。
この世界は、優しくないかもしれない。
けれど、だからこそ――
私たちが、守るのだ。
母として、家族として、ただひとつの小さな光を。