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15 母の想い、守るための選択

 日はすでに傾き、空は茜に染まりはじめていた。

 オレンジ色の光が馬車の窓辺から差し込み、私の膝に眠る小さな娘――シオンの髪を、金色に照らしていた。


 静かだった。

 街の喧騒は遠ざかり、馬車の車輪がゆっくりと石畳をなぞる音だけが耳に届く。

 傍らにはリリカとリートが並び座り、言葉少なに外の風景を眺めていた。


 私は、腕の中の温もりをそっと確かめる。

 柔らかく、あたたかく、ふんわりとした呼吸が胸元に伝わってくる。

 その小さな顔には、安らぎが宿っていた。


(……よく、眠ってるわ)


 まるで何もなかったかのように――けれど、私は知っている。

 あの子が、あの広場で見せた“光”。

 歌うように放たれたその力が、傷ついた人々を癒し、悲鳴と混乱に包まれていた空気を、やわらかく包みこんだあの瞬間を。


 あれは、奇跡だった。


 ただの治癒魔法ではない。

 私ですら、すぐには理解できなかった。

 けれど、あの光景は、今も焼きついたまま、目の奥で何度もよみがえる。


 人々の表情が、驚きから安堵へ、そして崇敬へと変わっていく。

 誰かが「聖女様だ」とつぶやき、次々に跪いた。


 あの時、私はシオンを抱きしめながら、ただ立ち尽くしていた。


(助けたい)

 その気持ちだけで、恐れも迷いも見せずに歌った、あの子の姿。

 まだほんの幼い子供だというのに、どれほどの覚悟を、あの背に宿していたのだろう。


「……母上」


 不意に、リートが小さな声で呼びかけてきた。

 彼の視線も、私の腕の中のシオンへと注がれている。


「本当に……あれは、シオンが?」


 私は頷いた。


「ええ。確かに、あの光を生んだのはシオンよ」


 リートは唇を引き結び、黙って俯いた。


 リリカがその横で、ぎゅっと自分の手を握りしめているのが見えた。

 その指先が、微かに震えていた。


「怖かった……けど……でも、すごかった」


 リリカの言葉は小さなささやきだった。

 けれど、どこまでも真っ直ぐで、姉としての気持ちが滲んでいた。


 私はそっと微笑む。


「そうね、すごかったわ。でも……それだけでは、済まないの」


 リリカが私を見上げる。

 その視線は、不安と戸惑いを含んでいた。


「お母様……シオンは、どうなっちゃうの?」


「……それを、これから考えなければならないのよ」


 馬車が大きく揺れた。

 窓の外には、見慣れた街並みが通り過ぎていく。


 この静けさの中にさえ、確かに感じるのだ――

 これまでの日常とは、もう違う空気が流れていることを。


(私たちが守らなくては……この子の優しさを)


 私は、もう一度シオンを抱き直した。

 その小さな体から伝わってくる、命の鼓動。

 この世界で、かけがえのない、私の娘。


 ――きっと、この日を境に、何かが大きく動き始める。

 けれど、それでも。


(あなたは、あなたのままでいてほしい)


 馬車はやがて、エルステリア侯爵邸の門へとたどり着いた。

 夕陽に照らされた屋敷が、橙に染まって輝いていた。



 門が静かに開かれ、馬車はゆるやかに石畳を進んでいく。

 エルステリア侯爵家の屋敷は、やわらかな橙に包まれていた。

 昼間の出来事がまるで夢だったかのように、屋敷は静まり返っている。

 けれど、その沈黙の裏にある緊張を、私は肌で感じていた。


 扉が開いた瞬間、待機していた侍女たちが一斉に駆け寄ってくる。

 彼女たちの顔には、不安と驚きが浮かんでいた。


「お嬢様、お怪我は――」


「お迎えが遅れて、申し訳ありません!」


「どうか、どちらかにお知らせを……!」


「――静かにお願いします」


 私は、腕の中で眠るシオンを抱いたまま、少しだけ声を強めて言った。


 その一言で、侍女たちの動きが止まった。

 私の表情と、言葉の奥にある“何か”を感じ取ったのだろう。

 誰ひとりとして質問を口にする者はいなかった。

 深く頭を下げると、黙って下がっていった。


 リートが扉を開け、私はそのまま邸の中へ足を踏み入れる。

 少し遅れて、リリカもそっと後に続いた。


 廊下には誰もいなかった。

 けれど、空気はざわめいていた。

 目に見えぬもの――声にならぬ“気配”が、家中に静かに波紋のように広がっていた。


「……大丈夫かな、シオン」


 リリカのつぶやきに、私は頷いてみせた。


「今は、疲れて眠っているだけ。しばらくは、そっとしてあげましょう」


 リートが、無言のまま私の隣に立つ。

 そして、腕の中の妹の顔をじっと見つめた。


 彼の瞳の奥に、言葉にならぬ想いが渦巻いているのを、私は感じ取っていた。


「リート……」


 そっと声をかけると、彼はわずかに顔を上げて言った。


「……僕、ちゃんと守れていたのかな」


「あなたがいてくれたから、私は安心していられたのよ。ありがとう、リート」


 その言葉に、彼の表情が少しだけ緩む。


 リリカが近づいてきて、シオンの髪にそっと触れた。

 けれど、すぐに手を引っ込める。その指先が、かすかに震えていた。


「……お母様」


「ええ?」


「シオン……泣いてなかった。あんなに人がいたのに。怖くなかったのかな……」


「きっと、怖かったと思うわ。でも、それ以上に、助けたいという気持ちが強かったのよ」


 私はそう言いながら、静かに廊下を歩き出す。

 娘を抱きかかえる腕に、重さはほとんど感じなかった。

 それでも、その存在は、この上なく大きく、愛おしかった。


 階段を上りながら、私は思う。

 この家は、どこよりも安全で、誰よりも娘を大切に想う人々がいる場所。

 それでも、今のこの子の存在は――この家だけでは、もう守りきれないのかもしれない。


(それでも、今だけは)


 せめて今日だけは、眠るこの子の頬に、何ひとつ憂いの影を落としたくない。

 そう願いながら、私は、シオンの寝室の扉をそっと開いた。


 シオンの寝室は、やわらかな光に包まれていた。


 窓辺のレースカーテンが淡く揺れ、夕暮れの陽射しが部屋に滲んでいる。

 優しい青と白を基調とした内装は、あの子の穏やかな性格にどこかよく似ていた。


 私はベッドの端に腰を下ろし、静かにシオンを寝かせた。

 ふわりと広がった銀色の髪が、枕にほどけるように散る。

 まつげの長いその瞳は、しっかりと閉じられ、呼吸は変わらず穏やかだった。


(どんな夢を見ているのかしら)


 私は、額にそっと手を添えた。

 熱はない。けれど、頬にほのかに浮かぶ赤みが、今日一日の疲れを物語っていた。


「……がんばったのね、シオン」


 小さな声でそう囁くと、あの子はまるで聞こえていたかのように、ぬいぐるみを求めるように手を伸ばした。


 私はベッド脇の椅子に置いていた“ルナちゃん”を取って、そっと胸元に抱かせた。

 そのぬいぐるみは、兄のリートが贈ったもので、あの子にとっては誰よりも心を許せる存在。

 不思議なことに、シオンはよくルナちゃんと“おしゃべり”をしていた。まるで、ぬいぐるみに命があるかのように。


 ルナちゃんを抱いたシオンは、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 安堵のような笑み――そのささやかな変化に、私は胸を締めつけられる。


(まだ、小さな子どもなのに……)


 目の前の娘は、たった四歳。

 それでも今日、あの広場で見せた姿は、大人の誰よりも強く、優しかった。


 私はそっとシオンの髪を撫でた。

 やわらかなその感触が、指先に残る。


「ごめんなさいね……本当は、こんな日が来るなんて思っていなかったの。あなたがこんなに早く、力を使うなんて」


 声に出すと、胸の奥が少しだけ軽くなった。

 けれど、その代わりに、不安が押し寄せてくる。


 あの子が癒した傷。あの子が生んだ光。

 あれが、もし“奇跡”だとすれば――人々は、それをどう見るのだろう。


 救いの光として、讃える者もいる。

 けれど同時に、得体の知れぬものとして、恐れる者もいるはず。


(どうか、誰にも奪わせはしない)


 私たちの娘は、人の痛みに涙し、その痛みに手を差し伸べる優しさを持っている。

 その優しさが、どうか踏みにじられませんように。

 どうか――利用されることのないように。


 私は立ち上がり、カーテンを少しだけ閉める。

 それでも、窓の外にはまだ薄紅の空が残っていた。


 この家は、静かで、あたたかい。

 だからこそ、あの子が安心して眠れるように、ここだけは何があっても守りたい。


 その時だった。


「……ルナちゃん、ありがとうね」


 小さな寝言のような声が聞こえた。


 私は振り返り、思わず目を見開いた。


 シオンが、ルナちゃんを抱きしめたまま、ほんの少しだけ微笑んでいたのだ。


「……大丈夫。こわく、なかったよ。だって、ルナちゃんがいたから」


 意識は夢の中にあるのだろう。

 けれど、その言葉は、まるで本当にルナちゃんと会話しているかのようだった。


 私は、静かに微笑む。


「……ありがとう、ルナちゃん。あの子を守ってくれて」


 そのぬいぐるみに、私はそっと頭を下げた。

 少しだけ、涙がにじみそうになった。


 そのまま扉の前まで歩き、もう一度、シオンの姿を見やる。

 光に包まれたような寝顔。


 私は胸元に手を当て、息を整える。


「……大丈夫。あなたは、決してひとりじゃない」


 そう告げるように、私はそっと扉を閉じた。


 執務室の扉の前に立ち、私は深く息を吸った。


 廊下の灯りが静かに揺れ、夜の静寂があたりを包んでいる。

 この扉の向こうにいるのは、エルステリア侯爵――この国の貴族としての顔を持つ男であり、何より、私の夫であり、子どもたちの父親であるクラヴィス。


 私は、扉を軽く叩いた。


「……あなた、私よ」


 すぐに中から、低く通る声が返ってくる。


「入れ」


 扉を開けると、そこには分厚い書類の束に囲まれた夫の姿があった。

 蝋燭の光に照らされたその横顔は、冷静であると同時に、どこか険しかった。


 けれど、私の姿を見ると、クラヴィスは立ち上がり、わずかに眉をひそめた。


「……無事だったか。遅かったな。屋敷からの報告が遅れて、不安だった」


「ごめんなさい。シオンが疲れていて……少し、時間がかかってしまったの」


「そうか……シオンは?」


「今は眠っているわ。自分の部屋で。静かに、ぐっすりと」


 私がそう告げると、クラヴィスの表情にほんのわずか、安堵の色が浮かんだ。


 けれど、その瞳の奥にあるものは、父としての安堵だけではない。

 領主としての判断、責任、そして――恐れ。


 私は、ゆっくりと歩み寄り、机の前に腰を下ろした。

 クラヴィスも元の椅子に戻ると、机の上の書類に手をかけていた指先を、わずかに止める。


「……街での出来事、話してくれるか?」


「ええ」


 私は語った。


 暴走する馬車の音、群衆の叫び、子どもを庇って倒れた親子の姿。

 そして、シオンがあの場に飛び出し、歌うように“癒し”の光を放ったこと。

 その光に包まれた者たちが、たちまち傷を癒され、安堵の涙を流したこと。

 そして、彼女を見上げた人々が、“聖女様”と口々に叫び、跪いたということ。


 話しているうちに、胸の奥がまたざわついてくる。

 けれど、私は最後まで、言葉を丁寧に紡いだ。


 クラヴィスは長い沈黙の後、低く問うた。


「……詠唱は?」


「なかったわ。ただ、歌うように」


「……どの程度の範囲だった?」


「わからないわ。広場全体が、光に包まれていた」


 その答えに、クラヴィスの眉がぴくりと動いた。

 机の上の書類を、ひとつ、またひとつと重ねて閉じていく。


「……詠唱なしで、広域の治癒。それも、即時で完全に?」


「ええ。神官の術でも、ここまでの回復は難しいはずよ。しかも……あの子は、自然とそれをやってのけた」


 夫は目を細めたまま、しばらく沈黙していた。

 やがて椅子を離れ、窓辺へと歩いていく。

 そこからは、夜空が広がっていた。星がいくつか瞬き、静かな風がカーテンを揺らす。


「……聞いたことがない。こんな力は、どの魔導書にも記されていない」


「私も同じ気持ちよ。理解が追いつかない。それでも――見たの」


 私はまっすぐ、夫の背に語りかけた。


「確かに、あの子が癒したのよ。迷いも恐れもなく……ただ、“助けたい”という気持ちだけで」


「……あの子は、優しすぎる」


「ええ。だからこそ、恐れているのよ。誰かに“その優しさ”を利用されてしまうことを」


 クラヴィスは、目を閉じた。


「この国は……優しさだけで守れるほど、甘くない。力があれば、必ず狙われる。例外はない」


 その言葉の重さが、室内に落ちる。

 私たちは知っている。貴族であるからこそ、この国の“現実”を。


「でも、だからこそ――私は守りたいの。今だけでも」


 私は立ち上がり、窓辺のクラヴィスに向き合うように立った。

 夫の目をまっすぐに見つめて言う。


「学院への入学までは、“ただの娘”でいさせてあげたい。外の世界が彼女の力に気づく前に、私たちが備える時間が欲しい」


 クラヴィスは黙ったまま、窓の外を見ていた。

 やがて、静かに呟く。


「……目撃者は?」


「たくさんいるわ。通りの商人、旅人、市民。……時間の問題よ。きっと、明日には噂が広がっている」


「……となれば、王宮も動く。教会も、黙ってはいまい。場合によっては……帝国や、枢機卿会議にも……」


 私はその言葉に、小さく息を飲んだ。


「そこまで広がるの?」


「“聖女”という名は、民衆の希望だ。だからこそ、政の道具にもなる。あの子が、誰かの思惑に飲まれてしまえば――」


「そんなこと、絶対にさせない」


 私の声は、自然と強くなっていた。

 クラヴィスが、初めて私の目を真っ直ぐに見つめた。


「……じゃあ、どうする。どこまで守る?」


「この家が揺らぐことになっても、私は迷わない。あの子の心を守る。それだけよ」


 長い沈黙のあと、クラヴィスは再び窓の外に目をやった。

 そして、低く、けれど確かに言った。


「……家族で話し合おう。明日、全員を集めて。そのうえで、誓おう。この子を、どう守るか」


 私は、静かに頷いた。


「ありがとう……クラヴィス」


 執務室を出ると、屋敷の中はすっかり夜の帳に包まれていた。


 廊下の灯はすでに落とされ、壁際の燭台だけが、かすかに灯りを揺らしている。

 静寂が、まるでひとつの布のように家全体を覆っていた。

 私はその静けさの中を、ゆっくりと歩いていく。


 足音は、絨毯に吸い込まれて響かない。

 それでも心の内側では、数えきれない想いが、波のように押し寄せていた。


(明日、家族で話し合う――クラヴィスはそう言った)

(この家の全員で、シオンの未来を見据え、守るための道を考える)


 それはきっと、間違っていない。

 けれど、母としての私は、それとは別に、ただ一人の娘の母親として、夜に祈らずにはいられなかった。


 私はシオンの部屋の前で立ち止まる。

 扉には手をかけず、耳を澄ませる。


 ――かすかに、寝息が聞こえた。


 それだけで、心が少しだけほぐれる。

 中の気配は、穏やかで、あたたかかった。

 恐怖も、痛みも、後悔も――今は、何ひとつ存在しない。


(この静けさを、永遠に……とは言わない)

(でも、せめて……ほんの少しだけでも)


 私は胸元に手をあてた。

 掌に感じる鼓動は、速くもなく、遅くもなく、確かに命のリズムを刻んでいる。


 娘が生まれた日を、私は思い出していた。

 あの小さな産声。

 この世に生まれ落ちたばかりなのに、目をしっかりと開いて私を見た、その強さ。


 そして、その目の奥に宿っていた――言葉にならない輝き。


(この子は、きっと何かを背負って生まれてきた)


 そんな直感が、確かにあった。

 けれど、それが“癒しの光”だとは、思いもしなかった。


 ……いや、違う。

 この力の本質は“癒し”ではない。

 もっと根源的な、何か。


 “歌”という、どこまでも優しく、けれど強い形で現れた力。

 それは、この世界の常識の外にあるもの。

 誰も知らず、誰も理解できない。

 けれど、確かに人の心を動かし、救った。


 その代償として、あの子は“異端”と呼ばれるかもしれない。


 けれど、それでも。


(あの子は、自分の意思で、手を差し伸べた)


 それだけでいい。

 母として、それだけで、私はこの子を信じられる。


 私は静かに目を閉じる。

 言葉にはせず、けれど確かに祈る。


(どうか――)


(この子の歌が、誰かを癒す光であり続けますように)


(どうか、その優しさが、悲しみに染まることのないように)


(そして、この小さな命が――決してひとりぼっちになりませんように)


 祈り終えると、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。

 私は扉にそっと手を添え、小さく微笑んで、再び手を離す。


 まだ、この扉を開ける必要はない。

 今日という一日は、すでに終わった。


 そして明日からの物語は、またあの子と一緒に紡いでいけばいい。


 星の瞬く空の下、私はゆっくりと廊下を歩き出した。

 微かな風がどこかから吹き抜け、夜の空気に花の香りを運んでくる。


 この世界は、優しくないかもしれない。

 けれど、だからこそ――


 私たちが、守るのだ。


 母として、家族として、ただひとつの小さな光を。

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