夜の帳が、エルステリア侯爵家を深く包み込んでいた。
風がそっと庭の花々を揺らし、屋敷の壁にかけられたランプの灯が、廊下に淡い光を落としている。
奥の応接室に集まっていたのは、クラヴィス、アリエッタ、リート、そしてリリカ――侯爵家の家族たちだった。
小さな少女、シオンだけが、その場にはいなかった。
昨日の騒動のあと――すべての力を使い果たした彼女は、夜遅く、母アリエッタの腕に抱かれてそっと寝室へと運ばれていた。
今もなお、眠り続けている。
穏やかな寝息と、やわらかに揺れるまつげ。まるで、あの奇跡が夢だったかのように、静かな安らぎに包まれていた。
けれど、あの光景は――忘れようにも、忘れられない。
空を覆うように広がった光。
歌うようにして響いた声。
傷を負った人々の顔に、涙と笑顔が同時に浮かんだ、あの奇跡の瞬間。
家族の誰もが、それを目にした。
誰かが喋るでもなく、応接室には静かな緊張が流れていた。
使いの者も侍女たちもすでに下がらせ、ここには血を分けた家族だけがいる。
クラヴィスが、深く息を吸って口を開いた。
「……始めよう」
その声は、低く、静かだった。
けれど、その一言に、全員の背筋が自然と正された。
「我々がここに集まったのは、昨日起きた“あの出来事”――そして、シオンの持つ力について、家族としてどう向き合うかを決めるためだ」
ランプの灯りが、クラヴィスの影を長く伸ばす。
その背には、侯爵家を背負う男としての覚悟と、何より父としての苦悩があった。
クラヴィスが目を伏せ、机の上の文書に一瞬だけ視線を落とした。
「……まず、この件については、すでに動いている。町での目撃者に関しては、領主として私の名で“混乱の鎮静”と“保護”を理由に、情報の流布を控えるよう働きかけた。噂が広がる前に、できる限り手を打ったつもりだ」
リートが軽く目を見開いた。
「つまり……領内で、この件を封じ込める?」
クラヴィスは静かにうなずいた。
「そうだ。だが、完全に抑えることはできないだろう。それでも、時間は稼げる。――その猶予のうちに、我々が決めねばならない。“この子の力”と、どう向き合うかを」
アリエッタが静かにうなずく。
彼女の手は膝の上で組まれ、指先がほんのわずかに震えていた。
「……あの子が放った光。あれは、ただの魔法ではなかったわ。あれは“祈り”だった。誰かを助けたいという、純粋な想いが形になった“歌”。」
母の目には、娘の姿が昨日までと何ひとつ変わらぬ存在として浮かんでいた。
けれど、昨日の出来事は、世界が彼女をどう見るかを明らかに変えてしまった。
「歌……」
「……ちゃんと、聴こえたよね。人ごみのざわめきが消えて、空気が止まったみたいだったのに……シオンの“歌”だけが、真っ直ぐ響いてきた。胸の奥に届くように」
「……ああ、確かに」
リートが腕を組んだまま、目を伏せる。
「聴こえた……でも、それだけじゃなかった。耳じゃなくて、心の奥まで、まっすぐ届いた気がする。言葉より深く、祈りみたいに……魂に触れるような“歌”だった。あれは、俺たちが知ってる魔法とは、明らかに違ってた」
クラヴィスはしばらく黙っていた。
重ねた手を静かに開き、ゆっくりと机の上に置く。
「……三歳のころから、兆しはあった」
その言葉に、アリエッタが頷く。
「ええ。夜の中庭で、ひとりで草花に向かって歌っていた。あのときも、どこか空気が揺れていた。……光までは出なかったけれど」
「体調を崩した侍女の手を、そっと握ってね。次の日には回復していた。……あの子は、きっと気づいていなかったと思う。でも、私たちは……」
――見ていた。
家族の誰もが、それぞれに異なる角度から、シオンの“力”に気づき始めていた。
けれど、それを明確な言葉にする者はいなかった。
それほどに、あの光景は――言葉を超えた現実だった。
「……三歳の誕生日の夜のこと、覚えてる?」
リリカがぽつりと呟いた。
その声には、迷いと戸惑い、そしてわずかな震えが混じっていた。
「あのとき……庭に咲いてた花が、一晩で満開になったんだよ。季節外れの花まで。庭師さんがびっくりしてた。“こんなこと初めてだ”って」
アリエッタもゆっくりと頷く。
「……あれも、“偶然”じゃなかったのかもしれないわね」
「異能……いや、それすらも超えている」
リートが低く言葉を重ねる。
「詠唱なし、意図的な制御もなく、あの規模での癒し。魔力量だけの話じゃない。理論も、体系も、何もかもが当てはまらない。……あれは、今までの魔法とは根本的に違う」
クラヴィスがゆっくりと息を吐いた。
「……このままでは済まん。あの光景が広まれば、王宮だけでなく、教会、帝国までもが動く。いや……必ず、動く」
応接室に、空気が張りつめる。
「目撃者は数十人にのぼる。だが、商人組合や町の要職者には、すでに手を回した。領主命として情報を抑えるよう伝えた。信頼できる者に限定して、混乱を防ぐためだ。……今のところは抑えられている」
一息おいて、アリエッタが小さく微笑んだ。
「でも……それでも、私は驚きはしなかった」
視線が、彼女に集まる。
「あの子は、ずっと言ってた。“わたし、あいどるになるの”って」
リリカがくすっと笑う。
緊張を解くような、懐かしさに滲む笑みだった。
「意味も分からず、何度も言ってた。“アイドルはみんなを笑顔にするお仕事”って、得意げに言ってたもの……最初は、変な呪文かと思ってた」
「意味も分かってなかったのに、本気で言ってた。昨日のあれを見て、ようやく分かったよ」
リートも目を伏せながら、ゆっくり言葉を紡いだ。
「“聖女”じゃ足りない。“みんなを笑顔にする存在”――それが、あいつの“夢”だったんだな」
静寂が、訪れる。
ランプの光が壁に揺れ、影を伸ばしていた。
リートがふと、口を開いた。
「……覚えてる。三歳になる少し前の、春の日のことだ」
その声に、母アリエッタがわずかに目を細めて頷いた。
「あの子がひとりで中庭で遊んでいて……」
「そう。まだ言葉もおぼつかなくて、でも……確かに何かを“口ずさんでいた”んだ。歌とも言えない、でも、旋律のような――そんな不思議な響き」
「それを聞いたあと、具合の悪かった侍女が……」
「ええ、次の日にはもう元気に仕事に戻ってきた。医師は“気まぐれな回復”と言ったけれど、あの場にいた私たちは、きっと全員、気づいていたはずよ」
アリエッタの目が細められ、その奥にある感情がゆっくりと浮かび上がる。
「――あの子は、何か“ちがう”」
リリカが小さく頷く。
「私、あのときちょっとこわかった。でも、それ以上に……なんだかあたたかかった。光でも音でもない“何か”が、シオンから出ていた気がしたの」
リートが軽く頷く。
「俺は、手帳に書き留めた。『感応現象?音波反応?魔力の変質による共鳴か』って……でも、何を調べても答えが見つからなかった」
「……それでも、あの子は笑ってた」
アリエッタの声が静かに重なる。
「春の花の中で、風に吹かれながら、ルナちゃんに話しかけていた。“おうた、ひみつね”って。まだ幼いあの子が、“これは自分のもの”って、抱きしめるように」
クラヴィスは黙ってそれを聞いていた。
家族それぞれの心に刻まれた、“小さな奇跡”の断片。
それはきっと、昨日の“光”に繋がっていた。
偶然ではない。運命として、その力は積み重なっていたのだ。
「そういえば……」
リリカがふと、笑みを浮かべた。
「寝る前、シオンが毎晩してたこと、覚えてる? ぬいぐるみに向かって歌を歌って、“きょうもありがとう”ってお祈りするの」
「……ああ、あったな。俺も一度だけ、こっそり聞いたことがある。“たのしかったです”“またあしたも、がんばります”って」
リートの声に、アリエッタが小さく微笑む。
「まるで、誰かと約束を交わしているみたいだったわね。あの子の“歌”は、祈りと同じ。純粋な、でも強い願いが込められていた」
クラヴィスが静かに目を閉じた。
「それが今、形になった――“癒しの光”として」
重く、けれど確かな真実が、そこにあった。
応接室の空気が、再び引き締まる。
それぞれが思い出した記憶は温かく、微笑ましいものだった。けれど、現実は――そのまま微笑んでいられるほど、甘くはない。
クラヴィスが重く口を開いた。
「このままでは、いずれ王宮か教会、あるいは帝国の目に留まることになるだろう。そうなれば……あの子は、今のままではいられない」
その声には、領主としての冷静な判断と、父としての苦しみが混在していた。
「王都に“聖女”が現れたという噂が立てば、最初に動くのは教会だ。魔術管理局も動くだろう。……おそらく、魔術審議会が正式に調査団を送り込む」
アリエッタは、静かに目を伏せた。
「……わかってるわ。だからこそ、今日こうして、皆で話し合う場を設けたのよ」
「我々は家族だ。だが、それだけでは済まない。この力がどれほどのものか、理解しなければならない」
リートが少し前に身を乗り出す。
「父上。俺が学院で学んだ限りでも、昨日の現象に該当する魔法は存在しません。“大範囲無詠唱治癒”という魔法体系は理論上不可能とされていた。もしこの力が本物であれば、魔法理論自体が覆される事態になります」
「……それは、力そのものが“脅威”として扱われるということよね」
リリカの声が震えた。
彼女はあの時、広場で妹を庇うように立っていた。
ただ“すごい”と喜べたのはほんの一瞬で、すぐに“恐れ”が街の空気に混じったのを、彼女は肌で感じていた。
「誰かを助けるための力なのに、どうしてそんな目で見られなきゃいけないの……?」
リリカの拳がぎゅっと握られる。
「それは――」
リートが言葉を探したとき、クラヴィスが静かに代わって語った。
「この国は、理論と制度で守られている。未知の力は常に“不確定な脅威”と見なされる。意図せずとも、巻き込まれる形で“利用”される者も少なくない」
「実験材料として、監視対象として、あるいは……」
アリエッタが低く呟き、口を噤む。
その言葉の先にあるもの――“政治の道具”。
力ある者は、時に意思とは関係なく、国に仕える“歯車”として組み込まれてしまうことを、彼女は誰より知っていた。
「だからこそ、今のうちに手を打たねばならん」
クラヴィスの視線が、リートとリリカ、そしてアリエッタへと順に向けられる。
「……シオンには、まだ“選ばせる自由”がある。だがそれは、我々が正しく備え、守ることができた場合に限られる」
「じゃあ……どうすればいいの?」
リリカが声を詰まらせながら訊いた。
その問いに、アリエッタが、静かに語りかけた。
「私は、“夢”を守りたいの。あの子が“アイドルになりたい”って言ったこと、きっと今も心の奥で変わらずに持ってると思う」
「“みんなを笑顔にしたい”って……本気で信じてる。小さな頃からずっとそうだった。昨日の光だって、あの子の“歌”だって、その延長線にあるのよ」
リートがゆっくりと頷いた。
「……あれは確かに、破壊の力じゃない。“癒し”だ。理屈じゃ説明できないけど……俺は、あの歌に救われた気がした」
「私も」
リリカもすかさずうなずく。
「シオンが、あんなに小さな体で誰かを癒そうとしてたんだよ? それだけで、私……なんだか泣きそうになった」
クラヴィスはしばらく黙っていた。
そして、やがて、静かに立ち上がった。
窓辺に歩み寄り、夜の庭を見つめる。
春の花々が夜風に揺れ、淡い香りがほんのわずかに部屋に入り込んでいた。
「――我々が決めるべきことは、シオンをどう閉じ込めるかではない。シオンの“願い”をどう守るか、だ」
その言葉に、空気が変わった。
「いずれ力は知られる。学院入学前の魔力測定が済めば、王宮からも目が向く。そのときまでに、我々は備える必要がある」
「備える……?」
アリエッタが問い返す。
「そう。あの子を“ただの子ども”として育てながらも、同時に――この家が、シオンを守る“砦”になるように、仕組みを整える」
リートが軽く頷いた。
「外部からの接触はすべて、俺が制限するように動こう。学院内でも不審な関係者が近づかないように“情報制御”を徹底する」
リリカも拳を握り直す。
「私も……あの子のそばで、ちゃんと守る! 戦えなくたって、心を守れるようにする。あの子の“歌”を濁らせたりしない!」
クラヴィスは一同を見渡し、はっきりと言った。
「我が家の誇りと名誉にかけて、我らの“光”を守る。それが、エルステリア家の誓いとする」
家族の瞳が、すべて一点に集まった。
応接室に、重くも確かな決意の空気が漂っていた。
誰もがそれぞれの立場から、言葉を尽くし、思いを交わし合った。
それは、家族として“ただ愛する”だけではなく――“守る”と誓うこと。
クラヴィスは静かに振り返り、正面のソファに腰を下ろすと、ゆっくりと手を組んだ。
「……こうして家族だけで集まり、同じ未来を語れたことを、私は誇りに思う。だが、それだけでは足りない。今ここで、明確にしておこう。“我らは、娘を、妹を、家族を守る”と」
その言葉に、アリエッタがそっと頷いた。
瞳には決して揺るがぬ強さが宿っていた。
「あの子が、どんな未来を選ぼうとも……私は母として、その歩みに寄り添いたい。傷つけられることのないように、背中を押せるように……そして、歌が、想いが、届くように――ただ、それを支えるわ」
リリカが口を開いた。
「私も、そうありたい。お姉ちゃんとして、シオンのそばにいて、一緒に笑って、一緒に泣いて、支えてあげたい」
少しだけ言い淀んだが、すぐに唇を引き結び、声を強める。
「……でも、それだけじゃ足りないんだって、わかった。笑顔にするって、こんなに大変なことなんだって。だから、私も変わる。ちゃんと向き合う。シオンの未来を“守る”覚悟を持つ」
リートも、少しの沈黙の後、続いた。
「俺は、兄として……エルステリアの長男として、シオンが“利用される”ことだけは絶対に許さない。どんな手を使ってでも、それを阻止する」
少年のようだった彼の声には、明確な“剣気”が宿っていた。
「正面から抗うことも、裏から排除することも、全部含めて……俺はシオンの盾になる。誰にも踏み込ませない。約束する」
クラヴィスが目を閉じて、一つ頷いた。
そして、立ち上がる。
部屋の中央へと歩み寄り、ランプの灯りが揺れるその場所で、改めて皆を見渡す。
「ならば、ここに誓おう」
その声は静かに、けれど深く響く。
「“我らエルステリア家は、シオン・エルステリアを守り抜く”。あの子の“夢”と“歌”が誰にも汚されることのないように。我らが持てるすべての力と誇りをもって、支え抜くと」
アリエッタが歩み寄り、その隣に立つ。
「この命に代えても、娘の心を守ると、母として誓います」
リートが真っ直ぐな瞳で。
「兄として、どんな道でも開いてみせる。誰かの思惑になど負けない。誓います」
リリカも、涙を滲ませながら、しっかりとした声で。
「姉として、いつだって笑って、隣で応援するよ。どんなときでも。私も、誓うよ」
その瞬間、応接室に、ひとつの静けさが満ちた。
ただの会話ではない、ただの願いでもない。
それは、確かに“誓い”だった。
家族としての意志。
守ると決めた心。
そして、これからをともに歩む覚悟。
それぞれが深く頷き、静かに椅子へと戻っていく。
まるで、長い祈りが終わったようだった。
クラヴィスがふと、天井を仰いだ。
「……さて。嵐が来る前に、できる準備はすべて整えておかねばならんな」
リートが肩をすくめ、苦笑する。
「まったく、妹に振り回される兄貴ってのも、案外悪くないのかもな」
「うん。きっと、楽しいよ。だって……シオンだもん」
リリカが笑ったその横で、アリエッタがそっと微笑む。
「ふふ……いい笑顔ね」
その夜、家族の心は、ひとつになった。
家族が再びそれぞれの部屋へ戻り、屋敷には深い静寂が降りていた。
夜は更け、灯りの数も減り、廊下を吹き抜ける風がわずかにカーテンを揺らしている。
アリエッタは、ゆっくりと廊下を歩いていた。
足音は絨毯に吸い込まれ、音はない。
けれど、胸の中では、昨日の出来事が繰り返し波のように押し寄せていた。
扉の前に立ち止まる。
手をかけて、そっと――音を立てないように開いた。
そこは、小さな娘の寝室だった。
カーテン越しの月明かりが、優しく部屋を照らしている。
ベッドの上には、小さな体が静かに横たわっていた。
シオン。
この家の希望。
この世界に生まれ落ちた、小さな奇跡。
アリエッタは歩み寄り、ベッドの脇にそっと腰を下ろした。
その小さな寝顔は、まるで天使のように穏やかで――そして、どこか芯の強さを感じさせた。
「……本当によく、がんばったわね」
誰にも聞こえないように、微かに呟いた。
シオンの手の中には、いつものように“ぬいぐるみのルナちゃん”が抱きしめられていた。
小さな手のひらが、ぬいぐるみの耳に添えられている。
まるで、安心するように。
そして――語りかけるように。
「“歌”は、もうあなたの中にあるのね。誰かのために紡がれ、誰かの心に届く……そんな力になっていたわ」
そっと、額に手を添えた。
体温が、そこにあった。
息づく命の証。
そしてその奥に宿る、確かに“歌う心”。
月明かりが、やわらかく降り注ぐ。
その光が、まるで子守唄のように少女を包んでいる。
「……できることなら、ずっとこのままで……」
ぽつりとこぼれたのは、母としての本音だった。
戦うでもなく、利用されるでもなく、ただ笑って、歌っていられる日々が続けばと。
けれど、それは叶わない願いなのだと、彼女はもう知っていた。
だからこそ――祈るしかない。
アリエッタは、そっと目を閉じた。
胸に手を当てて、言葉にならぬ祈りを重ねる。
どうか、この子の“歌”が、誰にも奪われることのないように。
悲しみに染まらぬように。
誰かを癒し、誰かを救い、誰よりも先に、自分自身を――幸せにできるように。
やがて、彼女はゆっくりと立ち上がり、最後に一度だけ、娘の寝顔を見つめた。
その頬に、月の光が淡く差し込んでいた。
目を閉じていても、口元がほんの少し動いていた。
――まるで、夢の中でも“歌っている”ように。
アリエッタは微笑み、静かに扉を閉じた。
その瞬間。
星がひとつ、空で流れた。
誰に見られることもなく、けれど確かに、世界が静かに祝福した。
この夜の誓いを――
この光を――
この“歌”の、始まりを。