春の風が、そよそよと木々のあいだを通り抜けていく。
若葉が陽の光を浴びてきらめき、小鳥たちの囀りが空へと溶けていくようだった。エルステリア侯爵家の領内に広がるその森は、季節のめぐりを豊かに抱いて、静かに息づいていた。
朝露の残る草を踏みしめながら、年配の男が一本の獣道をゆっくりと歩いていた。男の名はオルト。エルステリア家に長く仕える使用人であり、かつては屋敷の整備や狩猟を一手に担っていた熟練者だ。今は現役を退いて久しいが、斧の扱いは衰えておらず、森の管理や伐採のような仕事のときには、若い使用人たちを引き連れて手本を見せることもあった。
今日は一人だった。
「まあ、たまにはこうして、静かに木と向き合うのも悪くねぇ」
口の端に笑みを浮かべながら、手にした斧の柄を軽く撫でる。
陽が差し込む林の中、木々の間から差し込む光が彼の顔を照らした。灰色の髭には白が混じり、しわ深い目元は穏やかなままだった。
ふと足を止め、空を見上げる。鳥たちのさえずりが、さっきから妙に遠い気がした。森は、いつものようで、どこか違う――そんな、説明しがたい違和感が胸をかすめる。
「……気のせい、だといいが」
自分に言い聞かせるように呟きながら、オルトは斧を肩に担いだ。
今日の目的は、倒木しかけていた樫の木の伐採だ。風が吹けば倒れかねず、森の小道を塞いでしまう。あらかじめ処理しておくべきだった。
そのとき――
「……う、ぐぅ……ぅう……」
遠く、森の奥のほうから、獣の呻きのような音が聞こえた。
オルトは立ち止まり、眉をひそめる。野生動物ではない。だが、それ以上に――どこか異様だった。
音は、やがて低い咆哮へと変わった。地の底から絞り出すような、重く、濁った響き。木々がざわめき、鳥たちが一斉に飛び立つ。森の空気が、濁ったように変わっていった。
「な……なんだ、今のは……?」
急に冷や汗が背を伝う。手が、斧の柄を強く握ったまま、震え始めた。
そして――現れた。
木陰の奥、地を割って現れたのは、一頭の異形の獣だった。
黒く、毛むくじゃらの体躯。全身にいくつもの赤い筋が浮かび、両腕には鉤爪のような鋭い爪。熊のような体格に似てはいるが、目には理性の光がなく、ただ血に飢えたような紅が揺れていた。
「……魔物、だと……!?」
オルトは即座に斧を構える。しかし、相手が悪かった。
こんな場所に出るはずがない。領内の森は、魔物の出現率が極端に低く、安全とされていたのだ。
だが、「絶対」は存在しない。今日、この瞬間に限っては、その例外が現れてしまった。
「ぐっ……うわああああああっ!」
咄嗟に逃げようとした瞬間、魔物の腕が閃いた。
鉤爪が、風を切る音とともにオルトの右腕を斬り裂く。
瞬間、肉が裂ける感触と共に激痛が走る。斧が手から滑り落ち、血が噴き出した。切断された腕の先は、地に転がり、すぐに赤く染まった草に埋もれていく。
視界が霞む中、オルトはなんとか背を向け、足を動かした。
「……誰か……誰か……助けて……っ!」
叫びは喉を裂くようだった。
しかし、その声も、森の奥深くでは誰にも届かない。
必死で走る。血でぬかるんだ地面に足を取られながら、それでも必死に――
命だけは、繋がなくてはならない。
この異常を、誰かに伝えなければならない。
息が詰まり、意識が遠のいていく。
そして、ようやく森を抜けたその瞬間、オルトは街道の端に倒れ込んだ。
通りかかった馬の足音が止まる。鋭い叫び声が響いた。
「おい、誰か! 急報を! 人が倒れている、しかもこの人は――!」
馬が駆ける。衛兵が笛を吹く。
王都の近衛が巡回していたのは、まさに偶然――いや、もはや“幸運”と呼ぶべき奇跡だった。
運び込まれたその男が、侯爵家に仕える者と知れたとき――
屋敷は、ただでは済まなかった。
午後の陽が傾き始めたころ、エルステリア侯爵家の屋敷に激しい蹄の音が響いた。門番が目を見開く間もなく、王都から派遣された近衛騎士が馬を駆って駆け込んでくる。
「急報だ! 侯爵閣下に至急、面会を願いたい!」
血相を変えた騎士の姿に、門番は咄嗟に頷き、手を振って扉を開けさせる。その表情にはすでに不安が浮かんでいた。なぜなら、王都からの急使が来ることなど、通常ではまず起こりえないことだからだ。
屋敷の広間へ案内された騎士は、息を整える間もなく、侯爵――クラヴィス・エルステリアの前に膝をついた。
「失礼を承知の上で申し上げます。……侯爵家の使用人、オルト殿が……森で重傷を負いました。命はまだ……ありますが、右腕を完全に失っております」
報せを聞いたクラヴィスは、椅子から立ち上がると同時に、空気が一変した。
「……何があった」
その声には怒気はなかった。だが、重く冷たい――戦場で幾度となく部下の命を預かってきた者の声音だった。
「森の奥にて、異形の魔物と遭遇したとのことです。おそらくは熊型の変種と思われます。オルト殿はなんとか森を抜け、街道で我々近衛と遭遇しました。現在、応急処置を施した上で、屋敷へ向かっております」
「医師と治癒魔法師を呼べ! 一刻の猶予もない! すぐに用意を整えろ!」
クラヴィスの怒声が広間に響く。周囲の使用人たちは一斉に動き出し、静まり返っていた屋敷が、まるで心臓が動き出したかのように活気づいた。
――オルトが、負傷した。
それもただの負傷ではない。“腕を失った”という報せは、屋敷の誰にとっても衝撃だった。オルトは長年にわたり、エルステリア家を支え続けてきた誠実な男だった。領地の森のことを最もよく知る人物であり、後進にも慕われる存在。その彼が、森で、そんな怪物に――。
「……なぜ、魔物が……あの森に……」
クラヴィスは、無意識に拳を強く握っていた。
あの森は、代々エルステリア家が管理し、長い年月をかけて安全を保ってきた土地。わずかに小型の獣が住まうことはあったが、危険度は限りなく低い。だからこそ、家族にも比較的安心して近づかせていた。
その前提が、崩れた。
「警備の見直しを――いや、後だ。まずは命を……」
玄関の扉が大きく開かれたのは、そのときだった。
「担架を運べ! 血が止まらん!」
慌てた声と共に、数人の兵士と従者が、ぐったりと横たわったオルトの姿を担いで入ってくる。右腕の根元は白い布で巻かれていたが、血が滲み、布はすでに紅に染まっていた。
「……オルト!」
クラヴィスはすぐに彼の元へ駆け寄る。血の匂いが立ち上り、玄関ホールに緊迫が走る。
駆けつけた医師がその場で止血を再確認し、顔をしかめる。
「侯爵様……止血は施しましたが、失血量が甚大です。意識も……ほとんどありません。残念ながら、腕の再接合は――」
「不可能、か」
クラヴィスの声は、静かに沈んでいた。
「……治癒魔法では、断裂した部位を癒やすことはできますが……完全に失われた器官を蘇らせることは、不可能です。しかも、この出血量……」
言葉を濁す医師に、クラヴィスはうなずく。
彼自身も、戦場で幾度となく見てきた。手遅れの傷――助けることが叶わなかった仲間たちの顔が、脳裏をかすめる。
「……いや、まだ終わっていない。せめて命だけは――」
その時、廊下の奥から足音が駆けてきた。
「父様、どうしたの……?」
声と共に現れたのは、リート、リリカ、そして小走りでついてくるシオンだった。
クラヴィスは、娘の姿を見て、一瞬だけ顔を曇らせる。
(見せたくはなかった……)
しかし、すでに遅かった。血の匂いが辺りに満ち、空気が刺すような冷たさを帯びている。
シオンは、玄関に倒れるオルトの姿に目を奪われ、立ち尽くした。
「……っ!」
彼女の肩が震える。
その視線を遮るように、リリカが前へ立つ。
「見ちゃダメ、シオン……っ!」
けれど、シオンの目は逸らさなかった。
吸い寄せられるように、血に染まったオルトの肩口を見つめ、そこにあるはずの“右腕”がないことに、無言で気づいた。
彼女はそっと、自分の胸に抱いていたルナちゃんを、強く抱きしめた。
「……死んじゃう……!」
誰にも聞こえないほど小さな声で、でも確かにそう呟いたそのとき――
クラヴィスは、娘の目に映る光に、何かが変わり始めたことを感じ取っていた。
玄関の空気が、ひときわ重く沈んだ。
誰もが息を呑み、オルトの容態を見守る中、シオンだけが、別のものに心を奪われていた。
“腕がない”。
それは、明らかな喪失だった。肉が裂かれ、血が流れ、そこにあったはずのものが、もう存在していない。
自分の胸にしがみついているルナちゃんの小さなぬいぐるみを、シオンはぎゅっと抱きしめる。心臓の音が、自分の中から遠ざかっていくようだった。
(……何も、できないまま……このまま、終わっちゃうの……?)
幼い胸の奥に、ずしりと重い感情が沈んでいく。
何もできない。何も知らない。ただ、誰かが目の前で傷ついているのを、見ているしかないなんて。
(……いや……いや……助けたい……!)
それは恐怖でも、躊躇でもなかった。
もっと強くて、もっとまっすぐな――心の底から突き上げてくるような気持ちだった。
気づけば、指先が震えていた。
それでも、無意識に手が伸びる。
クラヴィスの命令の声が飛ぶよりも早く、リリカの叫びが響くよりも早く――シオンは床にひざをついていた。
「シオン、やめなさいっ!」
姉の声が、悲鳴のように響いた。
リリカの声には、恐怖と焦りがにじんでいた。
この場にいる誰もが、それが“無謀”だとわかっていた。治癒魔法でも不可能な損傷。医学でも救えない状況。少女の手で、なにができるというのか。
けれど――
「……お願い……死なないで……」
小さな声だった。
けれど、確かな願いが込められていた。
その瞬間。
シオンの手のひらから、淡い金色の光がふわりと立ち上った。
それは炎ではなかった。魔法陣もなかった。ただ、空気の震えとともに、音もなく湧き上がった光。
まるで、彼女の想いが、そのまま形を変えて、世界に滲み出したかのようだった。
誰もが息を呑んだ。
「……わたしの声よ……
ひかりになって、とどいて……
このひとの いたみを とって……
なくした“て”を、いま――
もどしてあげて……♪」
それは、呪文ではなかった。詠唱でもなかった。
言葉と音がひとつになり、メロディのように、そっと紡がれていく。
“歌”。
まさしくそれは、“歌”だった。
感情と願いが音となって震え、空気に染み込み、光と混ざって流れていく。
そのとき、世界が変わった。
遠くで鐘の音が響いたような錯覚。
重力が一瞬だけ軽くなったような、奇妙な浮遊感。
金の粒が、舞う。
まるで春の花びらが風に運ばれているかのように、柔らかな粒子が空間を漂い、シオンの手からオルトの肩口へと流れていく。
静かな波紋が床を這い、音もなく世界が染まっていく。
誰もが、言葉を失って見つめていた。
そして――
オルトの肩口に、光が集まり始めた。
それは花が咲くようだった。
金の花弁のような光が重なり、ゆっくりと、何かを“編んでいく”。
まず、骨。
次に、筋肉の糸が絡まり合い、血が流れ、皮膚が薄く覆っていく。
それは、まるで旋律に導かれるように。
ひとつひとつの細胞が、シオンの“うた”に応えるように再構成され、失われた“右腕”が、指の一本まで正確に、彼の体へと戻っていった。
瞬きする間もなく、すべてが“そこに戻った”。
「……ば、馬鹿な……」
医師が、震える声で呟いた。
彼の知るどの治癒魔法にも、どの医学にも、こんな現象は存在しない。
再生ではない。これは“再構築”だ。
死にかけた細胞が、完全に再起動したかのような――いや、それ以上の、奇跡。
リリカも、リートも、そしてクラヴィスでさえ、ただその光景を呆然と見つめていた。
――祝福の鐘が鳴った、あの日のように。
――神殿のステンドグラスが、彼女を選んだ時のように。
それはまぎれもなく、“奇跡”だった。
“歌の魔法”――そう呼ぶには、あまりに未知で、異質で、神秘的すぎる。
それでも、シオンの声は、たしかに命を呼び戻したのだった。
静寂が、屋敷を支配していた。
あれほどまでに騒然としていた玄関ホールが、今は水を打ったように静まり返っている。誰もが言葉を失い、ただその場に立ち尽くしていた。
金色の光は、すでに収まり、シオンの手のひらも、ただの肌色に戻っている。
しかし、彼女が触れたその男――オルトは、確かに、そこに“戻って”いた。
右腕がある。
肌の色も、血の通いも、完全だった。
まるで、失われた時間そのものが、巻き戻されたかのようだった。
「……う……侯爵……様……?」
かすれた声が、床に横たわっていたオルトの唇から漏れた。
クラヴィスの目が見開かれる。
「……オルト……おまえ……生きているのか……?」
「……あれ、俺……腕……?」
オルトの視線が、自分の肩へとゆっくり動く。
そこには、先ほどまで切断されていたはずの右腕が、まるで何事もなかったように、指先までそろって存在していた。
「うそ……だろ……?」
リートが呟く。その目は見開かれ、驚愕と混乱が入り混じっていた。
リリカは、何も言えなかった。
ただ、シオンの肩にそっと手を置き、その小さな背中が震えているのを感じていた。
シオンの顔は伏せられていたが、その頬には涙の跡があり、瞳は潤んでいた。
「いたいの、いたいの、とんでけ……もう、だいじょうぶだよ……」
呟くように、小さな声が漏れる。
それは“歌”ではなかった。ただ、ひとりの少女が、傷ついた誰かに語りかけるような、優しい言葉だった。
彼女の瞳には、涙の奥にふわりとした微笑みが浮かんでいるようにすら見えた。
――この力があれば、もっと多くの人を、救えるのかもしれない。
――でも、この力が知られたら――。
そのとき。屋敷の空気が、再び動いた。
クラヴィスが、低く息を吐き、重々しい声で口を開く。
「……この場にいた者は、全員、今のことを口外するな」
その声は、怒りでも叱責でもなかった。
むしろ、祈りに近い、重い決意のこもった静かな命令だった。
「これは、命令だ。……絶対に、外には漏らすな。家族であろうと、侍女であろうと、誰一人例外はない」
空気が凍りつく。
誰もが理解していた。これは、父としての言葉ではない。
クラヴィス・エルステリアが、戦場を渡り歩き、王都の政争を潜り抜けてきた者として、世界の危うさを知る者として発した“警告”だった。
「……この力が世に知れれば、教会も王宮も黙ってはおらぬ。おまえたちが思っている以上に、この“奇跡”は……危ういんだ」
誰も返事をしなかった。できなかった。
ただ、皆がうなずいた。従者たちはうつむき、医師も口を閉ざす。
リートは、少しだけ視線をシオンに向け、何かを言いかけて、やめた。
リリカは、静かにシオンの肩をなでながら、頷いた。
「……シオン、大丈夫?」
声は優しかったが、その奥には隠せない不安があった。
自分の妹が、ただの“妹”ではなくなってしまった気がして――けれど、それでも守りたいという気持ちのほうが、何倍も強かった。
シオンは、そっと頷いた。
でもその目は、どこか遠くを見つめていた。
オルトの笑顔が浮かんでいた。
命をつなげたことへの安堵と、それ以上に――今、自分が踏み出したものの大きさを、感じ取っていた。
奇跡には、代償がある。
それを知るには、彼女はまだ幼すぎる。
けれど、感じ取るには、十分すぎるほどだった。
その夜、屋敷はひっそりと静まり返っていた。
昼間の騒ぎがまるで幻だったかのように、回廊の灯火は柔らかに揺れ、侍女たちも足音を潜めて動いていた。
寝室の扉が、微かに軋む。
天蓋のかかるベッドの上で、シオンは毛布にくるまり、胸にルナちゃんを抱いて横になっていた。
けれど、眠ってはいなかった。
目を閉じてはいたが、眠気は来ない。
昼間の出来事が、繰り返し頭の中を巡っていた。
オルトさんの悲鳴。
血に染まった床。
切断された腕――そして、“戻ってきた”右手。
(……怖かった。でも……)
ルナちゃんの耳をそっと撫でながら、シオンは自分の胸に問いかける。
(もし、あのまま何もできなかったら、オルトさんは……)
思考がそこで止まり、喉が詰まる。
だけど、私は助けた。
自分の“歌”で、彼の命を、彼の腕を、取り戻すことができた。
(……それって、本当に“良かった”って、言っていいのかな)
重くのしかかるのは、父の言葉だった。
「この力が知れたら、教会も王宮も動くだろう」
その言葉の裏にあるのは、尋問、監視、利用、あるいは――排除。
“普通の女の子”ではいられなくなる。
この力が、誰かの目に留まれば、私はもう――
(……でも、目を逸らしたくない)
誰かが泣いているとき。
誰かが傷ついているとき。
私の歌が、もし届くのなら――
「……こわくても、迷っても……
わたしの“うた”が、だれかを笑顔にできるなら……
歌い続けたい、って思うの」
言葉は、誰にも届かなくてもよかった。
でも、この想いだけは、自分の中に灯しておきたかった。
ベッドの横にある窓を、そっと開ける。
夜の空には星が瞬いていた。
冷たい風がカーテンを揺らし、頬に触れる。
その静寂の中で、シオンは小さく、けれどはっきりと口を開いた。
「――ありがとう。生きてて、くれて……」
それは祈りのような“ありがとう”だった。
誰にも届かないかもしれない、でも、確かに存在する想い。
オルトさんの笑顔が浮かぶ。
家族が守ろうとしてくれたことが、胸を温かくする。
(……それでも、私は)
もし、また誰かが倒れていたら。
もし、また、あの時のような絶望を見たら。
私はきっと――歌う。
怖くても。震えていても。
それでも、手を差し伸べたいと思うから。
“うた”は、魔法じゃない。
でも、きっと心に届くものだ。
それが、どんなに不思議でも、どんなに異端でも――
私が生きる理由であり、誰かと繋がるたったひとつの“力”。
だから。
「……おやすみ、ルナちゃん。今日も、ありがとう」
ルナちゃんの小さな手を、そっと握る。
その手の先には、誰かの笑顔がつながっている気がして――シオンはようやく、まぶたを閉じた。
星たちは何も語らない。
ただ静かに、遠い空の向こうで、まるで“うた”の続きを待っているかのように瞬いていた。