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17 あの光に届きたくて 歌じゃない私の魔法

 夏の朝は、ひっそりと静かだった。


 季節はすっかり夏に変わって、庭ではセミの声が聞こえるようになっていた。けれど今朝は、まだその気配もなく、まるで空気までもが眠っているみたいだった。


 薄いカーテン越しに、やわらかな陽ざしが部屋の中へと差し込んでくる。誰の足音もしない廊下は静まり返っていて、いつもよりほんの少しだけ、時間がゆっくり流れているように感じた。


 私はそっとベッドから降りて、ルナちゃんを抱きしめながら、机のほうへ歩いていった。


(あのとき……うたといっしょに、光った)


 街で――春のあの日、“魔法”が出た。


 私の心の中からあふれてきた“何か”が、みんなのけがを癒やしてくれた。あたたかくて、やさしくて、きらきらしていて……まるで奇跡みたいだった。


 でも、それは“うた”があったから起きたことなのかもしれない。


 私は、もう一度思い返す。あのとき、私はただ“助けたい”って思っただけだった。気づいたら声が出ていて、それが“うた”になっていて――そして光が生まれた。


 けれど、入学前の魔力測定では、“うた”ではない方法で力を調べられるらしい。


(あのときの光は、“私の魔法”だったのかな。それとも、ただの偶然だったのかな)


 私はルナちゃんを胸に抱えたまま、机の前に座った。


 ――知りたい。ちゃんと、自分のことを。


(もし、“うた”がなかったら、私の中にある魔法は……もう出てこないのかな)


 私は深呼吸をして、そっと両手を前に差し出した。


(……ためしてみよう)


 私は、小さく息を吸い込んで、目を閉じた。


 最初に思い浮かべたのは、“炎”の魔法だった。


(あかい火……あたたかいひかり……)


 ろうそくの灯りや、冬に囲んでもらった暖炉のぬくもりを、そっと胸の中で思い出す。


(小さくていい……出て、ください)


 けれど、手のひらに何の変化もなかった。


 指先はぬるいままで、空気も静かで、ただ朝の光だけが窓から差し込んでいる。


(つぎは、“水”……)


 井戸からくみ上げた冷たい水、庭の噴水のしぶき、雨上がりのしずくたち。どれも涼しくて、きらきらしていて、大好きな景色。


(でてきて、水さん……)


 でも、やっぱり何も起きなかった。


 私は少しだけ口をすぼめて、もう一度、深く息を吐いた。


(じゃあ、“風”)


 やわらかくて、気まぐれで、ときどきリリカ姉さまのスカートをひらりとめくってしまう、あの風。


 私の髪をやさしくなでてくれる、あの感じを思い出しながら――


(ふわってして……ふいて)


 ……何も、動かない。


 カーテンも、部屋の空気も、そのままだった。


(“地”……おにいさまがれんしゅうしてたところ。あの、かたい地面)


 足のうらに伝わる、草のざらざらした感触。夏の土のにおい。しっかりしていて、動かないもの。


 ――けれど、私の手の中には、何もこたえが返ってこなかった。


 私はそっと、ルナちゃんを抱きなおした。


(“光”……)


 あのときの光は、たしかに出た。


 きらきらしてて、あたたかくて、ひとをいやしてくれて――


(もういちど……お願い、でて)


 けれど、なにも起こらなかった。


(……“闇”)


 ちょっとだけ、こわい。


 でも、やってみないと、わからない。


 夜の階段。灯りの消えた廊下。だれもいない、おおきな部屋。黒くて、静かで、つめたくて――


(でてきて、ください……)


 ――だれも、こたえてはくれなかった。


 私は小さな肩をすぼめて、ルナちゃんをぎゅっと胸に抱きしめた。


(やっぱり、“うた”がないと、だめなのかな……)


 ほんの少し、胸の奥がつんとした。


 でも、泣かない。


 これはきっと、ちゃんと向き合わなきゃいけないことだから。


 私は立ち上がって、机の上のノートを開いた。


 そこには、自分で描いた六つの魔法属性の丸いマークと、「できなかった」っていう文字が並んでいた。


 私は、ふぅっと息をついて、机にほおをつけた。


 目の前のノートには、がんばって書いた文字がならんでいる。


「ひ ×」「みず ×」「かぜ ×」「つち ×」「ひかり ×」「やみ ×」


 ぜんぶ、ちいさな×がついていた。


 そのひとつひとつが、胸のなかをちくりと刺すように思えた。


(……ほんとうに、なにひとつ、できないの?)


 あの春の日――広場で見た、まぶしい光。

 私の“うた”と一緒に生まれた、きせきのようなやさしい輝き。


 あれが“まほう”じゃなかったのなら、いったい、なんだったの?


 私は、手のひらを見つめた。


 ふつうの、ちいさな手。


 でも、この手で、あのとき――たしかに、誰かを助けたはずだった。


 それなのに、今はなにも感じられない。


(“うた”がなきゃ、なにもできないのかな)


 胸の奥が、じんと熱くなった。


 でも、泣きたくはなかった。


 まだ泣いたら、そこで終わってしまう気がして。


(私は……)


 私は、目を閉じて、静かに思った。


(私は、“うた”じゃない、“なにか”も……きっと、持ってる)


 根拠なんて、どこにもなかった。


 けれど、あのときの光は、“うた”だけのものじゃなかった。


 心の奥から、何かが溢れて、それが光になって――誰かの痛みを消してくれた。


(“まほう”じゃない、“わたしだけのなにか”)


 私は、机のノートを開きなおした。


 六つの属性のあとに、もうひとつ、ちいさな欄を足す。


 「わたしのなにか ――?」


 まだ名前もない、“ちいさなちから”。


 でも、そこにそっと、書いてみる。


「ちょっとだけ、ぬくもりがありました」


 その文字を見ていると、なんだか心がふわっとした。


 ほんとうに少しだけ――けれど、確かに、光が差すような気がした。


 私は、ルナちゃんを抱きしめて、小さくつぶやいた。


「わたし、ちゃんと見つけるから……ね」


 ルナちゃんは何も言わなかったけれど、でも、まるで「うん」と頷いてくれたような気がした。


 窓の外では、朝の空気がすこしずつ動き始めていた。


 今日もきっと、あたらしい一日になる。


 まだ見つけられない“わたしのまほう”を――探すための、たいせつな一歩。


 私は椅子から立ち上がって、窓辺に歩み寄った。


 薄いカーテンのすき間から差し込む光が、足元にやわらかい模様を描いている。木々の影が風に揺れて、その模様もそっと動いた。


(リート兄さまも……リリカ姉さまも……みんな、自分の魔法を持ってる)


 リート兄さまは“炎”で、リリカ姉さまは“風”。それぞれに合った魔法が、ちゃんと手の中にある。


 私は、まだ何も持っていない。


 “うた”がなければ、きっと、何もできない。


 そう思うと、胸の奥がきゅっと縮こまる。


 けれど、それでも――


(あのときの光は、“うた”だけじゃなかった)


 私は、そう信じたい。


 あれは、たしかに心から出た“おもい”だった。


 目の前の男の子を助けたくて、傷ついた人たちに届いてほしくて、ただそれだけを願った。


 だからこそ、あのときの光は、ただの“魔法”なんかじゃなかった。


 “わたし”の一部だった。


(もう一度、ためしてみよう)


 私はそっと手を広げた。


 その手は、まだなにも持っていない。


 でも、何度でも向き合えば、きっと――何かが見つかる気がした。


「……だいじょうぶ。あきらめないで、さがせばいいんだよね」


 そうつぶやくと、ルナちゃんがこくりと頷いたような気がして、私はすこし笑った。


 まだ何もできない。でも、それが“はじまり”なんだ。



 日差しが少し強くなってきたころ、廊下のほうから小さな音が聞こえた。


 遠くで、誰かが静かに歩いている音。きっと、メイドさんか、お母さまかもしれない。


 私は慌てて机のノートを閉じて、ルナちゃんをぎゅっと抱きしめた。


 この朝のひとときは、誰にも見られたくない、私だけの“ひみつ”。


 魔法が出なかったことも、ちょっとだけあたたかさを感じたことも――全部、心の奥にしまっておきたい。


 ドアの向こうを気にしながら、私はベッドに戻った。


 ふかふかの毛布の中に潜り込んで、ルナちゃんと一緒に横になる。


(……きょうは、どんな日になるかな)


 そう思いながら、私はゆっくり目を閉じた。


 おなかのあたりが、ぽかぽかとあたたかい。


 それは、さっきまでの練習のせいか、それとも――


 私のなかに、ほんとうに“ちから”があるのかもしれない。


 私は、そっとつぶやいた。


「……また、やってみようね」


 そして、あたたかいまま、少しだけ、夢を見た。


◇ ◇ ◇


 次に目を覚ましたとき、窓の外では、夏の蝉が鳴きはじめていた。


 さっきまでの静けさが嘘のように、外の世界はすっかり“夏”になっていた。


 私は目をこすりながら、ルナちゃんと一緒に起き上がった。


「おはよう、ルナちゃん。……あのね、わたし、また魔法の練習したいの」


 ルナちゃんに話しかけながら、私は昨日と同じように、机の前に座った。


 そして、もう一度、ノートを開いた。


 六つの属性と、その下に書かれた「わたしのなにか」という、ちいさな言葉。


 私はそのページを見つめながら、にっこり笑った。


 まだ“ちから”は見つからない。


 でも――探すことは、できる。


 私は、まだ小さいけれど。


 でも、“あの光”に届きたくて。


 “うた”じゃない、“わたしの魔法”を――


 ちゃんと見つけたくて。


 私は、もう一度、両手を前に差し出してみた。


 指先をぴんと伸ばして、そこに意識を集中させる。手のひらがほんのりと温かくなるような気がして、思わず息をのんだ。


(……これって、もしかして)


 けれど、何かが見えるわけでも、感じるわけでもない。ただ、どこか胸の奥が、ふわりとふくらんだような気がした。


 私は、そのまましばらくじっとしていた。


 風も吹かない。光も出ない。音もなく、気配もない。


 それでも私は――動かなかった。


 目を閉じて、心の中の声に耳を澄ませる。言葉にならない想いが、胸の奥で小さな輪を描いていた。


(……もう一度、やってみよう)


 私は、ゆっくりと息を吐いて、両手をそっと下ろした。


 それから、机の引き出しから取り出した一冊のノートを開いた。

 表紙には、私の小さな文字で「まほうにっき」と書かれている。


 一ページ目には、きのうまでに試した魔法のことが、子どもらしい丸い文字で並んでいた。


 ノートのページをめくると、そこには昨日と今朝の記録が、素直な言葉でつづられていた。


「きょう、ひをためしてみたけど、でませんでした。あつくもならなかったです」


「みずは、つめたそうなイメージをしたけど、でませんでした」


 そのあとに、「かぜ」「だいち」「ひかり」「やみ」――全部、試したけど出なかったと、ちゃんと書かれていた。


 それでもページの最後には、ほんの少しだけ、やわらかい言葉が添えられていた。


「でも、何か、すこし、あったような気がしました」


 私はその一文を、そっと指先でなぞった。


(うん、まちがってない。あのとき、たしかに、何かがふれた)


 声にならない自分の感覚を、私は大切にしたかった。

 何かがあったかもしれない。それを信じる気持ちこそが、今の私の魔法の“たね”になる。そんな気がした。


「よし、つづきを書こう」


 私は鉛筆を持ち直し、ページの余白に、小さな文字で今日のことを加えていった。


「けさも、いろいろためしました。ひも、みずも、かぜも、だいちも、やっぱりうまくいきません。でも、さいごに、てのひらがあたたかくなったきがしました。ふわって、なにかがうごいたみたいな、そんなきもちです」


 文字を書き終えたとき、私はルナちゃんに目を向けた。


「……ルナちゃんも、感じた?」


 返事は、もちろん返ってこない。

 けれど、あたたかいルナちゃんのまなざしが、やさしく微笑んでいるように見えた。


「うん、わたしもそう思うよ。きっと、まちがってないって」


 私はノートを閉じ、そっと机の上に置いた。


 そして、立ち上がってカーテンを開けると、夏の光がやさしく部屋に差し込んだ。

 やわらかな風が、ほんのすこしだけ、カーテンを揺らした。


(……あ)


 その瞬間、私は思わず立ち止まった。


 窓から入ってきた風は、ただの自然のものかもしれない。

 けれど――どこか、私の気持ちにこたえてくれたような、そんな気がしてしまった。


(きっと、わたしにも……いつか“ほんとうの魔法”が使えるようになる)


 それは“うた”じゃないかもしれない。


 でも、“うた”みたいに、心でふれる“なにか”がある。


 私は小さな拳をぎゅっと握った。


「がんばる。もうちょっとだけ、つづけてみる」


 その決意は、朝の光に照らされて、胸の奥でぽっと灯るあたたかい火になった。




 窓の外には、青く広がる空があった。


 雲ひとつない晴天。けれどその青さは、どこか遠く、手が届かない場所のように思えた。


 私はその空を見上げながら、静かにルナちゃんを胸に抱いた。


 (あの空のずっと上には、どんな世界があるんだろう)


 小さな私にはまだ知らないことが、たくさんある。

 魔法のことも、自分の力のことも、そして――“うた”の力も。


 (……うたの力って、何だったんだろう)


 あのとき、広場で流れ出したのは、たしかに私の“うた”だった。

 でも、それだけじゃなかった。あのとき、胸の奥からあふれた“きもち”が、まるで光になって、世界を包み込んだような――そんな感覚があった。


 (あれは、“まほう”じゃないのかな)


 私はベッドの端に腰を下ろして、そっとルナちゃんを膝にのせた。


「うたじゃない“まほう”もあるんだよね。だから、調べてるのに……なんで、出てこないのかな……」


 ぽつりとこぼした声は、朝の静けさに吸い込まれていった。


 小さな焦りと、ちいさな不安。


 (みんなは、きっと、すぐにできるんだ。リリカ姉さまも、リート兄さまも)


 私は手のひらを見つめた。


 指先には何の力も宿っていない。ただの、五本の指のついた、小さな子どもの手。


 でも――この手は、あのとき、たしかに光を生んだ。

 たしかに誰かを、助けた。


 (……あれが、“まちがい”じゃないって、信じたい)


 その想いが、私の胸の奥で、ゆっくりとあたたかく広がっていった。


 「うたじゃなくても、わたしの“なにか”は、あるはずだよね……」


 問いかけるような声。


 ルナちゃんは何も言わないけれど、そのぬくもりが、私の言葉を肯定してくれているような気がした。


 私はもう一度、両手を前に出して、小さく息を吸った。


 そして、思い浮かべたのは、“うた”の時の気持ちだった。


 あのとき、何を願ったのか。どうして“うた”になったのか。

 ただ助けたいと、そう思った。それだけだった。


 (じゃあ、“まほう”も、きっと同じなんじゃないかな)


 私は静かに目を閉じて、胸に手をあてた。


 (だれかをまもりたい。だれかをいやしたい。だれかに、えがおになってほしい)


 その気持ちが、胸の奥からぽつぽつと湧き上がってくる。


 目を閉じたまま、そっと手を開く。


 (……出てきて、わたしの“なにか”)


 けれど、その手のひらに光は宿らなかった。

 風も吹かず、水も生まれず、音もなかった。


 でも――今の私は、すこしだけ笑えた。


 (いいんだ、今日はここまで。だって、昨日より、すこしだけ前に進めた)


 そう思えるくらいには、心があたたかくなっていた。

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