夏の朝は、ひっそりと静かだった。
季節はすっかり夏に変わって、庭ではセミの声が聞こえるようになっていた。けれど今朝は、まだその気配もなく、まるで空気までもが眠っているみたいだった。
薄いカーテン越しに、やわらかな陽ざしが部屋の中へと差し込んでくる。誰の足音もしない廊下は静まり返っていて、いつもよりほんの少しだけ、時間がゆっくり流れているように感じた。
私はそっとベッドから降りて、ルナちゃんを抱きしめながら、机のほうへ歩いていった。
(あのとき……うたといっしょに、光った)
街で――春のあの日、“魔法”が出た。
私の心の中からあふれてきた“何か”が、みんなのけがを癒やしてくれた。あたたかくて、やさしくて、きらきらしていて……まるで奇跡みたいだった。
でも、それは“うた”があったから起きたことなのかもしれない。
私は、もう一度思い返す。あのとき、私はただ“助けたい”って思っただけだった。気づいたら声が出ていて、それが“うた”になっていて――そして光が生まれた。
けれど、入学前の魔力測定では、“うた”ではない方法で力を調べられるらしい。
(あのときの光は、“私の魔法”だったのかな。それとも、ただの偶然だったのかな)
私はルナちゃんを胸に抱えたまま、机の前に座った。
――知りたい。ちゃんと、自分のことを。
(もし、“うた”がなかったら、私の中にある魔法は……もう出てこないのかな)
私は深呼吸をして、そっと両手を前に差し出した。
(……ためしてみよう)
私は、小さく息を吸い込んで、目を閉じた。
最初に思い浮かべたのは、“炎”の魔法だった。
(あかい火……あたたかいひかり……)
ろうそくの灯りや、冬に囲んでもらった暖炉のぬくもりを、そっと胸の中で思い出す。
(小さくていい……出て、ください)
けれど、手のひらに何の変化もなかった。
指先はぬるいままで、空気も静かで、ただ朝の光だけが窓から差し込んでいる。
(つぎは、“水”……)
井戸からくみ上げた冷たい水、庭の噴水のしぶき、雨上がりのしずくたち。どれも涼しくて、きらきらしていて、大好きな景色。
(でてきて、水さん……)
でも、やっぱり何も起きなかった。
私は少しだけ口をすぼめて、もう一度、深く息を吐いた。
(じゃあ、“風”)
やわらかくて、気まぐれで、ときどきリリカ姉さまのスカートをひらりとめくってしまう、あの風。
私の髪をやさしくなでてくれる、あの感じを思い出しながら――
(ふわってして……ふいて)
……何も、動かない。
カーテンも、部屋の空気も、そのままだった。
(“地”……おにいさまがれんしゅうしてたところ。あの、かたい地面)
足のうらに伝わる、草のざらざらした感触。夏の土のにおい。しっかりしていて、動かないもの。
――けれど、私の手の中には、何もこたえが返ってこなかった。
私はそっと、ルナちゃんを抱きなおした。
(“光”……)
あのときの光は、たしかに出た。
きらきらしてて、あたたかくて、ひとをいやしてくれて――
(もういちど……お願い、でて)
けれど、なにも起こらなかった。
(……“闇”)
ちょっとだけ、こわい。
でも、やってみないと、わからない。
夜の階段。灯りの消えた廊下。だれもいない、おおきな部屋。黒くて、静かで、つめたくて――
(でてきて、ください……)
――だれも、こたえてはくれなかった。
私は小さな肩をすぼめて、ルナちゃんをぎゅっと胸に抱きしめた。
(やっぱり、“うた”がないと、だめなのかな……)
ほんの少し、胸の奥がつんとした。
でも、泣かない。
これはきっと、ちゃんと向き合わなきゃいけないことだから。
私は立ち上がって、机の上のノートを開いた。
そこには、自分で描いた六つの魔法属性の丸いマークと、「できなかった」っていう文字が並んでいた。
私は、ふぅっと息をついて、机にほおをつけた。
目の前のノートには、がんばって書いた文字がならんでいる。
「ひ ×」「みず ×」「かぜ ×」「つち ×」「ひかり ×」「やみ ×」
ぜんぶ、ちいさな×がついていた。
そのひとつひとつが、胸のなかをちくりと刺すように思えた。
(……ほんとうに、なにひとつ、できないの?)
あの春の日――広場で見た、まぶしい光。
私の“うた”と一緒に生まれた、きせきのようなやさしい輝き。
あれが“まほう”じゃなかったのなら、いったい、なんだったの?
私は、手のひらを見つめた。
ふつうの、ちいさな手。
でも、この手で、あのとき――たしかに、誰かを助けたはずだった。
それなのに、今はなにも感じられない。
(“うた”がなきゃ、なにもできないのかな)
胸の奥が、じんと熱くなった。
でも、泣きたくはなかった。
まだ泣いたら、そこで終わってしまう気がして。
(私は……)
私は、目を閉じて、静かに思った。
(私は、“うた”じゃない、“なにか”も……きっと、持ってる)
根拠なんて、どこにもなかった。
けれど、あのときの光は、“うた”だけのものじゃなかった。
心の奥から、何かが溢れて、それが光になって――誰かの痛みを消してくれた。
(“まほう”じゃない、“わたしだけのなにか”)
私は、机のノートを開きなおした。
六つの属性のあとに、もうひとつ、ちいさな欄を足す。
「わたしのなにか ――?」
まだ名前もない、“ちいさなちから”。
でも、そこにそっと、書いてみる。
「ちょっとだけ、ぬくもりがありました」
その文字を見ていると、なんだか心がふわっとした。
ほんとうに少しだけ――けれど、確かに、光が差すような気がした。
私は、ルナちゃんを抱きしめて、小さくつぶやいた。
「わたし、ちゃんと見つけるから……ね」
ルナちゃんは何も言わなかったけれど、でも、まるで「うん」と頷いてくれたような気がした。
窓の外では、朝の空気がすこしずつ動き始めていた。
今日もきっと、あたらしい一日になる。
まだ見つけられない“わたしのまほう”を――探すための、たいせつな一歩。
私は椅子から立ち上がって、窓辺に歩み寄った。
薄いカーテンのすき間から差し込む光が、足元にやわらかい模様を描いている。木々の影が風に揺れて、その模様もそっと動いた。
(リート兄さまも……リリカ姉さまも……みんな、自分の魔法を持ってる)
リート兄さまは“炎”で、リリカ姉さまは“風”。それぞれに合った魔法が、ちゃんと手の中にある。
私は、まだ何も持っていない。
“うた”がなければ、きっと、何もできない。
そう思うと、胸の奥がきゅっと縮こまる。
けれど、それでも――
(あのときの光は、“うた”だけじゃなかった)
私は、そう信じたい。
あれは、たしかに心から出た“おもい”だった。
目の前の男の子を助けたくて、傷ついた人たちに届いてほしくて、ただそれだけを願った。
だからこそ、あのときの光は、ただの“魔法”なんかじゃなかった。
“わたし”の一部だった。
(もう一度、ためしてみよう)
私はそっと手を広げた。
その手は、まだなにも持っていない。
でも、何度でも向き合えば、きっと――何かが見つかる気がした。
「……だいじょうぶ。あきらめないで、さがせばいいんだよね」
そうつぶやくと、ルナちゃんがこくりと頷いたような気がして、私はすこし笑った。
まだ何もできない。でも、それが“はじまり”なんだ。
◇
日差しが少し強くなってきたころ、廊下のほうから小さな音が聞こえた。
遠くで、誰かが静かに歩いている音。きっと、メイドさんか、お母さまかもしれない。
私は慌てて机のノートを閉じて、ルナちゃんをぎゅっと抱きしめた。
この朝のひとときは、誰にも見られたくない、私だけの“ひみつ”。
魔法が出なかったことも、ちょっとだけあたたかさを感じたことも――全部、心の奥にしまっておきたい。
ドアの向こうを気にしながら、私はベッドに戻った。
ふかふかの毛布の中に潜り込んで、ルナちゃんと一緒に横になる。
(……きょうは、どんな日になるかな)
そう思いながら、私はゆっくり目を閉じた。
おなかのあたりが、ぽかぽかとあたたかい。
それは、さっきまでの練習のせいか、それとも――
私のなかに、ほんとうに“ちから”があるのかもしれない。
私は、そっとつぶやいた。
「……また、やってみようね」
そして、あたたかいまま、少しだけ、夢を見た。
◇ ◇ ◇
次に目を覚ましたとき、窓の外では、夏の蝉が鳴きはじめていた。
さっきまでの静けさが嘘のように、外の世界はすっかり“夏”になっていた。
私は目をこすりながら、ルナちゃんと一緒に起き上がった。
「おはよう、ルナちゃん。……あのね、わたし、また魔法の練習したいの」
ルナちゃんに話しかけながら、私は昨日と同じように、机の前に座った。
そして、もう一度、ノートを開いた。
六つの属性と、その下に書かれた「わたしのなにか」という、ちいさな言葉。
私はそのページを見つめながら、にっこり笑った。
まだ“ちから”は見つからない。
でも――探すことは、できる。
私は、まだ小さいけれど。
でも、“あの光”に届きたくて。
“うた”じゃない、“わたしの魔法”を――
ちゃんと見つけたくて。
私は、もう一度、両手を前に差し出してみた。
指先をぴんと伸ばして、そこに意識を集中させる。手のひらがほんのりと温かくなるような気がして、思わず息をのんだ。
(……これって、もしかして)
けれど、何かが見えるわけでも、感じるわけでもない。ただ、どこか胸の奥が、ふわりとふくらんだような気がした。
私は、そのまましばらくじっとしていた。
風も吹かない。光も出ない。音もなく、気配もない。
それでも私は――動かなかった。
目を閉じて、心の中の声に耳を澄ませる。言葉にならない想いが、胸の奥で小さな輪を描いていた。
(……もう一度、やってみよう)
私は、ゆっくりと息を吐いて、両手をそっと下ろした。
それから、机の引き出しから取り出した一冊のノートを開いた。
表紙には、私の小さな文字で「まほうにっき」と書かれている。
一ページ目には、きのうまでに試した魔法のことが、子どもらしい丸い文字で並んでいた。
ノートのページをめくると、そこには昨日と今朝の記録が、素直な言葉でつづられていた。
「きょう、ひをためしてみたけど、でませんでした。あつくもならなかったです」
「みずは、つめたそうなイメージをしたけど、でませんでした」
そのあとに、「かぜ」「だいち」「ひかり」「やみ」――全部、試したけど出なかったと、ちゃんと書かれていた。
それでもページの最後には、ほんの少しだけ、やわらかい言葉が添えられていた。
「でも、何か、すこし、あったような気がしました」
私はその一文を、そっと指先でなぞった。
(うん、まちがってない。あのとき、たしかに、何かがふれた)
声にならない自分の感覚を、私は大切にしたかった。
何かがあったかもしれない。それを信じる気持ちこそが、今の私の魔法の“たね”になる。そんな気がした。
「よし、つづきを書こう」
私は鉛筆を持ち直し、ページの余白に、小さな文字で今日のことを加えていった。
「けさも、いろいろためしました。ひも、みずも、かぜも、だいちも、やっぱりうまくいきません。でも、さいごに、てのひらがあたたかくなったきがしました。ふわって、なにかがうごいたみたいな、そんなきもちです」
文字を書き終えたとき、私はルナちゃんに目を向けた。
「……ルナちゃんも、感じた?」
返事は、もちろん返ってこない。
けれど、あたたかいルナちゃんのまなざしが、やさしく微笑んでいるように見えた。
「うん、わたしもそう思うよ。きっと、まちがってないって」
私はノートを閉じ、そっと机の上に置いた。
そして、立ち上がってカーテンを開けると、夏の光がやさしく部屋に差し込んだ。
やわらかな風が、ほんのすこしだけ、カーテンを揺らした。
(……あ)
その瞬間、私は思わず立ち止まった。
窓から入ってきた風は、ただの自然のものかもしれない。
けれど――どこか、私の気持ちにこたえてくれたような、そんな気がしてしまった。
(きっと、わたしにも……いつか“ほんとうの魔法”が使えるようになる)
それは“うた”じゃないかもしれない。
でも、“うた”みたいに、心でふれる“なにか”がある。
私は小さな拳をぎゅっと握った。
「がんばる。もうちょっとだけ、つづけてみる」
その決意は、朝の光に照らされて、胸の奥でぽっと灯るあたたかい火になった。
⸻
窓の外には、青く広がる空があった。
雲ひとつない晴天。けれどその青さは、どこか遠く、手が届かない場所のように思えた。
私はその空を見上げながら、静かにルナちゃんを胸に抱いた。
(あの空のずっと上には、どんな世界があるんだろう)
小さな私にはまだ知らないことが、たくさんある。
魔法のことも、自分の力のことも、そして――“うた”の力も。
(……うたの力って、何だったんだろう)
あのとき、広場で流れ出したのは、たしかに私の“うた”だった。
でも、それだけじゃなかった。あのとき、胸の奥からあふれた“きもち”が、まるで光になって、世界を包み込んだような――そんな感覚があった。
(あれは、“まほう”じゃないのかな)
私はベッドの端に腰を下ろして、そっとルナちゃんを膝にのせた。
「うたじゃない“まほう”もあるんだよね。だから、調べてるのに……なんで、出てこないのかな……」
ぽつりとこぼした声は、朝の静けさに吸い込まれていった。
小さな焦りと、ちいさな不安。
(みんなは、きっと、すぐにできるんだ。リリカ姉さまも、リート兄さまも)
私は手のひらを見つめた。
指先には何の力も宿っていない。ただの、五本の指のついた、小さな子どもの手。
でも――この手は、あのとき、たしかに光を生んだ。
たしかに誰かを、助けた。
(……あれが、“まちがい”じゃないって、信じたい)
その想いが、私の胸の奥で、ゆっくりとあたたかく広がっていった。
「うたじゃなくても、わたしの“なにか”は、あるはずだよね……」
問いかけるような声。
ルナちゃんは何も言わないけれど、そのぬくもりが、私の言葉を肯定してくれているような気がした。
私はもう一度、両手を前に出して、小さく息を吸った。
そして、思い浮かべたのは、“うた”の時の気持ちだった。
あのとき、何を願ったのか。どうして“うた”になったのか。
ただ助けたいと、そう思った。それだけだった。
(じゃあ、“まほう”も、きっと同じなんじゃないかな)
私は静かに目を閉じて、胸に手をあてた。
(だれかをまもりたい。だれかをいやしたい。だれかに、えがおになってほしい)
その気持ちが、胸の奥からぽつぽつと湧き上がってくる。
目を閉じたまま、そっと手を開く。
(……出てきて、わたしの“なにか”)
けれど、その手のひらに光は宿らなかった。
風も吹かず、水も生まれず、音もなかった。
でも――今の私は、すこしだけ笑えた。
(いいんだ、今日はここまで。だって、昨日より、すこしだけ前に進めた)
そう思えるくらいには、心があたたかくなっていた。