冬の訪れは、少しずつ屋敷の空気を変えていった。
朝、カーテンの隙間から差し込む光が白く濁っていた。窓を開けると、吐いた息が白くなってすぐに消える。石造りの回廊には雪がうっすらと積もり、手すりの上にも冷たい結晶が並んでいた。
私はその回廊に面した窓辺に座って、静かに雪を眺めていた。膝の上にはルナちゃん。もふもふの毛がぬくもりを伝えてくれて、ほんのり暖かい。指先で耳のあたりをくるくると撫でていると、小さな音で喉を鳴らして応えてくれた。
遠くで子どもたちの歓声が聞こえる。お屋敷の外で働く使用人たちの子どもかもしれない。雪が降ると、みんな外に出たくなるのだろう。白い息をはずませて、雪の上を走り回る姿が目に浮かんだ。
そんな声を、私は少し不思議な気持ちで聞いていた。
あの日から、季節がひとつ、めぐった。
あの“街の出来事”。あの時、私は――
光と、うたに包まれていた。
人々が泣いていた。苦しんでいた。
だけど、私のうたが届いて、少しだけ笑ってくれた。
その光景は、まるで夢みたいで――現実だったなんて、今でも信じきれていない。
「もうすぐ……入学、なんだって」
小さくつぶやいた言葉が、部屋の空気の中で淡く消えていく。ルナちゃんが耳をぴくりと動かしたけれど、それだけだった。
入学。学校に行く日が、近づいている。
その前に“魔力測定”があると、父さまが言っていた。
私は、まだ四歳だ。
数字を数えるのも、字を書くのも、まだうまくない。
でも、家の中では少しずつ“準備”が始まっていた。
読み書きの練習。礼儀作法。体を動かすストレッチや、言葉の発音の練習。そして、ほんの少しの――うたの練習。
うたの魔法。
それが、何なのかは、まだよくわからない。
ただ、あの時。
私のうたで誰かが笑ってくれたことは、ちゃんと覚えている。
それが、私にとって一番大切な記憶になっている。
(あれは、なんだったの……?)
思い出そうとするたび、胸の奥がふわっと揺れる。怖くはない。けれど、少しだけ不安になる。
もし、また同じようなことが起きたら、私は――
今度も、ちゃんと、誰かを笑顔にできるのかな。
窓の外では、雪が舞い続けていた。
ゆっくり、ゆっくりと、降り積もっていく。
私の心にも、まだ知らない“何か”が積もっていくように思えた。
ルナちゃんが、小さく身じろぎする。
その動きに気づいて、私は目を細めた。
「……ありがとね、ルナちゃん」
そう声をかけると、ルナちゃんは私の膝の上で、喉をもう一度くぐもらせた。
この小さな時間が、いつまでも続けばいいのに――
そんな気持ちを、私は胸の奥で、そっと抱きしめていた。
◇
部屋の扉が、静かに開いた。
「シオン様、今日も頑張りましょうね」
いつもの優しい声だった。
入ってきたのは、私の教育係のフィオナ。
腰まで届く長い栗色の髪をきちんと編み込み、濃紺のドレスに白い襟を合わせた、落ち着いた雰囲気の女性だ。まだ若いのに、話し方や立ち振る舞いがとても上品で、私はなんとなく「お姉さん」というより「先生」と呼びたくなる。
フィオナは、母さまが選んでくれた特別な家庭教師で、このところ毎朝、私にいろいろなことを教えてくれる。読み書き、数字、作法――それに、言葉づかいも。
最初は、正直ちょっとだけ怖かった。
机に向かうのも、お手本の通りに字を書くのも、なにもかもがうまくいかなくて、すぐに肩がこわばった。
でも、フィオナは怒らなかった。
むしろ、うまくできない私の手をそっととって、丁寧に筆の持ち方を教えてくれた。
「うん、がんばる」
私は膝の上のルナちゃんに「待っててね」と声をかけてから、椅子に座り直した。
机の上には、今日の練習用の紙と、小さな筆が並べられている。
インク壺のふたを開けると、ふわっと少しだけ薬草の香りがした。これはきっと、手が汚れても落ちやすいように、特別な処理がしてあるのだろう。
私は筆をとって、紙の上にそっと文字をなぞっていく。
この国の文字は、最初はまるで記号のようで、何が書いてあるのかぜんぜんわからなかった。
でも、最近はすこしずつ読めるようになってきた。
たとえば、これは「家」。これは「光」。これは「雪」。
ひとつずつ、覚えていくたびに、世界が広がっていくような気がした。
「……あれ? ここ、にてるけど……」
「“音”と“言”ですね。確かに、少し似ています。でも、上の部分が違いますよ。ほら、“音”は屋根の形のようになっていて、“言”は横線が続いていますね」
「ほんとだ……」
フィオナは、手元の小さなノートに簡単な図を書いてくれた。そこには、丸や線でできた可愛いイラストも添えられていて、見ているだけで楽しくなる。
フィオナの教え方は、どこか“やわらかい”。
厳しいわけじゃないけれど、いい加減でもなくて、ちゃんと私のことを見てくれていると、自然に思える。
そして、何より――
「よくできました、シオン様。とても綺麗な文字です」
そう言って、ほんの少し微笑んでくれる。
それだけで、胸の奥がぽかぽかする。
もっと頑張りたいって、思ってしまう。
だけど――今日は、ちょっとだけ違った。
筆を置いたあと、私はそっと口を開いた。
「……ねえ、フィオナ」
「はい、なんでしょう?」
「わたし、ふつうの子じゃないの?」
言った瞬間、自分でも少し驚いた。
こんなこと、言うつもりじゃなかった。だけど……ずっと、心の中でぐるぐるしていた思いだったのだ。
あの時のうた。みんなが笑ってくれた奇跡のこと。
それから、入学とか、魔力測定とか。
どれも“特別”なものみたいで、私はそれに“追いつけてない”ような気がしていた。
フィオナは、一瞬だけ驚いた顔をして――それから、穏やかに微笑んだ。
「シオン様は、とても素敵なお嬢様です。そして、世界にひとりしかいない、大切な子です」
「それって……やっぱり、ふつうじゃない?」
私はぽつりと問い返した。
“特別”って、すごいことみたいに聞こえるけど、それは“違う”ってことでもあって。
“違う”って、なんだか少し、さみしい気がする。
でも、フィオナはそのまま私を見つめて、ゆっくりと首をかしげた。
「普通って、何でしょうね。どこかに“基準”があるように思えて、実は誰にも決められないものです」
「……わからない」
「私は、シオン様のことを大好きですよ。それが答えじゃ、だめかしら?」
その言葉に、私は思わず――くすっと、笑ってしまった。
「それで、いい……かも」
ほんとうは、全部わかったわけじゃない。
でも、“大好き”って言われたことは、ちゃんと心に届いた。
不安はまだある。
でも、私が私でいられるなら、それでいいのかもしれない。
◇
午後の光は、午前中よりもやわらかく、少しだけ金色を帯びていた。
部屋の窓辺には白いレースのカーテンが揺れ、窓の外では雪がしんしんと降り続いている。
その風景を見ながら、私はテーブルの上に置かれたティーカップを両手で包み込んだ。
「今日は寒いからね、あったかい紅茶にしたよ。お砂糖は一つ? 二つ?」
そう声をかけてくれたのは、リリカ姉さま。
ふわふわの毛糸のカーディガンを羽織りながら、ティーポットを両手で持って笑っている。
「えっと……ひとつ」
「了解〜。じゃあ、まぜまぜ……っと」
ティースプーンがカップの中でくるくると回る音が、やさしく部屋に響いた。
リリカ姉さまの動きは、いつもどこかリズミカルで軽やかだ。けれど、注ぐ手つきはとても丁寧で、見ているだけで気持ちがほっとする。
カップから立ちのぼる湯気の向こうに、リリカ姉さまの笑顔がふわりと浮かんでいる。
「ありがと、リリカ姉さま」
「うんうん、どういたしまして。今日はね、お母様のレシピをちょっとだけ真似してみたの。ラベンダーとミルクのブレンド、ってやつ」
「……いいにおい」
「でしょー? 香りだけでも、ちょっぴり幸せになれるんだよ」
そう言いながら、リリカ姉さまも自分のカップを手に取った。
こうして並んで座って、お茶を飲む時間が、私はとても好きだった。
リリカ姉さまは、私より四つ年上で、学院にも通っている。
だからふだんは忙しくて、一緒に過ごす時間はそれほど長くない。けれど、こうして時々、手作りのお茶を用意してくれる。
それがすごく嬉しくて、いつも胸があたたかくなる。
「入学、もうすぐだね。ドキドキしてる?」
リリカ姉さまの声が、紅茶の香りといっしょにふわっと届いた。
私は、しばらく黙ってカップを見つめていた。
湯気がゆらゆらと揺れて、その向こうに自分の指がぼんやりと映っている。
「……ちょっと。こわい、かも」
「うんうん、私もそうだったもん」
リリカ姉さまはそう言って、うんうんと大きく頷いた。
「新しい場所って、緊張するよね。知らない先生、知らないお友だち、知らないお部屋……もうぜんぶ知らないことばっかりで、最初のころ、私なんて朝から泣きそうだったもん」
「リリカ姉さまが?」
「ふふっ、そうだよ? でも、みんなそうだったと思うよ。泣いたり、黙っちゃったり、ぎこちなかったり。でもね……」
リリカ姉さまはカップをそっと置いて、少しだけ顔を近づけた。
「でもね、大丈夫。シオンはシオンのままで、ちゃんと輝けるよ」
その言葉に、私は思わず目を見開いた。
「……ほんと?」
「うん。だって、シオンは、すごくやさしいから」
やさしい――
そう言われるたび、胸の奥がくすぐったくなる。
うれしい。でも、どこか自信が持てなくて、目を伏せてしまう。
でも、リリカ姉さまの声は、まっすぐだった。
やさしいだけじゃなくて、強くて、あったかい。
そうだ。リリカ姉さまは、いつもこうなんだ。
私が不安になると、そっと寄り添って、笑ってくれる。
そして、ちゃんと信じてくれる。
「シオンはね、きっと、すごいことができるようになる。……でも、“すごいこと”って、べつに魔法が上手とか、数字が高いとか、そんなのだけじゃないと思う」
「……?」
「誰かを笑顔にできること。それって、すっごくすごいことだよ」
「……わたし、笑ってもらえたの、うれしかった」
「うんうん。じゃあ、その気持ちを大事にして。何かに迷ったとき、悲しくなったとき、ちょっとだけ思い出してみて。シオンは、あの時、うたを届けて、みんなを笑顔にできた。だから、きっと大丈夫」
リリカ姉さまの言葉は、あったかくて、ちょっとだけ涙が出そうになる。
だけど、泣く代わりに――私は、ぎゅっと紅茶のカップを握った。
「……がんばる」
「うん、それでこそシオン!」
リリカ姉さまは小さく拍手して、それからまた、にこっと笑った。
その笑顔は、まるで、あの時の光みたいだった。
あの光を、私は忘れない。
リリカ姉さまの言葉と笑顔が、心の奥にそっと灯をともしてくれた。
まだこわいこともあるけれど――
“笑ってもらえたことが、うれしかった”。
その想いだけは、ずっと大切にしたい。
私は、紅茶のぬくもりを両手に包みながら、そっと窓の外に目をやる。
雪は、まだ降り続いていた。
ひとひら、またひとひらと、静かに、静かに舞い降りる。
世界は白く、時間はゆっくりと流れている。
そしてその白の中で――私は、少しだけ前を向けるようになった。
窓の外の光が、わずかにやわらいでいく。
夕方が、そっと近づいていた。