目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

18 四歳の冬、入学と魔力測定の準備を始める

 冬の訪れは、少しずつ屋敷の空気を変えていった。


 朝、カーテンの隙間から差し込む光が白く濁っていた。窓を開けると、吐いた息が白くなってすぐに消える。石造りの回廊には雪がうっすらと積もり、手すりの上にも冷たい結晶が並んでいた。


 私はその回廊に面した窓辺に座って、静かに雪を眺めていた。膝の上にはルナちゃん。もふもふの毛がぬくもりを伝えてくれて、ほんのり暖かい。指先で耳のあたりをくるくると撫でていると、小さな音で喉を鳴らして応えてくれた。


 遠くで子どもたちの歓声が聞こえる。お屋敷の外で働く使用人たちの子どもかもしれない。雪が降ると、みんな外に出たくなるのだろう。白い息をはずませて、雪の上を走り回る姿が目に浮かんだ。


 そんな声を、私は少し不思議な気持ちで聞いていた。


 あの日から、季節がひとつ、めぐった。


 あの“街の出来事”。あの時、私は――


 光と、うたに包まれていた。


 人々が泣いていた。苦しんでいた。

 だけど、私のうたが届いて、少しだけ笑ってくれた。

 その光景は、まるで夢みたいで――現実だったなんて、今でも信じきれていない。


「もうすぐ……入学、なんだって」


 小さくつぶやいた言葉が、部屋の空気の中で淡く消えていく。ルナちゃんが耳をぴくりと動かしたけれど、それだけだった。


 入学。学校に行く日が、近づいている。

 その前に“魔力測定”があると、父さまが言っていた。


 私は、まだ四歳だ。

 数字を数えるのも、字を書くのも、まだうまくない。


 でも、家の中では少しずつ“準備”が始まっていた。


 読み書きの練習。礼儀作法。体を動かすストレッチや、言葉の発音の練習。そして、ほんの少しの――うたの練習。


 うたの魔法。


 それが、何なのかは、まだよくわからない。


 ただ、あの時。

 私のうたで誰かが笑ってくれたことは、ちゃんと覚えている。


 それが、私にとって一番大切な記憶になっている。


(あれは、なんだったの……?)


 思い出そうとするたび、胸の奥がふわっと揺れる。怖くはない。けれど、少しだけ不安になる。


 もし、また同じようなことが起きたら、私は――

 今度も、ちゃんと、誰かを笑顔にできるのかな。


 窓の外では、雪が舞い続けていた。


 ゆっくり、ゆっくりと、降り積もっていく。

 私の心にも、まだ知らない“何か”が積もっていくように思えた。


 ルナちゃんが、小さく身じろぎする。

 その動きに気づいて、私は目を細めた。


「……ありがとね、ルナちゃん」


 そう声をかけると、ルナちゃんは私の膝の上で、喉をもう一度くぐもらせた。


 この小さな時間が、いつまでも続けばいいのに――

 そんな気持ちを、私は胸の奥で、そっと抱きしめていた。



 部屋の扉が、静かに開いた。


「シオン様、今日も頑張りましょうね」


 いつもの優しい声だった。


 入ってきたのは、私の教育係のフィオナ。

 腰まで届く長い栗色の髪をきちんと編み込み、濃紺のドレスに白い襟を合わせた、落ち着いた雰囲気の女性だ。まだ若いのに、話し方や立ち振る舞いがとても上品で、私はなんとなく「お姉さん」というより「先生」と呼びたくなる。


 フィオナは、母さまが選んでくれた特別な家庭教師で、このところ毎朝、私にいろいろなことを教えてくれる。読み書き、数字、作法――それに、言葉づかいも。


 最初は、正直ちょっとだけ怖かった。

 机に向かうのも、お手本の通りに字を書くのも、なにもかもがうまくいかなくて、すぐに肩がこわばった。


 でも、フィオナは怒らなかった。


 むしろ、うまくできない私の手をそっととって、丁寧に筆の持ち方を教えてくれた。


「うん、がんばる」


 私は膝の上のルナちゃんに「待っててね」と声をかけてから、椅子に座り直した。


 机の上には、今日の練習用の紙と、小さな筆が並べられている。

 インク壺のふたを開けると、ふわっと少しだけ薬草の香りがした。これはきっと、手が汚れても落ちやすいように、特別な処理がしてあるのだろう。


 私は筆をとって、紙の上にそっと文字をなぞっていく。


 この国の文字は、最初はまるで記号のようで、何が書いてあるのかぜんぜんわからなかった。

 でも、最近はすこしずつ読めるようになってきた。


 たとえば、これは「家」。これは「光」。これは「雪」。


 ひとつずつ、覚えていくたびに、世界が広がっていくような気がした。


「……あれ? ここ、にてるけど……」


「“音”と“言”ですね。確かに、少し似ています。でも、上の部分が違いますよ。ほら、“音”は屋根の形のようになっていて、“言”は横線が続いていますね」


「ほんとだ……」


 フィオナは、手元の小さなノートに簡単な図を書いてくれた。そこには、丸や線でできた可愛いイラストも添えられていて、見ているだけで楽しくなる。


 フィオナの教え方は、どこか“やわらかい”。


 厳しいわけじゃないけれど、いい加減でもなくて、ちゃんと私のことを見てくれていると、自然に思える。


 そして、何より――


「よくできました、シオン様。とても綺麗な文字です」


 そう言って、ほんの少し微笑んでくれる。


 それだけで、胸の奥がぽかぽかする。


 もっと頑張りたいって、思ってしまう。


 だけど――今日は、ちょっとだけ違った。


 筆を置いたあと、私はそっと口を開いた。


「……ねえ、フィオナ」


「はい、なんでしょう?」


「わたし、ふつうの子じゃないの?」


 言った瞬間、自分でも少し驚いた。

 こんなこと、言うつもりじゃなかった。だけど……ずっと、心の中でぐるぐるしていた思いだったのだ。


 あの時のうた。みんなが笑ってくれた奇跡のこと。

 それから、入学とか、魔力測定とか。

 どれも“特別”なものみたいで、私はそれに“追いつけてない”ような気がしていた。


 フィオナは、一瞬だけ驚いた顔をして――それから、穏やかに微笑んだ。


「シオン様は、とても素敵なお嬢様です。そして、世界にひとりしかいない、大切な子です」


「それって……やっぱり、ふつうじゃない?」


 私はぽつりと問い返した。


 “特別”って、すごいことみたいに聞こえるけど、それは“違う”ってことでもあって。

 “違う”って、なんだか少し、さみしい気がする。


 でも、フィオナはそのまま私を見つめて、ゆっくりと首をかしげた。


「普通って、何でしょうね。どこかに“基準”があるように思えて、実は誰にも決められないものです」


「……わからない」


「私は、シオン様のことを大好きですよ。それが答えじゃ、だめかしら?」


 その言葉に、私は思わず――くすっと、笑ってしまった。


「それで、いい……かも」


 ほんとうは、全部わかったわけじゃない。

 でも、“大好き”って言われたことは、ちゃんと心に届いた。


 不安はまだある。

 でも、私が私でいられるなら、それでいいのかもしれない。



 午後の光は、午前中よりもやわらかく、少しだけ金色を帯びていた。

 部屋の窓辺には白いレースのカーテンが揺れ、窓の外では雪がしんしんと降り続いている。

 その風景を見ながら、私はテーブルの上に置かれたティーカップを両手で包み込んだ。


「今日は寒いからね、あったかい紅茶にしたよ。お砂糖は一つ? 二つ?」


 そう声をかけてくれたのは、リリカ姉さま。

 ふわふわの毛糸のカーディガンを羽織りながら、ティーポットを両手で持って笑っている。


「えっと……ひとつ」


「了解〜。じゃあ、まぜまぜ……っと」


 ティースプーンがカップの中でくるくると回る音が、やさしく部屋に響いた。

 リリカ姉さまの動きは、いつもどこかリズミカルで軽やかだ。けれど、注ぐ手つきはとても丁寧で、見ているだけで気持ちがほっとする。


 カップから立ちのぼる湯気の向こうに、リリカ姉さまの笑顔がふわりと浮かんでいる。


「ありがと、リリカ姉さま」


「うんうん、どういたしまして。今日はね、お母様のレシピをちょっとだけ真似してみたの。ラベンダーとミルクのブレンド、ってやつ」


「……いいにおい」


「でしょー? 香りだけでも、ちょっぴり幸せになれるんだよ」


 そう言いながら、リリカ姉さまも自分のカップを手に取った。


 こうして並んで座って、お茶を飲む時間が、私はとても好きだった。


 リリカ姉さまは、私より四つ年上で、学院にも通っている。

 だからふだんは忙しくて、一緒に過ごす時間はそれほど長くない。けれど、こうして時々、手作りのお茶を用意してくれる。


 それがすごく嬉しくて、いつも胸があたたかくなる。


「入学、もうすぐだね。ドキドキしてる?」


 リリカ姉さまの声が、紅茶の香りといっしょにふわっと届いた。


 私は、しばらく黙ってカップを見つめていた。

 湯気がゆらゆらと揺れて、その向こうに自分の指がぼんやりと映っている。


「……ちょっと。こわい、かも」


「うんうん、私もそうだったもん」


 リリカ姉さまはそう言って、うんうんと大きく頷いた。


「新しい場所って、緊張するよね。知らない先生、知らないお友だち、知らないお部屋……もうぜんぶ知らないことばっかりで、最初のころ、私なんて朝から泣きそうだったもん」


「リリカ姉さまが?」


「ふふっ、そうだよ? でも、みんなそうだったと思うよ。泣いたり、黙っちゃったり、ぎこちなかったり。でもね……」


 リリカ姉さまはカップをそっと置いて、少しだけ顔を近づけた。


「でもね、大丈夫。シオンはシオンのままで、ちゃんと輝けるよ」


 その言葉に、私は思わず目を見開いた。


「……ほんと?」


「うん。だって、シオンは、すごくやさしいから」


 やさしい――

 そう言われるたび、胸の奥がくすぐったくなる。


 うれしい。でも、どこか自信が持てなくて、目を伏せてしまう。

 でも、リリカ姉さまの声は、まっすぐだった。

 やさしいだけじゃなくて、強くて、あったかい。


 そうだ。リリカ姉さまは、いつもこうなんだ。

 私が不安になると、そっと寄り添って、笑ってくれる。


 そして、ちゃんと信じてくれる。


「シオンはね、きっと、すごいことができるようになる。……でも、“すごいこと”って、べつに魔法が上手とか、数字が高いとか、そんなのだけじゃないと思う」


「……?」


「誰かを笑顔にできること。それって、すっごくすごいことだよ」


「……わたし、笑ってもらえたの、うれしかった」


「うんうん。じゃあ、その気持ちを大事にして。何かに迷ったとき、悲しくなったとき、ちょっとだけ思い出してみて。シオンは、あの時、うたを届けて、みんなを笑顔にできた。だから、きっと大丈夫」


 リリカ姉さまの言葉は、あったかくて、ちょっとだけ涙が出そうになる。


 だけど、泣く代わりに――私は、ぎゅっと紅茶のカップを握った。


「……がんばる」


「うん、それでこそシオン!」


 リリカ姉さまは小さく拍手して、それからまた、にこっと笑った。


 その笑顔は、まるで、あの時の光みたいだった。


あの光を、私は忘れない。


 リリカ姉さまの言葉と笑顔が、心の奥にそっと灯をともしてくれた。


 まだこわいこともあるけれど――

 “笑ってもらえたことが、うれしかった”。


 その想いだけは、ずっと大切にしたい。


 私は、紅茶のぬくもりを両手に包みながら、そっと窓の外に目をやる。


 雪は、まだ降り続いていた。

 ひとひら、またひとひらと、静かに、静かに舞い降りる。


 世界は白く、時間はゆっくりと流れている。


 そしてその白の中で――私は、少しだけ前を向けるようになった。


 窓の外の光が、わずかにやわらいでいく。

 夕方が、そっと近づいていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?