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19 この雪の下に、春を信じて

 雪は、まだ降り続いていた。


 昼過ぎには少し明るさが見えたものの、陽が傾きはじめた今、空は再び薄く灰色に閉ざされている。

 窓の外では、白い粒が静かに舞い、庭の木々も屋根も、音のないままその白さを深めていった。


 私は、暖かな部屋の中でルナちゃんと遊んでいた。

 小さなクッションを積み重ねて、ルナちゃんがぴょんと飛び乗って、それを私が「まてーっ」と追いかける。


「ふふっ……ルナちゃん、まってー」


 ルナちゃんはすばしっこくて、私が手を伸ばすとくるりと方向を変えて、また別のクッションへと跳び乗る。

 そのたびに私もころころと笑って、部屋には久しぶりに明るい声が響いていた。


 そんな時間だった。


 ――コツ、コツ。


 扉をノックする音が、少しだけ現実に戻る合図のように響いた。


「シオン様、旦那様が書斎でお待ちです」


 侍女の声。

 その瞬間、私はぴたりと動きを止めた。


 胸の奥が、少しだけきゅっとなった。

 怒られることはないってわかっているのに、なぜか、呼ばれるとすこし緊張する。


「……わかった。いくね」


 私はルナちゃんに「まっててね」と囁いて、小さく息を吐いてから扉のほうへと歩き出した。


 廊下に出ると、窓の外はすっかり夜だった。

 雪はまだ静かに降り続いていて、石畳の庭が白く染まっていた。


 歩くうちに、足音が絨毯に吸い込まれていく。

 扉の前に着いたとき、私は一度だけ深呼吸をした。


「入ります」


 小さく声をかけて扉を開けると――そこには、あたたかな光があった。


 書斎の中は、重厚な本棚に囲まれた空間だった。壁には父さまが集めた地図や古い書物が並んでいて、机の上には整然と積まれた書類とランプの明かり。ランプのガラス越しに揺れる炎が、机の影を壁に落としていた。


 その光の中で、父さまが立っていた。


「シオン、こちらへ」


 声は、低くて穏やかだった。

 私はこくんと頷いて、部屋の奥に歩み寄った。


 父さまは大きな椅子の背から手を離し、私の肩にそっと手を置いて、ソファのほうへと導いてくれた。


「寒くなってきたな。冷えてはいないか?」


「うん、だいじょうぶ」


 私は小さな声で答えた。

 父さまの手はあたたかくて、指先が少しだけざらりとしていた。

 たくさんの仕事をこなしてきた、大人の手の感触。


 ソファに座ると、父さまも隣に腰を下ろした。


「シオン、今日は少し、魔力測定について話そう」


「……うん」


 私は姿勢を正して、父さまの言葉を待った。


「魔力測定とはな、自分の中にある“ちから”を知るためのものだ。どれほどの魔力量を持ち、どれだけ制御できるか――数字として示される」


「すうじ……」


「そう。けれど、それはあくまで“目安”に過ぎない」


 父さまは、言葉を選ぶように一拍置いてから続けた。


「たとえば、同じ数字を持つ者でも、その力の使い方によって、意味はまるで違う。剣を振るう者もいれば、癒す者もいる。学問に活かす者もいれば、ただ温かい灯をともすために使う者もいる」


 私は、小さく瞬きをした。


「……それって、どういうこと?」


「つまりな、シオン。“ちから”とは、その人の“心”によって、形を変えるのだ。数字の高さや低さが、価値のすべてではない。むしろ、それをどう使いたいかが、もっとも大切なのだよ」


 父さまの声は静かだった。でも、その静けさの奥に、強い意志のようなものを感じた。


 私は、そっと口を開いた。


「……わたしの“ちから”って、なんだろう」


 その問いに、父さまは少しだけ目を細めた。

 そして、私の肩に手を置いたまま、ゆっくりと頷いた。


「まだ分からなくていい。これから、ゆっくり探していけばよいのだから。だが一つ、覚えていてほしい」


 父さまは、すこしだけ身をかがめて、私の目線に合わせてくれた。


「どんな力であれ、それを誰かのために使おうと思えること。それこそが、本当の“強さ”だと、私は思っている」


「……うた、でも?」


 私の言葉に、父さまは目を細めて微笑んだ。


「ああ、うたも立派な力だ。むしろ、争いではなく、癒しや希望をもたらす“ちから”こそが、もっとも尊いと私は思う」


 その言葉を聞いたとき、胸の奥がじんとした。


 あの時――広場で、私はうたった。

 苦しんでいた人々のために、何かができたらと思って。

 そうしたら、笑ってくれた人がいた。


 その時の光景が、ふわりとよみがえる。


 父さまは、その想いをちゃんと肯定してくれた。


「おまえは、おまえのままでいい」


 父さまは、もう一度言った。


「どんな測定結果が出ても、どんな声があっても、私たちはおまえの味方だ。それだけは、忘れないでほしい」


 その言葉は、私の心に深く染み込んだ。

 まるで、寒い夜にあたたかい毛布をかけてもらったような、そんな安心感。


 私はそっと、父さまの手に自分の手を重ねた。


「……ありがとう、父さま」


「ふふ……こちらこそ、来てくれてありがとう、シオン」


 そのあと、父さまは私の頭をやさしく撫でてくれた。

 その手のぬくもりは、ずっとずっと消えなかった。



 夜は、静かに更けていた。


 私はベッドの上で、毛布にくるまっていた。

 部屋のランプはもう消してあって、今は壁の小さなランタンが、ほのかにゆれている。

 その明かりだけでも、十分だった。


 膝の上にはルナちゃん。

 ふわふわの毛並みがぬくもりを伝えてくれて、私は自然とその背中を撫でていた。


 さっき父さまに言われた言葉が、まだ胸の奥に残っている。

 「おまえは、おまえのままでいい」

 「どんな力であっても、心がすべてを決める」


 それはきっと、難しいことばなんだと思う。

 でも、わからないなりに――私は、あの時の気持ちを思い出していた。


 あの日、私がうたったのは、うまくできるとかできないとか、そんなことじゃなかった。

 ただ、目の前で苦しんでいる人に、少しでもなにかできたらって。

 その一心で、私は声を出した。


 不思議な光が、私の中からあふれた。

 うたが魔法になって、人を癒やした。


 あれが“うたの魔法”だったのだと、最近になってようやく知った。

 でも――私はまだ、その魔法がどういうものか、よくわからない。


 きっと“特別”なんだろう。

 でも、その“特別”が、こわい時もある。


 入学のこと、魔力測定のこと。

 もし、私の“ちから”がみんなとちがっていたら、どうなるんだろう。


 うたは……ふしぎな力だ。

 でも、それが“すごい”って言われるのは、なんだか違う気もしてしまう。


(……私は、どうしたいんだろう)


 ぽつんと、心の中で問いかける。


 でも、答えはまだ見つからない。


 ただ、わかっているのは――


 私はあの時、うたって、少しだけ誰かの涙をぬぐえたこと。

 そのことが、うれしかったこと。


 だから――


「……がんばりたいな」


 そっと、毛布の中でつぶやいた。


 ルナちゃんは、くるんと丸くなって、静かに私の手の中で眠っていた。

 その寝息が、小さな音で上下していて、私はそのリズムを聞きながら目を閉じた。


 明日からまた、少しずつ“準備”が始まる。

 読み書きの練習も、礼儀作法も、体を動かすストレッチも――そして、うたの練習も。


 まだ何もかもうまくはできないけれど。


 でも、少しずつ、少しずつ。


 家族がいて、私を見守ってくれている。

 それだけで、心の中にあたたかな火が灯る。


 不安もある。

 けれど、それ以上に――


「……わたし、ちゃんとがんばるよ」


 小さな声で、そう言った。


 窓の外では、雪がまだ降っていた。

 ゆっくり、静かに、積もっていく白。


 その夜、私はルナちゃんといっしょに、深く眠りについた。


◇ ◇ ◇


 翌朝、目を覚ましたとき、部屋の空気は昨日よりもひんやりとしていた。

 毛布の中はまだ温かく、ルナちゃんが隣で小さく丸まって眠っていた。

 窓の外を見ると、雪はさらに積もっていて、庭の木々が白い衣をまとっていた。


 私はゆっくりと身体を起こし、まだ眠たそうなルナちゃんに「おはよう」と囁いてからベッドを降りた。


 朝の身支度をすませると、私は暖炉の前のスペースに向かった。

 そこには柔らかい絨毯が敷かれ、朝の日課――身体を動かすストレッチの時間が待っていた。


 これは、入学を控えた“準備”のひとつだった。

 最初はうまくできなかった。身体はすぐにふらついて、すぐ転んでしまって、膝をすりむいたこともあった。


 でも、毎日少しずつ続けてきた。


 今では、転ばずにできる動きが増えてきた。


「よいしょ……えいっ……」


 私は腕を伸ばして、片足を上げる。

 ふらりと揺れそうになるけれど、ぐっとこらえて、バランスを取る。


 そのすぐ近くで、ルナちゃんがちょこんと座って、じっと私を見つめていた。

 まるで「がんばってね」と応援してくれているようで、私は小さく笑った。


 音楽も何もない静かな朝。


 だけど、雪の気配と、暖炉の火のぬくもり、そしてルナちゃんの視線が、私の背中をそっと押してくれていた。


(……少しずつ、だけど)


 私は思う。


 昨日より、今日。今日より、明日。

 きっと、すこしずつ前に進んでる。


 うたも、魔法も、最初はまったくできなかった。

 でも、“やってみよう”と思った気持ちから、何かが始まった。


 だから――


 身体を伸ばしながら、私はそっと小さな声で口ずさんでいた。


 うたの魔法ではない。ただの、うた。

 でも、心をこめたら、ちゃんと届くはず。


「きずの いたみも なみだのいろも……」


 部屋の中に、ほんの少しだけ私の声が響いた。

 やさしく、ささやくように。


 暖炉の火が揺れて、その音と私のうたがまじりあう。


 そんなひとときだった。


 そして――


「……いい声だね」


 背後から聞こえたその声に、私ははっとして振り向いた。


 そこには、リート兄さまが立っていた。

 淡く光の射す部屋の入り口で、あたたかい目をして私を見ていた。


「リート兄さま!」


 私はぱっと顔を上げて、両手を胸の前にぎゅっと握った。

 リート兄さまは、相変わらず背が高くて、朝の光を背に受けて立っていた。

 少しだけ目を細めて笑っていて、その微笑みはとてもあたたかくて、どこか懐かしい気持ちにさせてくれた。


「シオンのうた、ひさしぶりに聞いた気がするな」


 リート兄さまはゆっくりと歩み寄り、私の隣に腰を下ろした。


 私のうたを――

 覚えていてくれたのだ。


「……あの時のこと、思い出してた?」


 リート兄さまの声は、とてもやさしかった。

 私は、少しだけ目を伏せて、小さく頷いた。


「……うん。もうすぐ、魔力測定だから」


「そっか。怖い?」


 その問いに、私は少しだけ口をつぐんだ。

 答えは、きっともう決まっていたけれど――言葉にするのは、少しだけ勇気がいる。


 でも、リート兄さまの隣なら。


「……すこしだけ。でも、がんばりたいの」


 その一言に、リート兄さまはゆっくり頷いた。


「うん。それなら大丈夫だ。シオンは、やさしい魔法を持ってる」


「……うたの魔法?」


「ああ。癒す魔法。救う魔法。誰かの涙を、ふっと軽くする魔法だ」


 その言葉に、私は息をのんだ。


「それって……そんなに、すごいの?」


「すごいよ」


 リート兄さまは、はっきりと答えた。


「剣を振るうことも、火を放つことも、確かに“強さ”だ。でも、それだけじゃない。誰かの痛みに気づいて、寄り添って、救おうとする――それも、すごく強いことなんだ」


 私は、胸の奥がじんとするのを感じた。

 言葉じゃない。音でもない。

 ただ、心にそっと手を伸ばされたような――そんな、あたたかさだった。


「……わたし、まだよくわかってない。でも……」


 私はそっと言葉を探しながら、口に出した。


「みんなが笑ってくれたの、うれしかった。あの時……わたしのうたで、だれかの顔がやわらかくなって……それが、ずっと、残ってるの」


「うん。それでいい」


 リート兄さまは、ぽん、と私の頭を優しく撫でてくれた。


 大きな手。

 しっかりとした指。

 でも、触れる動きはとても繊細で、心を包み込むようだった。


「シオンのうたは、誰かを救った。それだけで、すでに十分すぎるくらい、意味がある」


「……リート兄さま」


 私は顔を上げて、リート兄さまの横顔を見た。

 少し前まで、“すごく遠い人”だと思っていた。


 背も高くて、剣の練習もしていて、いつも大人と難しそうな話をしていて――

 だけど今は、こんなに近くにいて、私のことをちゃんと見てくれている。


「わたし、がんばるよ。こわいけど、でも……できることを、ちゃんとやりたい」


「それでこそ、シオンだ」


 リート兄さまの声は、すこしだけ笑っていた。

 でも、その笑いはやさしさでできていて、私の決意を、静かに支えてくれていた。


 私は、そっとルナちゃんの頭を撫でた。

 ルナちゃんは、変わらず私のそばにいて、小さく喉を鳴らしていた。


 雪はまだ、降り続けている。


 でも、心の中には――

 ほんのりと、春の光が差し込んでいるような気がした。

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