「魔力測定まで、あと十日」――
そう告げられたあの日の夜、私はふと、自分の胸の奥がざわついているのを感じていた。
怖いわけじゃない。
けれど、なにかが落ち着かない。
それは、深く息を吸っても吐いても、うまく拭えないまま、心の底でふるえているようだった。
そして、それからの日々は、まるで駆け足のように過ぎていった。
朝は、読み書きと礼儀作法の復習。
午後にはストレッチや、軽い体力づくり。
そのあとには、少しずつ“魔力”に触れるための感覚練習が始まった。
その魔力の指導をしてくれているのは、若い女性魔術師のミレイアさんだった。
肩までの髪をきゅっと後ろでまとめ、いつもきりっとした表情をしている。
けれど教えるときの声は、とても静かで、やわらかい。
「それでは、シオン様。深呼吸して、胸の奥に意識を向けてみてください」
そう言われ、私はそっと目を閉じる。
空気を吸い込むたびに、ほんの少しだけ、心のざわつきが静かになっていく。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。
何度か繰り返すうちに、お腹の奥がふんわりと温かくなっていくような感覚が広がった。
「はい、いい感じです。そのまま、今度は掌に意識を向けてください。
“ちからを届けたい”と願う気持ちを大切に、そっと意識を向けて……」
私は、両手をそっと前に差し出し、小さく目を閉じた。
何かが――動く気がした。
風のような、光のような、でもそれとも違う、ふわりとした“気配”が、指先に集まってくる。
見えはしないけれど、手のひらの奥で、確かに何かが生まれかけている。
けれど――
「……あれ……?」
ふいに、集中が途切れた。
それはほんの一瞬のことで、でも、そのわずかな心のゆらぎが、
手の中に生まれかけた“なにか”をするりと逃がしてしまった。
私は肩を落として、小さな声でつぶやいた。
「……ごめんなさい。うまく、できなくて……」
するとミレイアさんは、私の手をそっと両手で包み込むように持ち上げてくれた。
その手はあたたかく、どこか安心するぬくもりを含んでいた。
「大丈夫ですよ、シオン様。初めてでここまで感覚をつかめたのは、とても素晴らしいことです」
その言葉に、私は驚いて顔を上げる。
できなかったと思っていたのに、ほめられるなんて――
ミレイアさんは、にこりと微笑んで続けた。
「魔力というのは、“動かそう”と思うだけではうまくいきません。
“触れたい”“届けたい”と願う気持ちの方が、ずっと大切なんです」
「……とどいて、ほしい……」
私は、その言葉を胸の中で何度も繰り返した。
ちからは、ただ扱うものじゃない。
想いと、願いと、心と――一緒にあるもの。
それを私は、ミレイアさんの手と、あのやわらかな声から、教えてもらった気がした。
⸻
その日の午後、やわらかな陽射しが庭に降り注いでいた。
春の花々がそよ風に揺れ、芝の上では小さな影が二つ、寄り添うように動いている。
「はい、背筋ぴーんっ! 両手を横に伸ばして、はい、回す〜!」
リリカ姉さまの元気な声にあわせて、私は両腕を広げて、くるくると大きく回してみた。
腕の先から風を感じるたび、どこか体が軽くなっていくような気がする。
ふと横を見ると、リリカ姉さまが私と同じ動きをして、くるっと回ったあと、ぴょんと軽やかに跳ねて見せた。
その動きがまるで羽根のように軽くて、思わず声をあげてしまう。
「ねぇ、リリカ姉さま、なんでそんなに軽いの?」
私が不思議そうに尋ねると、姉さまはいたずらっぽく笑いながら胸を張った。
「ふふふ、それはね、日々の鍛錬のたまものっ!」
「たんれん……?」
「うんっ。つまり、毎日コツコツがんばること〜!」
その言葉がちょっと面白くて、私はくすっと笑ってしまった。
くるくる回していた腕を止めた瞬間、リリカ姉さまがそっと私の手を握ってくれた。
あたたかくて、やさしい手。ふいに、胸の奥がふわっとする。
「ねぇ、シオン。がんばるのも素敵なことだけどね、疲れた時はちゃんと“止まって”もいいんだよ?」
「……とまっても、いいの?」
問いかけるような声で聞き返すと、姉さまはまっすぐな瞳で、やわらかく頷いた。
「もちろん。呼吸もね、うたもね――止まるからこそ、次の響きが生まれるの。止まることは、悪いことじゃないのよ」
その言葉は、風に乗って、私の胸の奥深くまで届いた気がした。
がんばることも大事。でも、止まることも、大切。
リリカ姉さまの手のぬくもりが、そっとそれを教えてくれたようだった。
⸻
一方で、大人たちのまなざしは、少しずつ――確かに、変わっていった。
廊下ですれ違うたび、屋敷の使用人たちが微笑みかけてくる。
お辞儀をしながら、「いよいよですね」「本当に楽しみです」と、あたたかな声で言葉をかけてくれる。
その声に悪意は、まったくない。
むしろ、やさしく、応援するような眼差しだった。
けれど――そのやさしさが、胸にそっと、重くのしかかることもあった。
“あの時の奇跡”――
私が、うたで人を癒した、あの一度きりの光を見た人たちは、きっとこう思っている。
(この子には、すごいちからがあるに違いない)
でも、私は……まだ、何もできていない。
今日も、魔力の練習で手のひらにうまく“流れ”を感じられなかった。
“うたの魔法”だって、あの日のようには発動しない。
あれが一度きりの奇跡だったのではないかと、不安になることだってある。
けれど――
「……わたし、なんとか……したいの」
そう、小さくつぶやいたのは、ある夜。
自分のベッドの上で、ルナちゃんを抱きながら。
布団の中で丸まっていたルナちゃんが、私の声に反応して、ぴくりと耳を動かした。
その動きが、なんだか心を支えてくれるようで――私はもう一度、言葉を重ねる。
「……できること、ひとつずつ。……それだけでも、いいよね」
そう言って、小さく息を吐いた。
そして私は、明日を迎えるために、そっと目を閉じた。
魔力測定の日まで、あと三日。
廊下を歩くたびに、周囲の話し声が、ふと耳に届く。
「お嬢様、いったいどのくらいの数値を出されるのでしょうか」
「何しろ、前例がありませんからね……」
「きっと、すごい数値が出ると思いますよ。あの時の奇跡を思えば……」
「でも、お身体に負担がかからないといいのですが。まだ、たった四歳ですものね」
誰もが悪気なく、そして当たり前のように“期待”を語る。
私は、その会話が聞こえないふりをしながら、静かに歩を進めた。
でも、心の奥では――そのひとつひとつの言葉が、知らず知らずのうちに積もっていく。
まるで降り積もる雪のように、音もなく、そっと胸に降りかかってくる。
“あの時の奇跡”が、“結果”として見られる日。
数字という、形ある評価で――自分の中の“ちから”が、他人の目にさらされる。
そのことが、こんなにも怖いだなんて――
私は、思ってもいなかった。
⸻
その日の夜、私はひとりで、暖炉の前に座っていた。
毛布を肩にかけて、膝の上にはルナちゃん。
そのやわらかなぬくもりを感じながら、私はただ、パチパチとはぜる薪の音に耳を澄ませていた。
赤くゆらめく炎は、壁に揺れる影を生み、部屋の隅々にまで、静かな時間を染み込ませていく。
(……逃げたいわけじゃない。でも)
“すごい”と言われることが、どうしてこんなに怖いのか。
誰かの期待が、自分の中でどんどん大きくふくらんでいくのがわかるほど、胸の奥がぎゅっと締めつけられてしまう。
自分でも、その理由を、うまく言葉にできなかった。
「……シオン」
ふいに、やわらかな声が聞こえた。
振り向くと、そこには母さまが立っていた。
長いスカートの裾をそっと整えながら、静かに私の隣へと腰を下ろす。
「……母さま」
「冷えていないかしら?」
その声に私は、かすかに首を横に振った。
「……うん。だいじょうぶ」
けれど、本当は少しだけ、手足の先が冷たかった。
それを察したかのように、母さまは毛布の端をそっと持ち上げて、私の肩にふわりとかけ直してくれる。
それだけで、不思議と胸の奥があたたかくなった。
「……不安なのね」
優しいその言葉に、私は黙って視線を落とした。
言葉にしなくても、母さまにはすべて見透かされている気がした。
「……うん」
やっとの思いでそう答えると、母さまは静かに私の手をとり、両手で包み込んでくれた。
そのぬくもりが、火のように指先からじんわりと広がっていく。
「“測られる”というのは、誰にとっても緊張することよ。あなたが特別弱いわけじゃないの。
でもね――それが、あなた自身のすべてじゃないわ」
「でも……」
声に出したとたん、胸の奥に溜まっていたものがこぼれそうになった。
母さまの瞳は、まっすぐで、どこまでも優しかった。
「数字や記録は、“かたち”として残るもの。
でも、あなたの“うた”で救われた人たちの笑顔――それは、かたちにならなくても、確かにこの世界にあった“真実”だった」
「……母さま、どうして、そんなふうに……わかってくれるの?」
問いかけた声は、少しだけ震えていた。
すると母さまは、ふっとやわらかく微笑んで、そっと私の髪を撫でてくれた。
「だって、私はあなたの母親よ。
あなたがどんな想いでうたってきたか、どんなふうに誰かを想ってきたか――
その優しさを、ずっとそばで見てきたから」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなっていく。
伝えなくても伝わっていた、母の愛。
声にしなくても包み込んでくれる、その安心感。
「数字じゃ測れない大切なものを、あなたはたくさん持ってるの。だから――大丈夫」
そう言ってくれた母さまの手は、今夜いちばん、あたたかかった。
⸻
次の日の朝。
いつもより少しだけ早く目が覚めた私は、どこか落ち着かない気持ちのまま、食堂へと足を運んだ。
すると、そこには珍しく――リート兄さまの姿があった。
窓から差し込む朝の光が、兄さまの背にふわりとかかっていて、いつもより少し頼もしく見えた。
椅子に腰かけた兄さまは、カップを片手に、私の方を見て小さく笑った。
「おはよう、シオン。……ちゃんと食べないと、力出ないぞ?」
その言葉に、私は小さく頷いた。
「……わかってるけど……なんだか、おなか、あんまりすいてないの」
正直にそう打ち明けると、兄さまはそれを否定することなく、むしろ当たり前だと言うように頷いてくれた。
「まぁ、そうだろうな。緊張する日ってのは、そんなもんだ。……でも、少しでも口に入れよう。
甘いパンなら、どうだ?」
「……うん」
すると兄さまは、パン皿の中から、ふわりとバターの香る小さな丸パンを選んで、そっと私の皿に乗せてくれた。
ほんのりと温かくて、やさしい匂いがした。
私は小さく息を吸い込んで、ゆっくりとパンにかじりついた。
甘くて、やわらかくて、それだけで少しだけ、気持ちがほぐれていくような気がした。
そんな静かな時間の中で、兄さまがぽつりと口を開く。
「……シオン。大人の世界ってな、時々“数字”にばかりこだわるんだ。どれだけ強いか、どれだけ使えるか、ってな」
私はパンをかじる手を止めて、兄さまの横顔を見つめた。
「でもな、そんなもん、ほんとはどうだっていい。
“誰かのために何かができる”って――それだけで、すごいことなんだよ」
兄さまの声は、まっすぐで、どこか深い。
それは、たくさんの現実を見てきた騎士だからこその、重みがあった。
「騎士だって、魔術師だって、力があるから偉いわけじゃない。
“誰かを守りたい”っていう気持ちがなきゃ、ただの武器と同じだ。……お前の“うた”も、きっとそうだ」
「……どうして、そう思うの?」
私は、小さな声でそう尋ねた。
兄さまは少しだけ笑って、それから答えてくれた。
「俺も――誰かの笑顔を見たくて剣を取ったからな。
だからさ、不安になった時は、こう思えばいいんだ。
『自分のうたで、誰かが笑ってくれた』って。それだけで、十分なんだよ」
その言葉が、じんわりと胸に染み込んでいった。
「……うん」
私は小さく頷いて、もう一度パンを噛んだ。
その甘さはさっきよりも少しだけ、心にやさしかった。
「それでいいんだ。お前は――お前のままでいい。それが、シオンだから」
リート兄さまのまっすぐな言葉に、私は思わず、心の奥で小さくつぶやいた。
(……ありがとう、兄さま)
それは、言葉にならなくても、ちゃんと届いている気がした。
⸻
そして、その夜――私は、ふたたび窓辺に座っていた。
雪はすでに止み、庭はしんと静まり返っている。
月明かりがうっすらと積もった白い地面を照らし、まるで誰もいない世界をやさしく包んでいるようだった。
私は、膝の上でルナちゃんを抱きしめていた。
あたたかいぬくもりが、胸の奥の不安をそっとやわらげてくれる。
「……ついに、明日だね」
ぽつりとつぶやいた声は、夜の空気にすっと溶けていく。
ルナちゃんは静かに身じろぎするだけで、何も言わない。
でも、その小さな体のあたたかさが、まるで“だいじょうぶだよ”と語りかけてくれているようだった。
私は、ゆっくりとまぶたを閉じ、深く呼吸をした。
そして、小さな声で、ことばのように、旋律のように――うたを口ずさんだ。
「こえにならない ねがいのかけら……
ひとつ ひとつ ひかりにかえて……」
それは、まだ“うたの魔法”ではない。
けれど私の心から生まれた、想いのこもったうた。
誰にも届かなくてもいい。
ただ、自分自身に届くように――私は、歌った。
明日がこわくても。
何が起きても。
(……笑っていよう)
どんなかたちでも、私の“ちから”が誰かの心に触れますように。
私のうたが、私の願いが、ちゃんと生きていきますように。
気づけば、夜はすっかり更けていた。
ふと見れば、カーテンの向こうで、また雪が降り始めていた。
しんしんと音もなく降り積もる雪は、昼間の晴れ間が幻だったかのように、静けさだけを世界に広げていく。
私はベッドの上に戻り、毛布を肩までかぶって、ルナちゃんを胸に抱きしめた。
その小さな体は、どこか私の不安を包み込んでくれているようだった。
窓辺のランタンが、ゆらゆらと揺れている。
揺れる光は、壁にやわらかな影を映して、部屋の中にぬくもりを残していた。
明日はいよいよ、“魔力測定”の日。
胸の奥ではまだ、小さなふるえが続いている。
でも、それでも――私は逃げないと決めていた。
うたは、まだ魔法にはならない。
けれど、“想い”を乗せることはできる。
あの日、誰かを救いたいと願ったとき、私はたしかに“あの光”にふれた。
その記憶があるかぎり、私は、前を向ける。
「……あした、きっと、だいじょうぶ」
誰に向けたのでもない、けれど確かな声で、私はそっと言った。
すると、ルナちゃんが小さく「にゃあ」と鳴いて、答えてくれる。
私はくすっと笑って、そのまま毛布の中にもぐりこんだ。
ルナちゃんを胸に抱いたまま、まぶたを閉じる。
遠くから、雪の音が聞こえるような気がした。
それは、まるで夜の子守唄みたいに、私の心を落ち着かせてくれる。
この夜が明けたら、私は“ちから”と向き合う。
でも、それだけじゃない。
私は、私のままで。
心でうたうように、明日を迎える。
そう信じて、私はそっと目を閉じた。
夜はまだ深く、長いけれど――
その静けさの向こうには、きっと新しい光が待っている。