冬の朝は、しんと静まり返っていた。
窓の外には昨夜のうちに降ったらしい薄雪が、地面を柔らかく覆っている。誰の足跡もない純白の庭。空気は澄み切っていて、世界が、そっと息をひそめているようだった。
私は、窓辺に立ってその景色を見つめていた。
深く息を吐くと、ガラスがほのかに曇り、そこに小さく指を滑らせる。冷たくない。――けれど、その向こうに見える中庭の木々や石畳の輪郭は、少しぼやけていた。
暖炉の火は静かに揺れている。
そのぬくもりが、部屋の空気だけでなく、私の胸の奥にまでじんわりと染みこんでいくようだった。まるで、誰かがそっと背中に手を添えてくれているみたいに。
「……はぁ……」
小さなため息が、部屋に溶けた。
胸の奥に丸くなって眠っているような不安。それは、怖いというよりも――どうしたらいいかわからない戸惑いに似ていた。
(大丈夫。きっと、いつも通りでいい)
そう思おうとするたびに、心の奥で小さな鈴が揺れるように、ふるりと緊張が戻ってくる。
今日は、魔力測定の日。
貴族の子どもにとって、ひとつの“節目”。何度も何度も聞かされてきた。家の名にふさわしい力を持つかどうか、それが試される――そんな日。
私はそっと振り返った。
整えられたベッドの上には、今日のために用意された深い藍色のローブが静かに置かれている。銀糸で繊細に縫い込まれた葉の刺繍が、朝の光に淡くきらめいていた。
ローブに触れる前に、もう一度、机の上に目をやる。
そこに置かれているのは、小さな石細工の“時の砂時計”。まだ幼い頃、父さまが贈ってくれたものだ。触れても冷たくなくて、まるで中に、ほんのりとした温もりがこもっているかのような――そんな不思議な感覚を持つ置物。
その砂時計の中の砂は、もう落ちきっている。けれど、今もほんのかすかに、時を刻んでいるように見えるのは、気のせいだろうか。
私は、そっとそれに手を添えた。
目を閉じて、心の奥で小さく願う。
「……見ててね」
呟くようにそう告げると、深呼吸して、ローブに袖を通した。
藍色の布が肩に沿ってふわりと流れ、刺繍が胸元で優しく光を返す。鏡に映った私は、少しだけ背筋を伸ばし、そっとまばたきをする。
……ほんの少し、大人に見えるかもしれない。
(だけど、胸の音だけは、どうしても隠せない)
心臓が早鐘のように鳴っていた。
まるで、ずっと前からこの日を待っていたかのように。私の中の“何か”が、目覚めをうながすように鼓動を響かせている。
「……大丈夫。わたしは、わたしのままで」
私は、ぬいぐるみのルナちゃんをぎゅっと抱きしめ、小さく囁いた。
そのとき、控えめに扉がノックされた。
「シオン、起きているかしら?」
母さまの声だった。
「うん、いま行くところ」
扉がそっと開いて、母さまが部屋に入ってくる。
淡い紫のドレスに身を包み、優しい笑みをたたえているその姿は、朝の光の中で、まるで聖女のように見えた。
母さまは静かに近づき、私の肩にそっと手を置いた。
「今日は特別な日。でもね、それは“あなたがあなたでいる”ことを、いちばん大切にしてほしい日でもあるのよ」
「……うん」
その言葉は、少しだけ胸の奥の不安をほどいてくれた。
◇
階段を降りると、玄関の広間にはすでにリリカ姉さまとリート兄さまの姿があった。
リリカ姉さまは、ふわりとした薄桃色のケープを肩に羽織り、手には小さなブローチを抱えている。
それは、私が昔、一緒に刺繍をして作った花の飾りだった。
「シオン、見て見て。今日はね、これをつけていくの。私の“お守り”!」
ぱっと顔をほころばせて、リリカ姉さまは私の前にやってくる。
「ね、終わったら一緒におやつ食べよ! 今日は特別だから、甘い焼き菓子を用意してあるんだって!」
私は、思わず小さく笑ってしまった。
「うん……楽しみにしてる」
姉さまの明るい声が、少しだけ胸の中のもやを晴らしてくれる気がした。
リート兄さまはというと、私を見るなり、少しだけ眉を上げた。
「似合ってるな、そのローブ。……すごく」
兄さまは、普段あまり多くを語るタイプではない。
でも、その言葉のひとつひとつが、まるで芯から温めてくれるような重みを持っている。
「緊張するのは当然だ。でも、安心しろ。何があっても――俺たちがちゃんと守る」
「……ありがとう」
私はこくりと頷いた。
その言葉は、何よりも心強かった。
「では、そろそろ行きましょうか」
父さまが玄関に現れ、馬車の用意ができたことを伝えてくれる。
侯爵家の紋章が刻まれた馬車は、淡い光沢を放つ濃紺の塗装に包まれ、二頭の白馬がしっかりと繋がれていた。御者席には信頼の置ける騎士団の一人が座っていて、後部には護衛の騎士たちも控えている。
馬車の中は、ふんわりと温かな毛布が敷かれ、冬の冷たい風を遮る魔術障壁が張られていた。
窓越しに見る冬景色はどこか幻想的で、まるで夢の中を旅しているような錯覚を覚える。
「大丈夫?」
母さまがそっと私の手を取った。
私は、頷きながらも、少しだけ母さまの指先にぎゅっと力を込めた。
(こうして家族が一緒にいてくれる。それだけで、どんなに安心するか)
外の風景がゆっくりと流れていく。
雪をまとった木々。静かな湖面。遠くに見える王都の尖塔――
「シオン、楽しみね」
リリカ姉さまが、ふと笑いながら話しかけてくる。
「ずっと前に、お菓子屋さんの話したの、覚えてる? あの、ガラス張りのショーウィンドウがあるお店」
「うん、覚えてる……! お姉さまが“甘い匂いがふわってしてた”って教えてくれたところだよね」
私は、思わず笑みをこぼした。
ずっと憧れていたその景色が、今日、目の前に現れるのかと思うと――胸の奥が少しだけ弾む。
「今日、帰りに寄れるといいな。お祝いにぴったりだもの」
リリカ姉さまの言葉に、馬車の中がふんわりと和らいだ空気に包まれる。
リート兄さまも、ふっと笑う。
「今日の主役はシオンだ。望むなら、なんでも付き合うさ」
「じゃあ、たくさん褒めて。あと、甘いのいっぱい!」
「……欲張りだな」
兄さまがそう呟いたとき、母さまがそっと私の頭を撫でてくれた。
「あなたの今日の姿、きっとお祖父様やお祖母様も見守ってくださっているわ」
その言葉に、胸の奥で小さく震えていた何かが、やさしくほどけた気がした。
――やがて、馬車は王都中央にある「第一魔力測定場」の正門前に到着した。
◇
王都の中心部にある「第一魔力測定場」は、古い大理石で組まれた荘厳な建物だった。
外壁には、かつての賢者たちや王族の紋章が刻まれ、扉の上には六つの属性を象徴する記号が浮かび上がっている。
その前に、すでにいくつもの馬車が並んでいた。
貴族の子息や令嬢たちが家族と共に次々と降り立ち、係員の案内で会場の中へと入っていく。
私たちも案内人の導きに従って建物の中へと足を踏み入れた。
中は、想像していた以上に広く、天井は高く張り出していて、そこには星座のような魔法陣が美しく描かれていた。
左右の壁には、過去に偉大な功績を遺した魔法使いたちの肖像画が並び、測定場に立つ者たちを静かに見つめている。
広間の中央には、円形の大理石の壇があり、その中心に魔力測定用の大きな「測定石」が設置されていた。
その石は、半透明の青白い輝きを放ち、まるで“見つめ返してくる”ような気配を感じる。
(ここで、魔力を測るんだ……)
私はごくりと喉を鳴らした。
まわりには既に十数人の子どもたちが整列していて、皆きちんとした装いで、緊張した表情を浮かべていた。
小さく息を吐き、私は家族に見守られながら控え席へと進んだ。
その途中、ちらちらと視線を向けてくる子が何人かいた。
――「エルステリア侯爵家の子」だと、彼らは知っているのだろう。
その視線は、尊敬とも期待とも違う、少しだけ距離のある、どこか探るような色をしていた。
けれど、それでもいい。
私は胸の奥に手を置いて、小さく深呼吸をした。
⸻
やがて、壇上に一人の年配の男性が姿を現した。
背筋を伸ばし、白髪の混じる髭を丁寧に整えたその人は、落ち着いた声で開会の挨拶を述べ始めた。
「これより、年次魔力測定を執り行います。各位、ご協力をお願いいたします」
続いて補佐官らしき若い女性が名簿を手にし、一人ずつ名前を読み上げていく。
「ロルフ・デイラン様、前へ」
壇上に上がったのは、緊張で肩をすくめた茶髪の男の子だった。
手を測定石に置いた瞬間、淡い緑の光が石の中心からゆらりと浮かび上がる。
「風属性:C級」
男の子は、小さくうなずいて席へと戻っていった。
次に呼ばれたのは、明るい髪を高く結んだ少女。
「エミリア・トラヴィス様、火属性:A級」
赤い光が、鮮やかな花火のように測定石からきらめいた。
少女が誇らしげに一礼して壇を下りると、周囲から小さな拍手と歓声が起こる。
「わあ……」
私は思わず息を呑んでいた。
光が形になって現れることの美しさに、心を奪われたまま、次の名前が呼ばれたことにも気づかなかった。
――ふと、気がついたときには、すでに壇上が澄んだ青い光に包まれていた。
静かに立つのは、蒼髪の小柄な少女。
その横顔には、怯えも誇りもなく、ただ静かな決意のようなものが宿っていた。
測定石にそっと添えられたその手は、小さくても、まっすぐで揺れていない。
――それはまるで、氷の湖に陽の光が差し込んだような、清らかで静かな光景だった。
「マリナ・フローゼル様、水属性:S級」
補佐官が記録を確認し、静かに頷いた瞬間、会場のあちこちから感嘆の息が漏れた。
(すごい……)
私と変わらない年頃なのに――彼女の背中からは、凛とした強さがにじみ出ていた。
胸の中に、小さな憧れと、少しだけ不安が同時に生まれる。
(こんなにもすごい子たちが、たくさんいるんだ)
その中で――私は、どう映るのだろう。
期待されているのか、それとも……ただ静かに、通り過ぎるだけの存在として――
胸の奥で、言葉にならない想いがゆっくりと渦を描いていた。
そして、名前が呼ばれた。
「シオン・エルステリア様」
⸻
壇上へと足を踏み出す。
一段ごとに、空気の重みが増していくような気がした。
ざわ……ざわ……
かすかなささやきが、会場のあちこちから聞こえてくる。
「エルステリア侯爵家の子だって……」
「本当に、あの子なの?」
「なんだか……雰囲気が違う気がする」
どこまでの噂なのかは、わからない。
けれどそのすべてが、私の背中に重たく積もっていくようだった。
壇上の中央。
測定石の前に立った私は、そっと手をかざした。
「緊張なさらず、いつも通りで」
補佐官の女性が、やさしく声をかけてくれる。
その声に、私は静かに頷いた。
深く、息を吸う。
(私の魔力って――どんな色なんだろう)
心の奥が、そっと問いかける。
私は、測定石に手を重ねた。
……一瞬、何も起こらなかった。
測定石に触れた私の手のひらの下で、青白く光っていた石は、ただ静かに沈黙していた。
石の中に息を潜めたような魔力の気配。まるで、時そのものが止まったかのような沈黙だった。
(……あれ?)
思わず指先に力が入る。
けれど、何も感じない。ただの石のように、冷たく、透明で――
その瞬間だった。
“ドン”という、聞こえないはずの音が、胸の奥に響いた。
同時に――
石が、震えた。
光が、爆ぜた。
赤。青。緑。茶。白。黒――
六つの色が、測定石からまばゆい光を放ってほとばしる。
それは炎のように舞い、水のように揺れ、風のように駆け、大地のように響き、光のように瞬き、影のように溶けた。
会場が、一瞬でざわめきに包まれる。
「な、なに……っ!?」「こんな反応、見たことがない!」
補佐官が思わず後ずさり、周囲に警戒の指示を飛ばす。
検査官が石へ駆け寄りかけて、けれど、その場で立ち尽くした。
そのとき――
六つの光が一瞬にして静まり、代わりに現れたのは――
深い、深い紫の光。
それは他のどの色よりも静かで、けれど、圧倒的な存在感をもっていて、空間そのものが揺らいだ。
光が揺れる。空間が波打つ。
測定石が、きぃぃ……という悲鳴のような音を立てて震え――
中央に、細く深いヒビが走った。
「魔力の制御をっ……!」「いや、止まらない!? このままでは……!」
補佐官が叫び、検査官たちが魔術陣を展開しかける。
けれど、私は――
ただ、静かに、その光を見つめていた。
(きれい……)
赤でもない。青でもない。黒でも白でもない。
すべてを超えたような、けれど、どこか懐かしい――“紫”の色。
その光の中で、私は――確かに“何か”を感じていた。
言葉にならない旋律が、胸の内からゆっくりと浮かび上がってくる。
それは音ではない“音”。
世界の端でささやかれるような、淡く、やさしい響き。
(……これは……)
そのとき、私は“つながった”と感じた。
なにと――どこと――どうして――そんなことは、わからない。
ただ確かに、遠いどこかと、自分の奥底が、音で、光で、なにかで――重なった。
光の中に、私の鼓動が溶けていく。
世界が、静かに――
目覚めていく。
⸻
「測定中止っ! 石が持たない!」
検査官たちが一斉に魔法陣を展開し、測定石の暴走を抑えようと駆け寄る。
測定石の周囲に防御結界が展開され、空間の揺らぎがようやく収まりはじめた。
私の手のひらから、そっと光が抜けていく。
六つの色、そして最後の紫が、ふわりと浮かんで、空気の中でゆらゆらと溶けていった。
測定石は、静かに光を失い、完全に沈黙した。
まるで、役目を終えたように。
「……測定不能。等級外です」
誰かが、そう呟いた。
その短い言葉が、会場の空気をふたたび震わせる。
息を呑む音、誰かのささやき、視線のざわめき――そのすべてが、まるで波のように壇上へ押し寄せてくるのがわかった。
けれど私は、ゆっくりと、静かに背を向けた。
小さな足で階段を一段ずつ降り、控えの席へと戻っていく。
誰も、何も言葉をかけてこなかった。
けれど、私が通り過ぎるたびに、確かに感じる。
ひとつ、またひとつと重なっていく視線の重み――それはただの好奇心でも、畏れでもない、名前のつかない感情だった。
私には、それがまだ何を意味するのか、わからない。
けれど、胸の奥で鳴っている音は、ずっと止まずにいた。
淡く、やさしく、確かに――“変化”の予兆を刻み続けていた。
(これから、きっと……変わっていく)
その予感は、あの紫の光のように、静かで、けれど揺るぎないものだった。
でも、それは――
私にとって、怖いものではなかった。
「……きっと、悪いことじゃない」
そっと、そう思えた。
そしてその瞬間。
まだ誰も気づかぬ場所で、“もうひとつの記録”が、静かに目を覚まし始めていた。