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22 目覚めの光

 魔力測定室の空気が、まるで時を止めたかのように、凍りついた静寂に包まれていた。


 私が測定石からそっと手を離したあとも、七色の光はすぐには消えなかった。むしろその残像は、空中に溶けるように揺らめきながら漂い、まるで今この場所に宿った“何か”の余韻を残すように、静かに空間を満たしていた。


 光の粒子はやがて、ふわりふわりと沈み込むように落ちていき、まるで風も音も失った部屋の中で、ひとつの夢が終わるように、そっと消えていった。


 そして残されたのは、ただ一つ――言葉を失った大人たちの沈黙。


 測定台の正面に立っていた女性魔法師、エルシア・フェリエルは、動くこともできずにいた。彼女の視線は固く、魔術盤に釘づけにされたまま。顔には驚愕と戸惑いが交錯し、手のひらはわずかに震えていた。


 この部屋に設置された魔術盤は、測定の最中に記録された魔力の反応を、属性ごとの色として浮かび上がらせる仕組みになっている。一度記された光は、一定時間消えることなく残り続け、後からでも正確に確認することができるようになっていた。


 そして今、その盤面には――誰もが目を疑うような、異常な光の列が浮かび上がっていた。


 助手のひとりが、沈黙を破るように、けれど押し殺したような声で呟いた。


「《炎》《水》《風》《地》《光》《闇》……こ、これは……」


 別の助手も、魔術盤をのぞき込みながら、息を呑む。


「六属性……すべてが揃っている? そんな……信じられない……!」


「ありえません。一人の人間に複数の属性が現れることなど、過去の記録には存在しないはずです」


「ええ……私も、こんな現象、見たことがありません……」


 ざわり――。


 重く閉ざされていた空気が、ひとたび波紋のように揺れはじめると、それまで抑えられていた動揺が一気に室内に広がっていった。


 視線が集まり、誰もが一様に口を開けたまま、盤面を見つめていた。


 そんな中、静寂を裂くように、エルシアの声が小さく漏れた。


「六つ……じゃない。“時”……? そんな……これは……」


 彼女の言葉に、助手たちの視線が再び魔術盤へと向けられる。


 そして――


 六つの属性の光に並ぶように、遅れて浮かび上がったもうひとつの淡い光。それは他のどの色とも異なる、深く、静かな紫だった。


 その光は、まるで空間の深奥からそっと現れたような、どこか時を超えた気配をまとっていた。明滅することなく、淡く滲むように広がるその色彩は、まさに“時”という言葉を連想させるにふさわしい、静謐で不可思議な輝きを放っていた。


 助手のひとりが、盤面の中央に浮かぶ文字を凝視しながら、かすれた声を漏らした。


「……“時”? そんな属性、見たことありません……」


 その言葉に、別の助手が続けるように魔術盤をのぞき込み、そして――固まった。


「……ええ。間違いなく。“時”と、表示されています」


 室内の空気が、さらに冷たく締めつけられるように重くなる。


「けれど、“時”なんて……そんな属性、教本にも記録にも載っていない。存在そのものが……おかしい……」


 つぶやきは、混乱の波となって広がっていった。耳を塞ぎたくなるような動揺が、場の全員を呑み込んでいく。


「これは……未知の属性、という言葉では片づけられません。魔法理論そのものを根底から揺るがすような……」


 呆然とした助手の言葉を遮るように、エルシアが小さく息を吸い込んだ。


 その顔は青ざめ、唇はかすかに震えている。それでも、彼女は震える指先で再び魔術盤と魔力反応計を見比べ、慎重に読み取った数値と光の配置を一つずつ確認していった。


 確認を終えたあと、ゆっくりと顔を上げ、まるで何か重大な事実を宣言するかのように、落ち着いた――けれど、張り詰めた声で言った。


「……間違いありません。七属性、最後に現れたのは――“時”と表示されています」


 沈黙。


 誰もが息を呑み、盤面に残るその淡い紫の光を見つめるしかなかった。


「“時”って……」


 ぽつりと、誰かが漏らした。


「そんなの……聞いたことも、ないよ……」


「うん。わたしも。本にも、六つまでしか書かれてなかったはず……七つ目なんて……」


「間違いじゃ……ないよね……?」


 誰かが、半ば願うように言った。


 けれど、誰も否定はしなかった。できなかった。


 記録は――あまりにも、確かだった。


 そのとき、控え室の隅に立っていた付き添いの助手が、エルシアにそっと問いかけた。


「……“時”の属性なんて、これまでの文献に……ありましたか?」


 エルシアは、深く首を振った。


「……いいえ。“時”という名の属性など、魔術学の歴史の中で一度たりとも記されたことはありません。私自身も……初めて見ました」


 その声は、震えていた。


 しかしその震えは、ただの恐れや困惑だけではなかった。

 未知なる魔法の存在に触れたという、研究者としての直感と畏敬――そして、責任の重さが、そこにはあった。


 エルシアは小さく息を吐き、意を決したように振り返った。


「……この件は、通常の記録や報告の枠を超えています。王都の魔術管理局――いえ、最終的には、陛下ご自身への報告が必要になるでしょう」


「……陛下、ですか?」


 助手が目を見開く。


「ええ。規定には記されていませんが、これほどの事例に、私たちだけで判断を下すことはできません。すべてを正確に報告し、最終判断は――王に委ねられるべきです」


 室内に、再び沈黙が落ちた。


 そして、その沈黙を打ち破るように、低く、しかし芯の通った声が響いた。


「記録の扱いについては、我が家の責任において管理させていただきたい」


 静かに前に進み出たのは、クラヴィス・エルステリア――私の父さまだった。


 その姿は、騒然とする場の空気の中にあってなお、決して揺るぐことなく、堂々としていた。


父さまは、静かに一歩前へと進み出た。


 その姿には、威圧や圧力といったものはまったくなかった。けれども、場の誰もが、自然と口をつぐんで彼に視線を向けていた。淡い魔力をまとったような、重厚な存在感がそこにはあった。


「報告は必要最小限にとどめ、伝達の手段や範囲についても、我が家の判断を仰いでいただきたい」


 その言葉は、穏やかであるにもかかわらず、決して譲らない強い意志を帯びていた。


 エルシアは、わずかに顔をこわばらせた。


「……王陛下への報告は……免れません」


 言葉を選びながらも、苦渋の色が滲んでいた。


「もちろんだ」


 父さまは即座に肯定する。しかしそのあとに続いた言葉が、空気をさらに引き締める。


「だが、それ以上に広げる必要はあるまい。王は聡明で、理解あるお方だ。ことの重さを正しく受け止めてくださるはずだ」


 父さまの声音は穏やかでありながら、その眼差しは鋭い光を湛えていた。


 それは、ただの一父親としての姿ではない。


 王家から正式に任を受け、長くこの国の一角を担ってきた貴族としての、責任と覚悟を携えた者の声だった。


「エルステリア侯爵家として、すぐに何かを起こすつもりはありません。ただ、娘の身に起きたこの事象が、無用な波紋を呼ばぬよう、慎重に、静かに対処したいのです」


 その言葉に、エルシアは目を伏せ、短く息を吐いた。


 迷い、葛藤する一瞬――けれど、それはごく短い時間だった。


「……わかりました。記録は一部非公開とし、報告は王都の魔術審議会および、陛下のみに限定いたします」


 そして、少しだけ間を置いて続けた。


「形式上は、“等級外・未分類属性”として処理します。“時”という名称は、内部資料にのみ記載し、外部への開示は控えましょう」


 父さまは、ほんのわずかに目を細め、静かに頷いた。


「それで結構」


 その一言で、場に漂っていた重い緊張が、ほんの少しだけ解けた。


 けれど、室内に残るのは未だ収まらぬざわめきと、現実感の薄い沈黙。


 誰もが――この日、確かに目にしたはずの「七つの光」を、どこか遠い夢のように感じていた。



 重々しい空気の中で手続きが完了し、ようやく私たちは測定室を後にした。


 扉を抜け、控室へと続く静かな廊下を歩いていくあいだ、私はルナちゃんを胸元でしっかりと抱きしめていた。父さまの背中を追いながら、足元からひんやりとした石の冷たさが伝わってくるたびに、現実の重みが肌に沁み込んでくるようだった。


 でも、それ以上に心を支えてくれたのは――


 控室の扉が開かれた、その瞬間だった。


「シオン!」


 最初に飛び込んできたのは、母さまの声だった。


 私は思わず駆け寄り、母さまの腕の中に飛び込んだ。


 その胸の温もりは、まるで冷えきった心を溶かしてくれるようだった。柔らかくて、あたたかくて、優しい香りがして……ほっとする匂いがした。


「大丈夫だった? 苦しくなかった?」


 母さまが私の髪をそっと撫でながら、静かに問いかける。


「うん……ちょっと、まぶしかっただけ」


 そう答えると、母さまは私の両頬を包み込み、優しく微笑んだ。


「本当によくがんばったわね」


 その言葉に、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。


 続いて、扉の向こうから、リート兄さまとリリカ姉さまが駆け寄ってきた。


「シオン……っ、すごかったわ。あの光、本当に綺麗だった!」


 リリカ姉さまが、思わず抱きしめる勢いで手を伸ばし、私の肩に触れた。その表情は、少しだけ涙ぐんでいた。


「でも、びっくりしただろ? あんなに光るなんて……誰も予想してなかったし」


 リート兄さまの声は、どこか緊張を解いたような、安堵の混じる声音だった。


 私は、ルナちゃんをぎゅっと抱きしめたまま、こくんと小さくうなずいた。


「……ちょっとだけ、怖かった。でも、だいじょうぶ。みんなが見ててくれたから」


 そう言うと、三人の顔に優しい笑みが浮かぶ。


 それは、私の不安を、静かに、でも確かに癒してくれる、家族の光だった。



 馬車の揺れが、規則正しく続いていた。


 外はもう夕暮れ時で、窓の向こうには赤く染まった空が広がっている。街の喧騒も次第に落ち着き、石畳の道を走る車輪の音だけが、どこまでも静かに響いていた。


 私は母さまの隣に座り、ルナちゃんを抱いたまま、じっと窓の外を見つめていた。


 隣ではリリカ姉さまが私の手を優しく握ってくれている。その温もりが、どこか心の奥にまで染み込んでくる気がして、私は自然と指を絡めた。


「ねえ、シオン」


 リリカ姉さまが、ぽつりと声を落とす。


「“時”って……どんな魔法なんだろうね?」


 突然の問いかけに、私は少しだけ考え込んだ。けれど、答えはすぐには出てこない。


 ――“時”。


 誰も知らない属性。教本にも記録にもない、不確かな名前。


 でも。


「……わかんない。でもね、きっときれいな“歌”になると思う」


 私はそう答えていた。


 不思議と、確信があった。


 あの紫の光が現れたとき、胸の奥で確かに何かが鳴ったのだ。言葉ではない、形のない、でもはっきりとした響き。


「歌?」


 リリカ姉さまが、少しだけ目を丸くする。


「うん。なんだかね、光が……歌ってたの」


 私は視線を伏せ、膝の上のルナちゃんをそっと撫でながら続けた。


「わたしの中で、音がしてたの。優しくて、静かで……遠くから響いてくるような音」


 その瞬間、車内がふわりと静まり返る。


 誰も言葉を挟まず、ただ、私の言葉に耳を傾けてくれていた。


 それが嬉しくて、私はそっと続ける。


「その音はね、怖くなかったの。むしろ、あたたかくて……うたみたいだったの」


 リート兄さまも、母さまも、静かに私を見ていた。


 誰も否定しない。ただ見守ってくれている。そのまなざしが、私の小さな心を支えてくれていた。


 やがて、母さまがそっと微笑んだ。


「なら、その“歌”が……いつか誰かを笑顔にしてくれるといいわね」


 私はその言葉に、胸の奥がふるえるのを感じながら、小さくうなずいた。


 馬車の中には、夕暮れの光と家族の静かな優しさが、ゆっくりと満ちていた



 夜が深まり、屋敷の廊下に灯るランプの明かりも、静かにその数を減らしていくころ。


 私はベッドに横たわり、抱きしめたルナちゃんのぬくもりに頬を寄せていた。


 部屋のカーテンは半分だけ閉じられ、そこから見える夜空には、かすかに星が瞬いていた。風のない夜だった。静寂がすべてを包み込み、まるで世界そのものが、そっと息をひそめているようだった。


 (……今日のこと)


 まぶたを閉じると、すぐに浮かんでくるのは、あの光。


 赤。青。緑。茶色。白。黒。


 そして――


 紫。


 深く、静かで、どこまでも澄んだ“時”の光。


 誰も知らないはずの、その色だけが、いまも私の胸の奥で、ふるえている。


 (あれは……いったい、なんだったんだろう)


 不安がまったくないわけじゃなかった。だって、それは教本にも載っていないし、魔法師の誰も知らない、未知の“なにか”だったから。


 でも。


 (怖くなかった)


 そう。むしろ、あの瞬間――私の中に満ちていたのは、やさしさに似た、あたたかい音だった。


 耳を澄ます。


 何も聞こえない静かな夜なのに、私の内側では、確かにその旋律が続いていた。


 ことばにはならない。

 だけど確かに“音”だった。

 私の内側の、もっと奥――魂のような場所に、そっと触れてくるような。


 それは、まるで“うた”だった。


 (……うた、かもしれない)


 そう思った瞬間、胸の奥に、小さな灯がともる。


 それは不安を照らしてくれる、小さな光。

 未来がまだ何も見えなくても、見えないその先に、あの光はきっと導いてくれる。


 私はそっと、ルナちゃんを抱きしめ直した。


 そのやわらかな毛並みに頬を寄せて、つぶやく。


「……これが、わたしの“時のうた”」


 誰も知らない旋律。

 誰も見たことのない光。


 でも、きっと――


(このうたは、誰かの心を、そっと照らせる)


 そう信じていた。


 だから私は、今日という日を忘れない。


 魔力測定で記された七つの色。

 そして、その最後に現れた、あの紫の光。


 それはきっと、私だけが持つ、“うた”の始まり。


 まだ誰も知らない、世界でたったひとつの――“時”のうた。


 私は、そっとルナちゃんを抱きしめた。


 まだ誰も知らない旋律。

 けれど確かに、この胸の奥に芽吹いた音がある。

 それは、言葉では語れない、けれどたしかに“私”だけが知っている、たったひとつの“うた”。


 深い紫の光とともに目覚めたその音は、今も静かに私の中で鳴り続けていた。


 ――きっと、これが“時”の魔法。


 恐れではなく、祈りとともに。

 混乱ではなく、希望のかたちで。


 私はそれを、受け止めたいと思った。


 たとえ誰にも知られていなくても、まだ名前すら持たないとしても――


 この“うた”が、いつか誰かを笑顔にできるように。

 その心に、そっと触れられるように。


 だから私は、今日の光を胸にしまう。

 大切に、そっと。


 まだ誰も知らない旋律を、この世界に――

 きっといつか、響かせるために。

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