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23 王都からの招き(前日譚)

 冬の王城には、沈黙がよく似合う。


 王政務の間。

 城の奥深くに位置するその部屋は、外界の冷気を魔術障壁が遮り、温もりのない静謐さに満たされていた。

 窓から射し込む朝の光は薄く、白い石の壁を淡く照らしている。

 壁の彫刻が落とす影だけが、時の流れを映していた。


 レオニウス・ノルディア王は、その影のなかにいた。


 重厚な椅子に身を預けたまま、彼は動かない。

 王国を統べる男としての威厳も、歳月の重みも、その静けさに溶け込んでいた。

 手元に広がるのは、政務書類の束。日々積み重なる国政の記録。

 王はそれを一枚ずつ、ためらいなく、淡々と捌いていく。


 この作業に、感情を挟む余地はない。

 民の暮らし、税の調整、流通の滞り、疫病の予兆――

 すべてが数と語彙に変換され、この机の上に集まる。


 書面をめくるたび、何百、何千という命が一瞬で思考の海に浮かび、そして沈む。

 王とは、すべてに関与し、すべてを突き放す者。

 それを彼は、よく理解していた。


 だが――その朝、ほんのわずかに、彼の手が止まった。


 紙ではなかった。封筒。封蝋。

 白磁の如き羊皮紙の質感に、微かに残る魔素の香り。

 王家の紋章に並ぶ、もう一つの印章――双翼を掲げた銀の鷲。エルステリア侯爵家のものだ。


 さらに、その封には「極秘」の魔印が淡く輝いていた。


 それはただの報告ではない。

 “見せるべき相手を選ぶ”ために、魔術的に制御された文。

 この封を解く者は、王でなければならなかった。


 書き手の名を確認するまでもない。

 クラヴィス・エルステリア。長年にわたり王家に仕え、貴族の中でもとりわけ信を置ける人物。


 彼がこの形式を選んだというだけで、事の重大さが伝わってきた。


 レオニウス王は小さく息を吐いた。

 書簡を封じる前に、彼がどれほどの逡巡と責任の天秤を測ったか――それを知るには、王である必要などなかった。

 同じ“父”として、理解できた。


「……エルステリア侯爵家より、直送か?」


 王の低い声に、部屋の隅に控えていた報告官が歩み出て、一礼する。


「はい、陛下。侯爵閣下の直筆にて、魔法師エルシア・フェリエルの立ち会いのもと、王家直轄の魔導伝令で届けられました」


「……そうか」


 王は封筒を手に取り、慎重にその封蝋に触れた。

 魔印が一瞬、微かに脈動し――ふわりと光が消える。


 中から現れたのは、厚紙に複写された魔術盤の写しと、わずか一枚の報告書。



《測定対象:エルステリア侯爵家 第三子 シオン・エルステリア》

《測定結果:属性反応-炎・水・風・地・光・闇・時》

《魔力量:測定不能》



 ……その瞬間、王の思考が、音もなく凍りついた。


 たった三行。だが、その簡潔さが刃のように、王の胸の奥に突き刺さってくる。


 《七属性反応》。

 《時》。

 そして――《測定不能》。


 どれも、現王として即位してから一度として目にしたことのない、異質な語の連なりだった。


 火、水、風、地、光、闇。

 六属性すべてに反応する者の存在は、王の記憶にすらいない。

 それだけでもすでに“例外”だった。


 だが、そこに加わる《時》の文字――

 存在しないはずの“概念”が、こうして目の前に“記録”として置かれている。


 王は、精密に複写された魔術盤に目を落とした。

 六属性を取り囲むように整然と描かれた円環の外縁――

 通常“無”とされる空白に、淡く光る《時》の刻印が、確かに存在していた。


 それは、記号でもなく、模様でもない。

 確かに“属性”として、反応が記録されている。


 王は、深く、ゆっくりと息を吐いた。


「……“時”……」


 その言葉を口にしたとたん、部屋の空気がわずかに震えたような錯覚すらあった。

 冬の魔術障壁が守る静寂のなかに、それは異質だった。

 何か――本来この世界に属さぬものの名前を、軽々しく呼んでしまったような、奇妙な罪悪感があった。


「……それが、本当に“属性”であるというのならば……」


 王の呟きに、控えていた報告官が一歩進み出た。


「はい、陛下。測定時には補助反応計、記録盤双方に異常は認められておりません。

 魔力の流し込みも、測定石の反応も、すべて正常範囲内にて作動しておりました」


「そのすべてが、同じ結果を示したのだな」


「間違いございません。魔法師エルシア・フェリエル殿の立会いのもと、測定は正式な手順で行われ、異常は一切認められなかったとの報告です。

 補助魔石の波長値も、従来の六属性とは明確に異なる“第七の軸”を示しており……」


 報告官の言葉を最後まで聞かず、王は再び報告書に目を落とした。


 その“光の痕跡”――それが何を意味するのか、完全に理解できる者など、おそらくこの世界には誰もいない。


 王はゆっくりと目を伏せた。


 たった四歳の子どもが――

 意図せずして、この記録を生み出した。


 それは決して“業績”ではない。

 “兆し”であり、“導火線”であり、時として“火種”となりうるものだった。


(……クラヴィス……)


 王は侯爵の顔を思い浮かべた。

 冷静で、理知的で、誰よりも国家の枠を正確に測れる男。


 そのクラヴィスが、この情報をただちに王へと送り届けたという事実は、すなわち――


 “この力は、ただならぬものだ”

 “判断を誤れば、世界が揺らぐ”

 “だからこそ、今は沈黙を選ぶべきだ”――


 その無言の声を、王は確かに読み取っていた。


 そして、理解していた。

 この報告が、どれほど重いものかを。


 王は、再び静かに椅子にもたれかかり、天井を仰ぐように目を閉じた。


 魔術障壁の向こうで風が吹いている気配はない。

 雪の音も、鳥の声も、すべてが遠く、まるでこの部屋だけが別の時の流れにあるようだった。


 まるで――“時”が、ここに静かに座しているかのように。


 王は、もう一度報告書の記録を確認する。



《測定対象:エルステリア侯爵家 第三子 シオン・エルステリア》

《測定結果:属性反応-炎・水・風・地・光・闇・時》

《魔力量:測定不能》

《記録作成者:エルシア・フェリエル(王立魔術学院上級魔術士)》

《立会者:クラヴィス・エルステリア(王国侯爵)》



(その名は――)


 王は、改めて報告書の一行に目を落とす。


 《シオン・エルステリア》


 小さな名。

 だが、それがもたらした重みは、あまりに大きい。


 王の脳裏に、エルステリア侯爵家の顔ぶれが浮かぶ。

 クラヴィスとその妻、子らのこと。

 彼がこれまでに報告してきた子の数、性質、日々の成長。


 その中に、“シオン”という名は――確かにあった。

 だが、特筆すべき報告は、これまで一度もなかった。


 その静けさこそが、彼の選んだ守り方だったのだ。


 王は瞳を閉じたまま、そっと椅子の背に身を預ける。


「……エルシア・フェリエル。あの女が、断言するとはな……」


 王立魔術学院において、理論派として知られる魔法師。

 どれほどの理不尽にも“証拠なくして判断せず”を貫く人物。


 その彼女が、《時》を「確実な属性反応」と書いた。


(――ならば、もはや疑う余地はない)


 未知は、恐れにもなる。

 だが、王はその恐れを口にはしなかった。


 それは、ひとりの少女――

 未だ何も知らぬであろう幼子を“脅威”と定義するには、あまりに冷酷すぎた。


 そう。彼女はまだ、ただの“子ども”なのだ。


 望んだわけではない。

 意図したわけでもない。

 ただ、生まれ、育ち――ほんの小さな“祈り”のような心を持って、生きている。


 それがたまたま、“時”という奇跡にふれてしまっただけ。


 王は、拳を軽く握った。


(……ならば、我らが為すべきことはただ一つだ)


 奇跡を閉ざすのではなく、

 恐れによって潰すのではなく――


 それが“何であるか”を、見極めること。

 ただ、それだけ。


 静寂を破ることなく、王は再び口を開いた。


「……この件、中央魔術管理局からは報告を受けていないな?」


 対面に控えていた報告官――中年の文官は、少しだけ姿勢を正し、短く頷いた。


「はい、陛下。エルステリア侯爵家と、魔法師エルシア・フェリエルの合意により、本件は王室および王家審議会への報告に限定されております。

 管理局への公式提出は、形式上等級外・未分類として処理されております。内容としては“魔力量測定不能”のみ――それ以上の詳細は一切伏せられております」


「……慎重な判断だな」


 王は、わずかに眼を細めた。


 魔力量“測定不能”という記録自体は、稀ではあるが存在する。

 だが、その多くは“器が壊れた”か、“魔術的干渉が起きた”かのいずれかで片付けられてきた。


 それを、意図的に記録した。

 それも、侯爵家と、理論魔法師の名で。


 王は封蝋の感触を思い出していた。

 そこに込められていたのは、魔術的な封印だけではない。

 娘を――いや、“未来を”守ろうとする、ある父の決意だった。


 クラヴィス・エルステリア。

 王政において、王が唯一“無条件で耳を傾ける”と明言している数少ない家臣のひとり。


 彼はかつて、王と同じように“子を失うかもしれぬ恐れ”を知った男だった。


 理知的で、誇り高く、そして冷静。

 だがその中に、確かに人間としての痛みと、祈りと、愛があることを、王は知っていた。


(だからこそ――おまえは、この手紙を書いたのだな)


 王は、報告書の下部に記された署名に指先で触れた。


 硬く、美しい筆跡。

 クラヴィスの手によるものであることが、ただの文字だけで伝わるような、揺るぎない書き方だった。


「この件、王家の直轄とする。管理局にはこれ以上の開示を禁じ、記録は王室保管庫へ封印。審議会への共有も、最小限に留めよ」


「かしこまりました」


「侯爵家には、すでにその旨を伝えたか?」


「はい。先ほど伝達を終えております。侯爵閣下は、“全面的に王命に従う”との意向を示されております」


「……当然のことだ。あの男が、軽々しくこの報告を上げるわけがない」


 王の声には、揺るぎない信頼が滲んでいた。


 その一方で――


 報告官が、僅かに言い淀むような沈黙ののち、問いを重ねた。


「陛下……ひとつ、確認を。

 この件、今後どのように……つまり、エルステリア家のご息女の処遇については……?」


 王は答えなかった。


 沈黙のまま、視線だけをゆっくりと雪の街へ向ける。


 外では、雪がやむ気配もなく、静かに降り続いていた。

 王都の屋根に、街路に、人々の暮らしに、薄く白い膜を重ねていく。


 その静けさは、まるで誰にも届かぬ祈りのように、淡く、清らかだった。


「……彼女は、まだ四歳の子どもだ」


 王の声は、かすかに低く、優しかった。


「力がどれほど異常であろうと、まだ“脅威”として見るべきではない。

 むしろ、“見極める”べきだ。……その力が、どこから来て、どこへ向かうのかを」


 報告官は黙って頷いた。


「我ら王家は、かつて“力”を恐れた。……そして、恐れすぎた」


 静かな語りのなかに、確かな記憶の重みが混じっていた。


 王がまだ若き日のこと。

 特異な魔力量を持つ少年が王都に現れ、王宮直属に取り立てられたが――

 その少年は、“王家の道具”として使われることを拒み、国外へと逃れた。


 その代償に起きた悲劇を、王は忘れていない。


 恐れは、人を守る盾になる。

 だが同時に、それは、人を縛る鎖にもなる。


 だからこそ、王は――判断を急がない。

 むしろ、丁寧に、静かに、光と影の両方を見る。


「……私は会ってみたいと思っている」


「……陛下、ご拝謁の意向を?」


「“召喚”などとは言わない。ただ、“王が、静かに会いたいと望んだ”という程度でよい」


 報告官は深く頭を垂れた。


「では、日取りの調整を」


「三日後を目処に。侯爵にも、改めて伝えてくれ」


「はっ」


 王はそのまま、窓の外の白い景色に視線を向け続けていた。


 街のひとつひとつの屋根が、雪に覆われ、静かな光に包まれている。

 そのどこかに、シオン・エルステリアはいる。


 今はまだ、小さな子どもとして、

 ただ、家族のなかで、あたたかな時間を過ごしているだけの、少女として。


(……そのままでいてくれ)


 王は心の中で、ひとつだけ祈った。


(何者にも歪められず、何者にも奪われず――そのまま、“君”でいてくれ)

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