冬の王城には、沈黙がよく似合う。
王政務の間。
城の奥深くに位置するその部屋は、外界の冷気を魔術障壁が遮り、温もりのない静謐さに満たされていた。
窓から射し込む朝の光は薄く、白い石の壁を淡く照らしている。
壁の彫刻が落とす影だけが、時の流れを映していた。
レオニウス・ノルディア王は、その影のなかにいた。
重厚な椅子に身を預けたまま、彼は動かない。
王国を統べる男としての威厳も、歳月の重みも、その静けさに溶け込んでいた。
手元に広がるのは、政務書類の束。日々積み重なる国政の記録。
王はそれを一枚ずつ、ためらいなく、淡々と捌いていく。
この作業に、感情を挟む余地はない。
民の暮らし、税の調整、流通の滞り、疫病の予兆――
すべてが数と語彙に変換され、この机の上に集まる。
書面をめくるたび、何百、何千という命が一瞬で思考の海に浮かび、そして沈む。
王とは、すべてに関与し、すべてを突き放す者。
それを彼は、よく理解していた。
だが――その朝、ほんのわずかに、彼の手が止まった。
紙ではなかった。封筒。封蝋。
白磁の如き羊皮紙の質感に、微かに残る魔素の香り。
王家の紋章に並ぶ、もう一つの印章――双翼を掲げた銀の鷲。エルステリア侯爵家のものだ。
さらに、その封には「極秘」の魔印が淡く輝いていた。
それはただの報告ではない。
“見せるべき相手を選ぶ”ために、魔術的に制御された文。
この封を解く者は、王でなければならなかった。
書き手の名を確認するまでもない。
クラヴィス・エルステリア。長年にわたり王家に仕え、貴族の中でもとりわけ信を置ける人物。
彼がこの形式を選んだというだけで、事の重大さが伝わってきた。
レオニウス王は小さく息を吐いた。
書簡を封じる前に、彼がどれほどの逡巡と責任の天秤を測ったか――それを知るには、王である必要などなかった。
同じ“父”として、理解できた。
「……エルステリア侯爵家より、直送か?」
王の低い声に、部屋の隅に控えていた報告官が歩み出て、一礼する。
「はい、陛下。侯爵閣下の直筆にて、魔法師エルシア・フェリエルの立ち会いのもと、王家直轄の魔導伝令で届けられました」
「……そうか」
王は封筒を手に取り、慎重にその封蝋に触れた。
魔印が一瞬、微かに脈動し――ふわりと光が消える。
中から現れたのは、厚紙に複写された魔術盤の写しと、わずか一枚の報告書。
⸻
《測定対象:エルステリア侯爵家 第三子 シオン・エルステリア》
《測定結果:属性反応-炎・水・風・地・光・闇・時》
《魔力量:測定不能》
⸻
……その瞬間、王の思考が、音もなく凍りついた。
たった三行。だが、その簡潔さが刃のように、王の胸の奥に突き刺さってくる。
《七属性反応》。
《時》。
そして――《測定不能》。
どれも、現王として即位してから一度として目にしたことのない、異質な語の連なりだった。
火、水、風、地、光、闇。
六属性すべてに反応する者の存在は、王の記憶にすらいない。
それだけでもすでに“例外”だった。
だが、そこに加わる《時》の文字――
存在しないはずの“概念”が、こうして目の前に“記録”として置かれている。
王は、精密に複写された魔術盤に目を落とした。
六属性を取り囲むように整然と描かれた円環の外縁――
通常“無”とされる空白に、淡く光る《時》の刻印が、確かに存在していた。
それは、記号でもなく、模様でもない。
確かに“属性”として、反応が記録されている。
王は、深く、ゆっくりと息を吐いた。
「……“時”……」
その言葉を口にしたとたん、部屋の空気がわずかに震えたような錯覚すらあった。
冬の魔術障壁が守る静寂のなかに、それは異質だった。
何か――本来この世界に属さぬものの名前を、軽々しく呼んでしまったような、奇妙な罪悪感があった。
「……それが、本当に“属性”であるというのならば……」
王の呟きに、控えていた報告官が一歩進み出た。
「はい、陛下。測定時には補助反応計、記録盤双方に異常は認められておりません。
魔力の流し込みも、測定石の反応も、すべて正常範囲内にて作動しておりました」
「そのすべてが、同じ結果を示したのだな」
「間違いございません。魔法師エルシア・フェリエル殿の立会いのもと、測定は正式な手順で行われ、異常は一切認められなかったとの報告です。
補助魔石の波長値も、従来の六属性とは明確に異なる“第七の軸”を示しており……」
報告官の言葉を最後まで聞かず、王は再び報告書に目を落とした。
その“光の痕跡”――それが何を意味するのか、完全に理解できる者など、おそらくこの世界には誰もいない。
王はゆっくりと目を伏せた。
たった四歳の子どもが――
意図せずして、この記録を生み出した。
それは決して“業績”ではない。
“兆し”であり、“導火線”であり、時として“火種”となりうるものだった。
(……クラヴィス……)
王は侯爵の顔を思い浮かべた。
冷静で、理知的で、誰よりも国家の枠を正確に測れる男。
そのクラヴィスが、この情報をただちに王へと送り届けたという事実は、すなわち――
“この力は、ただならぬものだ”
“判断を誤れば、世界が揺らぐ”
“だからこそ、今は沈黙を選ぶべきだ”――
その無言の声を、王は確かに読み取っていた。
そして、理解していた。
この報告が、どれほど重いものかを。
王は、再び静かに椅子にもたれかかり、天井を仰ぐように目を閉じた。
魔術障壁の向こうで風が吹いている気配はない。
雪の音も、鳥の声も、すべてが遠く、まるでこの部屋だけが別の時の流れにあるようだった。
まるで――“時”が、ここに静かに座しているかのように。
王は、もう一度報告書の記録を確認する。
⸻
《測定対象:エルステリア侯爵家 第三子 シオン・エルステリア》
《測定結果:属性反応-炎・水・風・地・光・闇・時》
《魔力量:測定不能》
《記録作成者:エルシア・フェリエル(王立魔術学院上級魔術士)》
《立会者:クラヴィス・エルステリア(王国侯爵)》
⸻
(その名は――)
王は、改めて報告書の一行に目を落とす。
《シオン・エルステリア》
小さな名。
だが、それがもたらした重みは、あまりに大きい。
王の脳裏に、エルステリア侯爵家の顔ぶれが浮かぶ。
クラヴィスとその妻、子らのこと。
彼がこれまでに報告してきた子の数、性質、日々の成長。
その中に、“シオン”という名は――確かにあった。
だが、特筆すべき報告は、これまで一度もなかった。
その静けさこそが、彼の選んだ守り方だったのだ。
王は瞳を閉じたまま、そっと椅子の背に身を預ける。
「……エルシア・フェリエル。あの女が、断言するとはな……」
王立魔術学院において、理論派として知られる魔法師。
どれほどの理不尽にも“証拠なくして判断せず”を貫く人物。
その彼女が、《時》を「確実な属性反応」と書いた。
(――ならば、もはや疑う余地はない)
未知は、恐れにもなる。
だが、王はその恐れを口にはしなかった。
それは、ひとりの少女――
未だ何も知らぬであろう幼子を“脅威”と定義するには、あまりに冷酷すぎた。
そう。彼女はまだ、ただの“子ども”なのだ。
望んだわけではない。
意図したわけでもない。
ただ、生まれ、育ち――ほんの小さな“祈り”のような心を持って、生きている。
それがたまたま、“時”という奇跡にふれてしまっただけ。
王は、拳を軽く握った。
(……ならば、我らが為すべきことはただ一つだ)
奇跡を閉ざすのではなく、
恐れによって潰すのではなく――
それが“何であるか”を、見極めること。
ただ、それだけ。
静寂を破ることなく、王は再び口を開いた。
「……この件、中央魔術管理局からは報告を受けていないな?」
対面に控えていた報告官――中年の文官は、少しだけ姿勢を正し、短く頷いた。
「はい、陛下。エルステリア侯爵家と、魔法師エルシア・フェリエルの合意により、本件は王室および王家審議会への報告に限定されております。
管理局への公式提出は、
「……慎重な判断だな」
王は、わずかに眼を細めた。
魔力量“測定不能”という記録自体は、稀ではあるが存在する。
だが、その多くは“器が壊れた”か、“魔術的干渉が起きた”かのいずれかで片付けられてきた。
それを、意図的に記録した。
それも、侯爵家と、理論魔法師の名で。
王は封蝋の感触を思い出していた。
そこに込められていたのは、魔術的な封印だけではない。
娘を――いや、“未来を”守ろうとする、ある父の決意だった。
クラヴィス・エルステリア。
王政において、王が唯一“無条件で耳を傾ける”と明言している数少ない家臣のひとり。
彼はかつて、王と同じように“子を失うかもしれぬ恐れ”を知った男だった。
理知的で、誇り高く、そして冷静。
だがその中に、確かに人間としての痛みと、祈りと、愛があることを、王は知っていた。
(だからこそ――おまえは、この手紙を書いたのだな)
王は、報告書の下部に記された署名に指先で触れた。
硬く、美しい筆跡。
クラヴィスの手によるものであることが、ただの文字だけで伝わるような、揺るぎない書き方だった。
「この件、王家の直轄とする。管理局にはこれ以上の開示を禁じ、記録は王室保管庫へ封印。審議会への共有も、最小限に留めよ」
「かしこまりました」
「侯爵家には、すでにその旨を伝えたか?」
「はい。先ほど伝達を終えております。侯爵閣下は、“全面的に王命に従う”との意向を示されております」
「……当然のことだ。あの男が、軽々しくこの報告を上げるわけがない」
王の声には、揺るぎない信頼が滲んでいた。
その一方で――
報告官が、僅かに言い淀むような沈黙ののち、問いを重ねた。
「陛下……ひとつ、確認を。
この件、今後どのように……つまり、エルステリア家のご息女の処遇については……?」
王は答えなかった。
沈黙のまま、視線だけをゆっくりと雪の街へ向ける。
外では、雪がやむ気配もなく、静かに降り続いていた。
王都の屋根に、街路に、人々の暮らしに、薄く白い膜を重ねていく。
その静けさは、まるで誰にも届かぬ祈りのように、淡く、清らかだった。
「……彼女は、まだ四歳の子どもだ」
王の声は、かすかに低く、優しかった。
「力がどれほど異常であろうと、まだ“脅威”として見るべきではない。
むしろ、“見極める”べきだ。……その力が、どこから来て、どこへ向かうのかを」
報告官は黙って頷いた。
「我ら王家は、かつて“力”を恐れた。……そして、恐れすぎた」
静かな語りのなかに、確かな記憶の重みが混じっていた。
王がまだ若き日のこと。
特異な魔力量を持つ少年が王都に現れ、王宮直属に取り立てられたが――
その少年は、“王家の道具”として使われることを拒み、国外へと逃れた。
その代償に起きた悲劇を、王は忘れていない。
恐れは、人を守る盾になる。
だが同時に、それは、人を縛る鎖にもなる。
だからこそ、王は――判断を急がない。
むしろ、丁寧に、静かに、光と影の両方を見る。
「……私は会ってみたいと思っている」
「……陛下、ご拝謁の意向を?」
「“召喚”などとは言わない。ただ、“王が、静かに会いたいと望んだ”という程度でよい」
報告官は深く頭を垂れた。
「では、日取りの調整を」
「三日後を目処に。侯爵にも、改めて伝えてくれ」
「はっ」
王はそのまま、窓の外の白い景色に視線を向け続けていた。
街のひとつひとつの屋根が、雪に覆われ、静かな光に包まれている。
そのどこかに、シオン・エルステリアはいる。
今はまだ、小さな子どもとして、
ただ、家族のなかで、あたたかな時間を過ごしているだけの、少女として。
(……そのままでいてくれ)
王は心の中で、ひとつだけ祈った。
(何者にも歪められず、何者にも奪われず――そのまま、“君”でいてくれ)