古城の広間は、まるで凍てついた静寂に閉ざされていた。舞踏会の華やかな喧騒は遠い記憶となり、今、この場所を支配するのは緊迫した空気だった。広間の中央には、フレデリカ・フォン・エルシュタットが立っていた。彼女の青いドレスは、燭台の光を受けてなおも輝きを放ち、まるで夜の湖面のように揺らめいていた。しかし、その瞳は冷たく、鋭く、まるで獲物を捕らえる猛禽のようだった。
彼女の前に、フェリックス・フォン・エルシュタットが立っていた。第二王子である彼は、自信に満ちた笑みを浮かべ、背後に縛られたアレクサンドル・フォン・エルシュタット――第一王子――を見下ろしていた。アレクサンドルの手足は縄でしっかりと縛られ、床に跪かされていた。その姿は、王子の威厳を剥ぎ取られた、ただの男のようだった。フェリックスは、勝利を確信したかのように、フレデリカの肩に手を置いた。
「兄上、見ての通りだ。」フェリックスの声は、嘲笑と優越感に満ちていた。「フレデリカはもう俺に懐いた。お前がどれだけ彼女を愛そうとも、彼女は俺を選んだんだ。」
アレクサンドルは顔を上げ、弟を見つめた。その瞳には、怒りや憎しみはなく、ただ深い悲しみと、どこか諦めにも似た感情が宿っていた。フレデリカは、フェリックスの手を振り払うことなく、静かに微笑んだ。その微笑みは、まるで舞台の女優が観客を魅了するように、計算された美しさを持っていた。
「はい……殿下の目の前で、どうか、見ていてくださいませ。」
フレデリカの声は、柔らかく、しかしどこか冷酷な響きを帯びていた。彼女はゆっくりとフェリックスに近づき、その顔を両手でそっと包んだ。フェリックスは一瞬、驚きに目を見開いたが、すぐに満足げな笑みを浮かべた。彼は、フレデリカが自ら彼を選んだと信じていた。だが、それは彼の誤解だった。
フレデリカは、ゆっくりとフェリックスの唇に自分の唇を重ねた。そのキスは、情熱や愛情とは無縁だった。彼女の動きは機械的で、まるで儀式のように冷たく、計算し尽くされていた。アレクサンドルはその光景を、縛られたまま、ただ見つめていた。彼の瞳には、痛みと、理解できない感情が渦巻いていた。
キスが終わると、フレデリカはフェリックスから離れ、アレクサンドルの方を向いた。彼女の唇には、微かな笑みが浮かんでいた。それは、勝利の笑みでも、愛の笑みでもなかった。それは、アレクサンドルに「最大の苦痛」を与えるための、冷酷な贈り物だった。
「殿下……お辛いでしょう?」フレデリカの声は、まるで甘い毒のように響いた。「ですが、それこそがわたくしの愛ですわ。」
アレクサンドルの身体が震えた。彼の瞳は、フレデリカを見つめ、彼女の言葉を噛みしめるように揺れていた。彼女の愛は、優しさや温もりとは程遠いものだった。それは、相手を縛り、傷つけ、支配することでしか表現できない、歪んだ愛だった。フレデリカは、アレクサンドルが苦しむ姿を見ることで、初めて自分の愛を確認できるのだ。
「フレデリカ……なぜ……」アレクサンドルの声は、かすれ、ほとんど聞き取れないほどだった。彼の心は、彼女の行動に引き裂かれていた。彼女がフェリックスにキスをした瞬間、彼の胸は張り裂けそうな痛みに襲われた。だが、同時に、彼女の言葉が彼の心に突き刺さった。彼女の愛は、残酷なまでの奉仕だった。それは、彼を壊し、彼を彼女のものにするための、究極の手段だった。
フェリックスは、フレデリカの行動に戸惑いながらも、なおも勝利を確信していた。「どうだ、兄上! フレデリカは俺を選んだ! お前にはもう、彼女の心はない!」
だが、フレデリカはフェリックスの言葉を無視し、ゆっくりとアレクサンドルに近づいた。彼女は跪き、彼の顔をそっと見つめた。その瞳には、愛と残酷さが共存していた。
「殿下……わたくしの愛は、あなたを苦しめることでしか形を成しません。」彼女は囁くように言った。「あなたがこの痛みに耐え、なおもわたくしを見つめてくれるなら……それが、わたくしの愛の証ですわ。」
アレクサンドルは、彼女の言葉に答えることができなかった。彼の心は、愛と痛み、理解と混乱の間で揺れ動いていた。フレデリカの愛は、彼にとって理解しがたいものだった。だが、同時に、彼はその愛に縛られていた。彼女の残酷な奉仕は、彼の心を完全に捕らえていたのだ。
フェリックスは、フレデリカの行動に苛立ちを隠せなかった。「フレデリカ、何だその態度は! 俺にキスをしたのはお前だ! なのに、なぜ兄上ばかりを見る!」
フレデリカは振り返り、フェリックスに冷たい視線を投げた。「フェリックス様、あなたはただの道具ですわ。」彼女の声は、氷のように冷たかった。「あなたを利用して、殿下に苦痛を与える。それが、わたくしの目的だったのです。」
フェリックスの顔から血の気が引いた。彼は、フレデリカの言葉が本当だと理解した瞬間、すべての自信が崩れ去った。彼女は彼を愛していなかった。彼女のキスは、彼を支配するための手段に過ぎなかったのだ。
広間の空気は、さらに重くなった。フレデリカは立ち上がり、ゆっくりとアレクサンドルに近づいた。彼女の手は、彼の縄を解くために動いたわけではなかった。彼女は、ただ彼の苦しむ姿を、もっと近くで見つめたかったのだ。
「殿下……この舞台は、まだ終わっていませんわ。」フレデリカは微笑みながら言った。「次は、もっと深い苦痛を、あなたにお贈りします。」
アレクサンドルは、彼女の言葉に震えながらも、目を逸らさなかった。彼の心は、彼女の愛に縛られ、逃れる術を知らなかった。フレデリカの微笑みは、まるで夜の闇に咲く花のようだった。美しく、冷たく、そして危険だった。