王立学園の教室は、貴族子女のため豪華な設備を備えている。
机と椅子は高級木材製で、落書きなど許されない。「上質なものを大切にする」という理念が徹底されていた。
一方で教室の後部には、主の課題の手伝いなどで仕える側近たちのために掘られた細長い溝がある。人ひとりがようやく入れる狭さで、まるで塹壕のようだった。
側近たちの前には魔導具板が設置されていた。
前方の板書を圧縮表示する魔導具板は、読み取りづらい。側近になったばかりの者は、コツをつかむまで苦労する。
側近たちはこの劣悪な環境でひたすら授業を聞き、主の命令に備えていた。
ノンナもまた、疲れで重くなるまぶたをこすりながら、ノートを取り続けていた。
――少しでも怠けたら、どんな罰が待っているか。
手が震えるたびに、ゴードたちの怒声や侮蔑が脳裏にちらつき、身を固くする。
午前の授業が終わると、当番の側近たちが塹壕に蓋をし、床は元の姿に戻された。
当番ではなかったノンナはゴードのもとに出頭する。
リリアーヌの近くで控えるゴードが、冷ややかに命じた。
「今日は歩いて帰らず、御者控え室で待機しなさい。馬車の天井に乗って帰るのよ」
「え……?」
「歩かずに帰れることをありがたく思いなさい。麻袋に詰めて運ぶ」
手提げ袋が渡される。中には針刺し、糸、縫うべき敷布が入っていた。
「騎士団寄付用の敷布。縁かがりを終えておきなさい」
ノンナは押し黙ったまま、手提げ袋の持ち手を握りしめる。
***
「なんだあ? 貧相なお嬢さんだねぇ」
「15歳くらい? 胸はちゃんと育ってんのか、おじさんが確かめてあげよう」
御者控え室に入ると、下卑た声が浴びせられた。
フォートハイト伯爵家の御者スイフトが間に入る。
「やめとけ。これでも
「へっ、お偉いんだな!」
嘲笑と賭けカードの音が交錯する。
ノンナは無表情のまま縫い物を続けた。
声や視線を意識の外に押し出し、ただ針を進める。
――見ない。聞かない。怯えない。
そう決めたのは、何度目のことだっただろうか。
別段珍しい出来事ではない。怒声と侮蔑は空気の一部に過ぎない。
ノンナは指を確かに動かし続けた。
***
スイフトはさっき廊下で、パンをひとつ差し出してくれた。
「捨てる残り物だ」
ノンナは礼も言わず、それを受け取った。
誰かがノンナに親切にすれば、すぐに消される。
「下のお嬢様に親切にした使用人は、紹介状なしで追い出される」
かつてスイフトが漏らした言葉を思い出す。
誰かに優しくされるたび、その人が消える。その記憶がノンナを怯えさせていた。
***
ノンナは馬車で帰ることを命じられたことを思い出し、意気消沈していた。
歩いて遠距離を通うのは体力を消耗する。それは確かだ。
けれど、あの時間だけは、ノンナにとって「自分の時間」だった。
風。季節の匂い。踏みしめる土。
管理された日常から、しばらくの間解放される。
ゴードに「雨の日は歩くのが辛いので、乗せてください」とわざと頼み、拒絶されて罰を受ける。
それすらも「自由を守るための根回し」だった。
今日、またひとつ、大切なものを奪われた。
――歩いて帰る自由。
縫い物を進める指先が震える。
ゴードに渡された手提げ袋には、15枚の敷布が入っていた。
1時間で3枚縫えるとしても、3時間で全て終わらせるのは不可能だ。
――怒鳴られる未来が見える。
ノンナは縫い物に集中しようとした。
なぜか、視界がかすかに揺れる。
そして……左目が熱を持った。
――また……?
目の奥で、小さな火種が燻るような感覚。
――温かい。
身体中をその温かみが流れる。指先まで温かい……針が布を正確に捉えられない。
そのとき、控え室の扉を控えめに叩く音がした。
スイフトが「どうぞー、でも満員御礼だから、遊びたいならしばらく待ちだな!」と朗らかに声を掛けた。