――! 公爵令息……でいらっしゃいますか? ――
ノンナはまた驚いたが、もはや驚くこと自体に慣れたような気持ちだった。
***
ソフォスアクシ公爵嫡子マクシム。王立学園が誇る文武両道の貴公子。
リリアーヌと同学年でありながら、主要科目を入学から1年足らずで修了した。
現在も王立学園に籍を置くものの、魔術大学や士官学校の単位まで取得している異例の存在である。
さらには在籍中にもかかわらず、王立学園の講義を請われて引き受けていた。
ノンナもリリアーヌの側近として、マクシムの講義を聴いたことがある。
難解な魔法理論を、初学者にも分かりやすく解きほぐす、流麗かつ的確な講義。
生徒から質問を受け、それに応じるマクシムの声には、冷静さと情熱が同居していた。
怜悧な美貌としなやかな体躯。貴公子然としたマクシムは少女たちの憧れを一身に集めていた。
だが、ノンナの記憶に残ったのは外見ではない。
――あの鮮やかな知性。そして、教える者としての在り方の素晴らしさは忘れがたい。
自分には到底及ばない高みにある存在。だが、同時に純粋な憧れと敬意を抱かせる人物だった。
***
――はい。ご存じの通り、魔術騎士団にも所属しています――
――あ……そうだったんですね。すみません、情報に疎くて……――
ノンナは縁かがりの作業に戻る。処理速度も落ち着いてきた。
――騎士団でも、あなたの存在は知られていませんでした。正確には、昨日まで精霊眼の能力保持者とは認識されていなかった――
――え!? ごめんなさい、それ、知らなかったことにしてください! ――
――なぜ隠す必要が? ――
ノンナは念話を
***
逃げ出そうとしたことがあった。
バレたその夜、男性使用人全員がノンナを鞭打った。
執事が手を抜いて打ってくれたが、ゴードが叱責した。そのあとは誰もが機械のように淡々と全力で鞭を振るった。
気絶すると、水をかけられる。長時間の折檻は、意識を奪い、尊厳を削り取っていく。
手当てすら、次の苦痛の準備に過ぎなかった。
その地獄は、肉体の痛み以上に、心をすりつぶした。
***
――
驚く。
思わず、再び左目の奥に言葉を送ってしまう。
――どうして……伯爵家の内情をご存じなのですか? ――
――商人に調べさせました。使用人たちは、あなたへの虐待に慣れすぎていて、口が軽くなっていた――
ノンナはそっとため息をついた。
これ以上、取り繕うだけ無駄だ。
――では……どうして私の力に気づいたのですか? ――
――その前に聞きます。昨日から、左目に異変を感じていませんか? あなたは力の高まりを感じているはずだ――
――この人はすべてを見ている。
ノンナは身震いした。同時に……そのことに深い配慮を感じて、少し肩の緊張が和らぐようだった。
――まるで……私のこと、全部知っているみたいですね――
――知り得る限りは調べました。でも、あなた自身がどう考えているかは、あなたにしか分かりません――
――……あなたには、私の事情なんか、分かりません! ――
敷布を縫いながら、ノンナは心の奥の
――そうですね。完全な理解は出来ません。でも……復讐の手助けはできますよ――
その言葉が、針を止めた。
――復讐。
頭の中で何度も繰り返される。
否定しようとするが、言葉にならない。
心の奥で眠っていた望みが、鎖が解けたように動き出す。
蔑まれた力、痛み、空腹、無力さ。
何もできなかった日々。絶望に彩られた記憶のすべてが、心の中にぶわりと押し寄せる。
痛みから逃げ続けた。
ただ耐えることだけで精一杯だった。
力を隠すことに必死だった。伯爵夫人とゴードの目を欺き、少しでも苦痛を減らそうとしてきた。
――でも、この人は理不尽を
ノンナは震える手で針を握りしめた。
――復讐……そんなこと、本当に……? ――
――できます。あなたにはその力がある。私たちが支える。復讐の
心に響くマクシムの声は落ち着いていたが、その底には確かな決意が宿っていた。
マクシムの言葉は冷静で、しかし力強い。
――とはいえ、まずは、折檻を回避しましょう。力を隠す術をお教えします。それができれば、あなたの成長を妨げる邪魔をとりあえず排除できます――
ノンナは思わずほとばしる思いを左目にぶつけた。
――どうしてそんなことを教えてくださるのですか? 本当に信じてもいいのでしょうか? 私を利用しようとしているのでは? ――
――そう思われても仕方ありません。でも、信じるかどうかはあなた次第です――
念話は少し途切れた。そのあと熱量を増やして続く。
――あなたの成長が、ただの復讐の実現に留まらず、より有意義な未来を切り開くと信じています――
また少し間があった。
――私の父とその仲間は、ノンナ嬢が辛い境遇にあることを予想していました――
――私? ――
――私たちは、あなたの力がこの国にとって重要であると信じていました。名前も居場所も分からなくとも、いつか見つけ出し、支えると誓っていたのです――
ノンナは針を止め、火照る顔のこめかみを押さえた。
賭博に興じる御者たちは、それに気づく様子もなく騒いでいる。
――具体的に、私たちはどんなことをするのですか? ――
――それは、とても長い話になります。明日、お会いできませんか――
ノンナは覚悟を決めた。マクシムと会う場所と時間について検討を始める。
***
そのときも、マクシムの隣には側近の少年が立っていた。
眼帯をつけたその少年……サンディは、マクシムの念話を傍受していた。そして、マクシムの言葉にそっとうなずいていた。
ノンナがサンディの存在を知るのは、もう少し後のことになる。