ノンナが左目でマクシムと「会話」してから10日後。
***
ドスピランス伯爵家を訪問したエリゼーヌは、優雅に微笑んで一礼した。椅子の織り模様を褒めると、夫人は上機嫌に領地で働く職人の腕前を語る。
形式的な挨拶と世間話のあと、ドスピランス伯爵が話を切り出した。
「本日はどのようなご用件でしょうか?」
エリゼーヌは艶然と笑み、間を置いて告げた。
「両家の利益となるご提案です」
場が静まり返る。
「リリアーヌに別の縁談打診がございます。未だ正式ではありませんが、断るのは難しい話です」
伯爵夫人が「まあ……」と息を呑む。エドワールは目を瞬かせる。動揺を隠せない。
「つきましては、エドワール様にフォートハイト伯爵家を継いでいただきたく」
一瞬の沈黙の後、3人の顔に驚きが浮かんだ。伯爵は慎重に問い返す。
「しかし、ノンナ嬢が……」
「あの子には、務まりません」
エリゼーヌが決然と口にした一言で、場の空気が決まった。
貧相で影の薄い存在がその場の全員の脳裏に浮かぶ。あたかもそこにノンナが立っているかのように、嘲笑がこぼれた。
エドワールが不安げに尋ねる。
「では、私はノンナ嬢とだけ結婚することになるのですか?」
「いいえ。ご自由に第一夫人をお選びください。もちろん、当家にふさわしい貴族令嬢でお願いいたします」
伯爵夫妻は顔を見合わせ、微笑んだ。エリゼーヌは念押しする。
「エドワール様を養子に迎えたうえで、他家から良縁を得られれば、フォートハイト伯爵家の安泰は確実です」
エリゼーヌは飲み物をゆったりと口にしながら、頭の中で計画を反芻した。
――この世界を美しく保つのは私の役目。私の支配なくして、伯爵家も、リリアーヌに相応しい未来も成り立たない。
始まりはすべてドナルドの愛からだった。エリゼーヌが愛する夫と人生を共にした瞬間から、この完璧な世界は形作られた。
――ドナルドは私のもの。誰にも渡さない。
ドナルドの優しい微笑み、エリゼーヌの言葉にうなずく穏やかな眼差し。それは エリゼーヌの愛が生んだ贈り物。
ドナルドがエリゼーヌを愛するのは当然のこと。
ユリア? ただの一時的な障害だった。私の愛に敵うことなど永遠にない。
ドナルドは私の生涯の伴侶。淫婦は存在する価値がないことを自ら証明した。
――ドナルドは私を愛している。私だけを。
それが真実。エリゼーヌがこの世界を完璧に保つ唯一の方法。
愛とは 支配 であり、 エリゼーヌが導くことこそが正しい。
ノンナ? あの薄汚い存在がエリゼーヌの計画を乱すことなどあり得ない。
淫婦の娘は贖罪のために 再配分魔法で災いを取り除かれる。それだけのために生きる存在。
ドナルドとリリアーヌ?
私の愛する家族。だが、 私の愛がすべてを導き、守る。
エリゼーヌは薄く笑った。
――私の愛がすべてを最高の状態に高める。すべては私の計画通り。
***
リリアーヌの縁談を打診したのは、ソフォスアクシ公爵家だった。
届いた手紙には、夜会への招待と共に「貴家の令嬢を婚約者候補として検討している」とあった。
リリアーヌは顔を輝かせた。
「マクシム様、あのそっけないご様子も、照れ隠しだったのね」
エリゼーヌは愛娘の言葉に笑みを返すが、瞳は冷静に光っていた。
「浮かれるのはまだ早いわ。正式なものではないの。それに、夜会に家族全員で出席しなくてはならないの」
「母上とふたりでは駄目なの?」
リリアーヌの心配はエリゼーヌの心を曇らせた。
ドナルドは最高の夫。エリゼーヌにとって最愛のかけがえのない存在だ。
しかし、社交に長けているとは言い難い。
「無理でしょう。あなたの父上にも来ていただかないと」
「……最近、お元気かしら。明日の正餐でお目にかかれるのよね」
フォートハイト伯爵ドナルドは引っ込み思案で、ほとんど書斎にこもっている。リリアーヌが顔を合わせるのは、週末の正餐のときだけだ。
しかし、問題はない。エリゼーヌが夫のことを誰より理解していたからだ。
無口で表に立つのが苦手だが、領地経営には熱心だ。そっとしておいてあげる必要がある。
――ドナルドは私を愛している。そして私もドナルドを愛し、深く理解している。だからこそドナルドは私に全てを任せるのだ。
ドナルドの覇気のなさも……いまは気にならなかった。
――リリアーヌの未来のためなら、ドナルドが社交を避けようとも問題ではない。私が全てを導いているのだから、一緒に居れば大丈夫。
エリゼーヌはドナルドを愛し、引き籠もりがちな夫に負担をかけぬよう、良き妻として常に気を配っていた。
再配分魔法では解決できないことは、真実の愛で丁寧に補う。そして、ドナルドを正しい方向へ導く。それをエリゼーヌは自分の使命としていた。
――そして、娘も正しい方向に導かなくては……!
「リリアーヌ、結婚までに再配分魔法をひとりで使えるようにならなければなりません」