ソフォスアクシ公爵邸の大広間では、過去視の再現が静かに進んでいた。
術者ノンナと顔立ちがよく似た金髪の中年男性ドナルド・フォートハイトは、生気を失ったように立ち尽くしている。
その目は虚ろで、操り人形のようだった。
ドナルドの妻エリゼーヌは拘束されていた。
粗雑な布をかぶせられている。その布は禁術を封じるための魔導具である。
屈辱から滲み出る涙がエリゼーヌの頬を伝っている。
近くに侍女ゴードの姿はなかった。既に連れ出されているらしい。
ノンナは壁を見つめ、指先を震わせながら精霊眼で過去視を投影し続けていた。
ノンナの魔力を通した魔導具によって、エリゼーヌの記憶が壁に映し出されていく。
貴族たちは息を潜め、壁に映る光景に見入っている。
ノンナと隣で手を繋ぐ砂色の髪の男サンディは、ノンナの汗を拭いながら小さくうなずく。
過去視の体力的・精神的負担は、リリアーヌの想像以上にのしかかるのだろう。
ノンナの肩はわずかに震え、吐く息が浅く速い。
顔色は蒼白で、額や首筋には止めどなく汗が滲んでいる。
視線は一点を見つめて焦点が合っておらず、まばたきの間隔も異様に長い。
――汗は、ただの熱ではない。
苦痛と消耗が、皮膚の奥から滲み出しているかのように止まらない。
リリアーヌ自身も、誰も拭いてくれない嫌な汗が、お気に入りのドレスにじっとりと染みていくのを感じていた。
……どうして良いのかわからなかった。
ただ黙って、立ち尽くしていた。
――これが、悪夢で、目が覚めたら……何もないといいのに。
しかし、現実だということはよく分かっていた。
◇◇◇
「エリゼーヌ様、あの大嵐はただの自然災害ではありませんでした」
ゴードは厳しい顔つきでそう言った。
「運命の嵐だったんです。エリゼーヌ様が特別な存在ということの証明が、あの嵐でした」
私は笑って否定しながらも、心の中で密かに肯定していた。
そう、あの嵐は私のために吹いたのだ。
世界を変えるのは、選ばれし者にだけ許される。それが私だった。
大嵐が吹き荒れた年、私は王立学園の3年生だった。
内陸のロルウンヌ男爵領には被害はほとんどなかったが、王都には沿岸地域の惨状が深刻な噂として届いていた。
アウレスピリア子爵領は特に壊滅的な被害を受けた。ドナルドの婚約者ユリアの実家は沿岸部にある。復興は困難を極めると噂されていた。
私の父・ロルウンヌ男爵はいち早く復興に協力した。
被災地の復興支援に尽力し、商会の備蓄物資を惜しみなく提供した。
その行動は称賛され、父は男爵から子爵に
王宮で父と共に、国王と謁見した。
新調した礼装をまとった丸顔の父が壮麗で改まった謁見の間に立つ。緊張を隠せなかった。
私が信頼と尊敬をこめて微笑みかけると、少し落ち着いたようだ。立派に挨拶をこなした。
私がいれば、家族……愛しい人たちは安泰だ。
この国の頂点に君臨する国王が、私を「美しい令嬢だ」と称えた瞬間、それは運命の確証に変わった。
その一言は天からの指令のように胸に焼きついた。
私は選ばれた。
――世界が、私とドナルド様を導いている。
王の言葉も、その証しだ。
誰にも否定させない。
私がドナルドの真実の愛に基づく伴侶であるべき理由が、またひとつ追加された。
「エリゼーヌ、お前は我が家の誇りだ。この陞爵も、お前と我が妻……亡きオーロラの力があってこそだ」
父の言葉は私を奮い立たせた。
兄セオドアはそのころ、商会の船で世界を視察していた。届いた手紙にはこう書かれていた。
“エリゼーヌ、君は家族の誇りだ。そして、この国の未来を切り開く存在だと、僕は信じている”
――私もユリア嬢と同じ子爵令嬢になったのよ。いや、それ以上の存在になれる。
ユリアは飛び級で卒業し、文官として地方行政庁で働いていた。
――あの女には絶対負けない。
ユリアのような小手先だけの才女に、ドナルドを奪わせてはならない。
――あの人にふさわしいのは、私だけ。
誰よりも深く、ドナルドを理解しているのはこの私。
私は学校の勉強にますます力を入れた。
あの嵐が私に与えた道を進むためだ。
――陛下にお褒めの言葉を賜った私の運命は、もっと輝くはずなのだから。
それはもう、恋などではなかった。
運命が私に、ドナルドと共にある人生を命じていた。
◇◇◇
ノンナはホッと息をついた。額には汗が滲み、指先がわずかに震えている。サンディはノンナの汗を静かに拭い、支えるように隣に立っていた。
サンディは「大丈夫?」と小声で問いかけ、ノンナはただ小さくうなずく。
一方でリリアーヌは、自分の脇に立つセオドアの表情が曇っているのに気づいた。ふだんは「朗らかで頼れるおじ上」が、今はただ立ち尽くしている。
――えっ……おじ上、大丈夫?
声をかけたかったが、場の空気を察して黙るしかなかった。
セオドアは微笑んでいるようにも見える。でも、セオドアの表情はどこか不気味で、悲しげだった。
――おじ上、何を考えているの? まさか……笑いながら怒っている?
そんな考えが浮かんだが、すぐに違うと気づいた。怒りではなく、何か別の感情が隠れているように見えた。
――怒っているわけではない。では、どうして?
自分でも答えが出せず、リリアーヌはただその表情をちらちらと横目で見つめ続けていた。