ノンナが小さく息を吸い、背筋を伸ばした。
一時中断していた過去視の再現は再び静かに動き出す。
◇ ◇ ◇
ドナルドは誰にでも平等に微笑みを向けていた。
それを悟るたび、胸の奥が冷たく
――私は、ドナルド様の運命の相手なのよ。この愛が、ただの憧れだと見くびらせはしない。
彼にふさわしいのは、私だ。
その証明のためなら、どんな手だって使える。
***
ドナルドが婚約者と一緒に過ごす様子を初めて見たのは、出会って1年も経たない頃だ。
学園の中庭で、ドナルドとユリアが昼食を共にしていた。
ユリアの笑顔には余裕があり、すべてを手中に収めた女の空気があった。
ユリアは品があり、聡明で、隙のない立ち居振る舞いを見せる。
ドナルドが、そんなユリアに向けた表情は打ち解けた幸せに満ちていた。
耳が赤くなっていた。
何かが……砕けた。
私の心の中の何かがカッと熱を持ち、破裂するように砕けた。
見てはいけないものを見た気がしたのに、目が離せなかった。
ドナルドの素直で柔らかな表情は。あの女の微笑に照らされて輝いている。
――ふたりはまるで「相応しい未来」を確かめ合っているみたい。
気づいたら爪が、
――どうして。なぜあの女にだけ、そんな顔を見せるの?
ユリアの髪は、砂のように控えめな色。けれど光を受けると艶やかに揺れて、目を引いた。
愛らしいハーフアップにまとめられたその髪型は、彼にとっては「理想」なのだろうか。
――でも、私の金髪のほうが華やか。誰よりも映えるのに。
母の声が頭の中でささやいた。
「奪い取る者だけが、勝者になるのよ」
母の言葉。
ずっと怖かった。
奪いすぎることで、思いやりのない人間と思われてしまう。
ドナルドに相応しくなくなる自分が嫌だった。
……でも違う。今ならわかる。あれは警告ではない、人生の道しるべとなる指南だった。
――この世界は、奪わなければ奪われる。
私はもう、ためらわない。
正々堂々の勝利など、求めない。
――奪ってやる。ドナルド様を、あの女から取り戻す。
***
運命は……私に微笑んだ。
大嵐。
災厄が、大きな転機となった。
アウレスピリア子爵家の栄光は、波に呑まれて消えた。
領地は壊滅。子爵邸は崩壊。ユリアの両親を含む多くの命が奪われた。
繁栄していた地方都市は、一夜にして、瓦礫と涙の山になった。
それでも、ユリアは折れなかった。
若手文官として地位を保ち、冷静に立ち続けた。
募金活動、復興支援、孤児の教育。
ユリアの名前は王都中に響き渡った。
ドナルドと肩を並べ、称賛されるその姿に、私は狂いそうになった。
――なぜ? なぜ彼女ばかりが讃えられるの? なぜ私ではないの?
私の方が、美しいのに。
私の方が、頑張っているのに。
そう何度も唱えないと、立っていられなかった。
傷を負った彼女は称えられ、健気に努力している私は、正当な評価を受けていない。
この不均衡を、私は「正す」つもりだった。
私はそんな感情を表に出すことはない。
微笑みながらユリアの募金に参加した。
だが心の中では、彼女から奪う栄誉を、自分が拾い上げる日を夢見ていた。
さまざまな報道がユリアを褒めそやすたびに、胸の奥がズタズタに裂かれる。
それでも、私は信じていた。
――私こそが、ドナルド様の隣にふさわしい存在なの。
机の中にあった、募金の記念品。
紙細工の控えめな意匠。人々がユリアに熱狂した象徴。
***
募金の式典で、記念品を手渡すユリアが私に向けて微笑んだ。
「ご協力、感謝します」
その言葉は私にとって、勝者が敗者にかける哀れみの言葉のように響いた。
***
私は記念品に火をつけた。
大胆な行為を、手を震わせることもなく、淡々と安全にこなした。
私は冷静だった。
ゆっくりと紙が焼けて、灰になる。
あの女の誇りが、静かに消えていく。それだけで、私は自分を少し取り戻せた気がした。
――これで、いいの。
声に出さなかった。口の中で、何度も呟いた。
注意深くまとめた灰を窓から舞わせたとき、私は心に誓った。
――私は諦めない。
彼を手に入れるためなら、何も惜しくない。
すべてを燃やしてでも、手に入れる。
だって私は間違っていない。
――私の愛は、私の信念は、至高の真実。きっとドナルド様も分かってくださる。そうよね、母上。
◇ ◇ ◇
ノンナの身体がぐらりと揺れた。
映像が止まり、広間に沈黙が満ちる。
マクシムが静かにノンナの背を支える。
サンディは手を離し、無言でノンナの汗を丁寧に拭った。
リリアーヌは、目を逸らせなかった。
ただ……身体が冷えていくのを感じていた。
今、広間の壁に映っていたのは、自分の知らない「母の顔」だった。
――これが、私の母上? それとも、ずっと隠していただけの本当の顔?
吐き気にも似た違和感と悔恨が、胸の奥でぶつかっていた。
悔恨は……知らず知らずのうちに、母と同じように生きてきた自分への軽蔑も含んでいた。
――私にも、あの執念の種が宿っている?
そう考えるだけで、指先が冷たくなった。
いままで自分のものだと信じていた確かな安定を、リリアーヌは失った。