理想の母娘の幻想は、音もなく崩れた。
しかし、それはまだ、予兆でしかなかった。
続いて、怒濤のような暴力的な行いを過去視は暴くのだ……。
◇ ◇ ◇
ドナルドとの縁談を実現させた立て役者は、他ならぬ私……ロルウンヌ子爵令嬢エリゼーヌだった。
その第一歩を踏み出した夜会の日、私はある決断を下した。
忠実な侍女ゴードが私に瓶を差し出した。
中には、男性の自制を奪う禁忌の媚薬。情欲を煽り、理性を曇らせる魔術調合の産物。
「エリゼーヌ様。この薬は運命を動かす鍵です。この薬は大嵐のような情熱をドナルド様に駆り立てます」
ゴードはまるで正教経典を読み上げる聖職者のように重々しく言った。
「この薬の恩恵で、ドナルド様は真実に目覚めます。ご自分がエリゼーヌ様のものであると気付かれるのです」
戸惑いと期待がせめぎ合う中、私はその言葉をもっともだと確信した。
しかし、まだ燻る迷いを口にすると、ゴードは即座に切り捨てるように告げた。
「選ばれるべきは、あの婚約者ではありません。天が真に祝福するのは、エリゼーヌ様という光なのです」
私は薬瓶を見つめた。
そして、手に取った。
選ばれるのを待つのではなく、自ら運命を掴むのだ。
そう自らに言い聞かせる。
***
心を得るために、再配分魔法を使うという選択肢もあった。
ユリアに向けられた愛を剥ぎ取り、私に向くよう調整し、ドナルドに戻す。
理屈は整っていた。あとは、実行するだけ。
けれど、それは……心を壊すことだった。
母は「再配分された感情は劣化します。調整して操作はできる。でも、元のようには戻らないのよ」と言っていた。
私は怖かった。
まだ甘かった私は、ドナルドの心が壊れることを、何より恐れていた。
ドナルドのすべてが、愛おしかったから。
そして、私は信じていた。
薬など使わずとも、きっかけさえあれば……。
私が選ばれるはずだと。
……信じていた。祈るように、すがるように。
それが嘘なら、あの夜が、呪いに変わると分かっていたから。
――私は、特別なのだから。
その夜。
優しいドナルドは、私と乾杯した。
私が隙を見て媚薬を注いだグラスの飲み物を、疑いもせず飲み干した。
量は、調整してあった。
感情には干渉しない。ただ、意識を……曇らせるだけ。
幻惑の中で、彼は私を受け入れた。
ゴードの采配で、休憩室へと導かれた私たちは、ひととき、静かな闇に身を預けた。
私は名前を呼び、彼に手を伸ばした。
……でも、その瞳は、私を映していなかった。
それでも。
私は信じた。
これは運命だと。
これは、証明だと。
そう思わなければ、生きていけなかった。
夜が更け、ドナルドはすべてを悟った。
冷静な鑑定魔法で事実を確かめ、唇を固く結んで私を見た。
「媚薬……ロルウンヌ嬢、あなたがしたことは、決して許されない」
静かな怒りが、その声にはあった。
私は必死に弁明し、謝罪し、恋情を訴えた。
だが、ドナルドはそれを聞き入れず、私に背を向けた。
私は絶望しかけた。
でも、諦めなかった。
次の手を打つ。
政略という道を選んだのだ。
父に相談した。
夜会で、フォートハイト伯爵令息ドナルドの情熱に身を任せたと打ち明ける。
爵位を失い、孤児となったユリアよりも、子爵家の令嬢である私の方が、伯爵家の未来にとってふさわしいはずだ。
そう、理路整然と訴えた。
父は動いた。
ドナルドの父と密かに会談し、私との縁談の有利さを説いた。
そして、証拠として私とドナルドが「関係を結んだ」証しまで提出した。
ロルウンヌ子爵家と繋がる未来か、爵位を持たぬ没落家の娘を守るか。
その天秤は、ゆっくりと、だが確実に私へと傾いた。
ドナルドの父は言った。
「愛だけで、家は守れぬ」
私はそのようにして、フォートハイト伯爵家嫡男の婚約者の座を手に入れた。
***
だが、私は知っていた。
ドナルドの心はまだユリアにある。
婚姻を単なる「命令」とみなしている 。
媚薬のことを訴えても、一笑に付す父親からの命令だ。
腹立たしいだろうが、爵位を受け継ぐなら従わざるを得ないはずだ。
それでもいいと思った。
ドナルドの記憶のどこかに運命の夜の私が残っている限り、私は「特別」なのだと信じたかった。
いや……むしろ、そう信じなければ、あの夜が呪いになる気がした。
◇◇◇
リリアーヌはノンナを見つめた。
ノンナの視線が一瞬ドナルドへと向けられていた。
ドナルドは感情を示さない。
ただ静かに微笑んでいる。
部屋で唯一、動揺の影を見せない男だった。
銀の光を帯びた金髪が微動だにせず、時間の外に取り残されたように佇んでいる。
そう、心はここにはないように……。