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第24話-伯爵家の正妻(リリアーヌ視点)

 ノンナはすぐに視線を戻し、再び過去視の投影へと集中した。


 ◇◇◇


 婚約話が進む中、とんでもなく腹立たしい事件が起きた。


「……ドナルド様が、アウレスピリア嬢と?」

「ああ、書き置きを残して出奔した」


 父の言葉に耳を疑い、身体が凍りついた。

 文官寮にはユリアの退職届が残されていた。素早く、慎重な手配がなされていた。


 ――淫婦。あの女が、ドナルド様をたぶらかしたに違いない。


 私とドナルドが結ばれた運命の夜……薬の力を借りたとはいえ、それは確かに「私たちの始まり」だった。

 たとえドナルドが今は拒んでいても、貴族には政略結婚の義務がある。

 それが常識だ。

 その常識に従わないユリアを、私は心の中で「淫婦」と呼び捨てるようになっていた。


 ――ドナルド様は私を愛してくれた。あの夜、私を抱いた。私を裏切るはずがない。


 信じたかった。

 だが、ドナルドが不在という事実は私の前へ冷酷に立ちふさがった。

 ならば、信じるしかなかった。

 ユリアがドナルドの心を惑わせたと。

 すべて淫婦の策略だと。


 ――私が正しい。彼を取り戻さなくては。


 その確信が、私の怒りと執念を支えた。


 まもなく私は妊娠に気づいた。

 驚きとともに、胸の奥に歓喜が沸き起こった。


 ――私の中に、真実の愛の結晶がいる。だから、ドナルド様は必ず帰ってくる。


 これ以上に明確な絆があるだろうか。

 私はすぐ父に報告した。ユリアへの怒りを父と共有し、自分こそが正妻であるべきと訴えた。


 父も、伯爵家も私の言葉を指示じた。

 婚姻は両家の同意のもと正式に成立した。

 私は「勝者」となり、フォートハイト家の正妻の座を手に入れた。


 娘リリアーヌが生まれたとき、私は幸福だった。

 父親に良く似た美しい赤子の姿は、紛れもなく私たちの愛の証しだった。


 父がふと呟いた。


「可愛い子だ……。でも、もう少し、お前に似ていたらな」


 私は微笑んだ。

 ――かまわない。彼に似ているから、それでいい。


 ***


 しかし、ドナルドの不在は心の奥底で不安を増幅させ続けた。「真実の愛」が、どこか遠くに彷徨さまよっているのは、とても辛い試練だった。


 ゴードは密かにドナルドの行方を探り続けていた。

 そして、ついに……。


「エリゼーヌ様。旦那様についての情報が入りました」


 胸の内に沈んでいた怒りと執念が再び炎を上げた。


「……すぐに支度を」


 口元に浮かんだ笑みは冷たかった。

 私は静かに決意を固め、再配分魔法の手順を復習した。


 今度こそ失敗しない。

 薬ではなく、魔法の力で彼の心を奪い返す。

 たとえ代償が何であろうと、私たち・・・は支払う。


 ――彼は私のもの。それが運命なのだから。


 ◇◇◇


 ここまで記憶を映し出したノンナの身体がぐらりと揺れた。

 その顔色は血の気を失い、頬は一気にこけていた。焦点の定まらない瞳、唇は震えていた。


 リリアーヌは、おののき震えながらその姿を見つめていた。

 ――まるで魂を削られていくみたい……。

 リリアーヌ自身も……どこかに走って逃げ出して、削られた魂の傷が癒えるまで隠れたかった。


 サンディがそっとノンナを支え、マクシムに目配せする。

 マクシムはすぐに一同に向かって短く告げた。


「休憩を取ります」


 静まり返る広間。

 公爵はノンナのために用意された椅子へと彼女を導いた。


「ありがとうございます、少し休ませていただきます」


 ノンナは低く頭を下げ、椅子に腰を下ろした。


 沈黙が場を支配していた。

 言葉は不要だった。誰もが、この空気に呑まれていた。


 リリアーヌは胸の鼓動が早まっているのを感じた。

 心が、何かを拒もうとしている。鼓動は痛みを伴うほど強い。


 ――淫婦って、ノンナの母のことではないのでは……?


 理解したくない。目をそらしたい。

 自分の母が……こんな物語の中心にいるなど、認めたくない。


 母の姿を見る勇気が持てず、代わりにセオドアを振り返った。

 いつも朗らかな「おじ上」の癒やしが、いまのリリアーヌに必要だった。


 セオドアの顔を見た瞬間、喉がキュッと詰まるような怯えに襲われた。


 血の気を失った頬、焦点の定まらない目、わずかに震える肩。

 けれど、倒れない。崩れない。

 だからこそ、なおさら恐ろしかった。


 セオドアの中で、何かが終わろうとしていた。

 声にならない音を立てながら、信じていた世界の外装が静かに剥がれ落ちていく。


 リリアーヌの胸にも、波紋が伝った。

 「私の家族」という確かだった存在が、じつは最初から脆く、歪んでいた……その事実に初めて触れた。


 形だけは残っている。けれど、中身は抜け落ち、空っぽの殻がひしゃげていくような感覚。


 ――壊れていくのは、おじ上だけではない。


 この空間にいるノンナ以外のフォートハイト家の関係者たちが、それぞれ違う痛みを胸に、静かに崩れていく。


 その瞬間、リリアーヌは息をすることさえ忘れていた。



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