ノンナはすぐに視線を戻し、再び過去視の投影へと集中した。
◇◇◇
婚約話が進む中、とんでもなく腹立たしい事件が起きた。
「……ドナルド様が、アウレスピリア嬢と?」
「ああ、書き置きを残して出奔した」
父の言葉に耳を疑い、身体が凍りついた。
文官寮にはユリアの退職届が残されていた。素早く、慎重な手配がなされていた。
――淫婦。あの女が、ドナルド様をたぶらかしたに違いない。
私とドナルドが結ばれた運命の夜……薬の力を借りたとはいえ、それは確かに「私たちの始まり」だった。
たとえドナルドが今は拒んでいても、貴族には政略結婚の義務がある。
それが常識だ。
その常識に従わないユリアを、私は心の中で「淫婦」と呼び捨てるようになっていた。
――ドナルド様は私を愛してくれた。あの夜、私を抱いた。私を裏切るはずがない。
信じたかった。
だが、ドナルドが不在という事実は私の前へ冷酷に立ちふさがった。
ならば、信じるしかなかった。
ユリアがドナルドの心を惑わせたと。
すべて淫婦の策略だと。
――私が正しい。彼を取り戻さなくては。
その確信が、私の怒りと執念を支えた。
まもなく私は妊娠に気づいた。
驚きとともに、胸の奥に歓喜が沸き起こった。
――私の中に、真実の愛の結晶がいる。だから、ドナルド様は必ず帰ってくる。
これ以上に明確な絆があるだろうか。
私はすぐ父に報告した。ユリアへの怒りを父と共有し、自分こそが正妻であるべきと訴えた。
父も、伯爵家も私の言葉を指示じた。
婚姻は両家の同意のもと正式に成立した。
私は「勝者」となり、フォートハイト家の正妻の座を手に入れた。
娘リリアーヌが生まれたとき、私は幸福だった。
父親に良く似た美しい赤子の姿は、紛れもなく私たちの愛の証しだった。
父がふと呟いた。
「可愛い子だ……。でも、もう少し、お前に似ていたらな」
私は微笑んだ。
――かまわない。彼に似ているから、それでいい。
***
しかし、ドナルドの不在は心の奥底で不安を増幅させ続けた。「真実の愛」が、どこか遠くに
ゴードは密かにドナルドの行方を探り続けていた。
そして、ついに……。
「エリゼーヌ様。旦那様についての情報が入りました」
胸の内に沈んでいた怒りと執念が再び炎を上げた。
「……すぐに支度を」
口元に浮かんだ笑みは冷たかった。
私は静かに決意を固め、再配分魔法の手順を復習した。
今度こそ失敗しない。
薬ではなく、魔法の力で彼の心を奪い返す。
たとえ代償が何であろうと、
――彼は私のもの。それが運命なのだから。
◇◇◇
ここまで記憶を映し出したノンナの身体がぐらりと揺れた。
その顔色は血の気を失い、頬は一気にこけていた。焦点の定まらない瞳、唇は震えていた。
リリアーヌは、
――まるで魂を削られていくみたい……。
リリアーヌ自身も……どこかに走って逃げ出して、削られた魂の傷が癒えるまで隠れたかった。
サンディがそっとノンナを支え、マクシムに目配せする。
マクシムはすぐに一同に向かって短く告げた。
「休憩を取ります」
静まり返る広間。
公爵はノンナのために用意された椅子へと彼女を導いた。
「ありがとうございます、少し休ませていただきます」
ノンナは低く頭を下げ、椅子に腰を下ろした。
沈黙が場を支配していた。
言葉は不要だった。誰もが、この空気に呑まれていた。
リリアーヌは胸の鼓動が早まっているのを感じた。
心が、何かを拒もうとしている。鼓動は痛みを伴うほど強い。
――淫婦って、ノンナの母のことではないのでは……?
理解したくない。目をそらしたい。
自分の母が……こんな物語の中心にいるなど、認めたくない。
母の姿を見る勇気が持てず、代わりにセオドアを振り返った。
いつも朗らかな「おじ上」の癒やしが、いまのリリアーヌに必要だった。
セオドアの顔を見た瞬間、喉がキュッと詰まるような怯えに襲われた。
血の気を失った頬、焦点の定まらない目、わずかに震える肩。
けれど、倒れない。崩れない。
だからこそ、なおさら恐ろしかった。
セオドアの中で、何かが終わろうとしていた。
声にならない音を立てながら、信じていた世界の外装が静かに剥がれ落ちていく。
リリアーヌの胸にも、波紋が伝った。
「私の家族」という確かだった存在が、じつは最初から脆く、歪んでいた……その事実に初めて触れた。
形だけは残っている。けれど、中身は抜け落ち、空っぽの殻がひしゃげていくような感覚。
――壊れていくのは、おじ上だけではない。
この空間にいるノンナ以外のフォートハイト家の関係者たちが、それぞれ違う痛みを胸に、静かに崩れていく。
その瞬間、リリアーヌは息をすることさえ忘れていた。