【タイトル】
【公開状態】
下書き
【作成日時】
2025-06-07 12:33:58(+09:00)
【更新日時】
2025-06-13 21:45:47(+09:00)
【文字数】
1,646文字
【本文(99行)】
その日は春の初めの暖かい日だった。風が花盛りの木蓮の枝をやさしく揺らし、白い花びらがふわりと舞った。
サンディがドナルドたちと伯爵家の継承のための話し合いを始めたあと、ノンナとマクシムは執務室を出た。
かつてノンナが暮らしていた小屋の跡地へ向かうためだった。
どうしても見ておきたい物があると言ったノンナに、マクシムと護衛が付き添った。
よく手入れされた芝生の脇に、春風に揺れる水仙の鮮やかな黄色が、星のように散りばめられ、ひときわ華やかだった。
名前の分からない白い花から、ほのかに甘い香りが漂い、春の息吹を感じさせる。
だが、ノンナとマクシムはそんな美しい庭に背を向け、屋敷の裏手へと脚を進めた。
そこは、粗大ゴミが無造作に積み上げられ、湿った雑草が足元を覆う、忘れ去られたような一角だった。
空気はひんやりと湿り気を帯び、風の音も、どこか淀んで聞こえた。
「ここです」
ノンナは、どこか重々しい声で言った。
「動物の墓場です。伯爵邸で飼われていた犬や猫が焼かれて、ここに埋められています。名前を書いた棒を立てることになっていて……」
マクシムは1本の棒に目を留めた。
朽ちかけた木片に、子どもが刻んだような粗雑な筆跡で「ノンナ」とあった。
「ノンナ?」
「昔ここにいた番犬の名前です。私と同じ、ノンナ」
不意に冷たいものが胸をよぎる。
マクシムは、何かとても重要な話が始まろうとしていると悟った。
「伯爵夫人は、その犬の名前で私を呼ぶことにしました。雄犬に媚びる尻軽な犬だと……淫婦の娘にふさわしいと、揶揄するためでした」
その言葉は、正義を重んじるマクシムの心をザラリと逆撫でした。
マクシムは唇をかみ、こみ上げる怒りを飲み込んだ。
しかし、ノンナは……どこまでも穏やかだった。
「でも、私はこの名前が好きなんです」
「どうして?」
ノンナは、雌犬のノンナが、番犬として忠実に吠え、役割を全うしていたことを話した。
そして小さく微笑む。その横顔が、どこか誇らしげだった。
「犬のノンナは、ちゃんと務めを果たしました。私も、自分の役目を果たせる人間でありたい。ずっと、そう思ってきました」
マクシムは息を呑んだ。
――ノンナ嬢は、こんな場所でも自分の価値を見つけていたのか。
奪われ続けた人生のなかで、なおも誇りを手放そうとしなかった小さなノンナ……。
「ユードーラは、『素晴らしい贈り物』という意味ですよね。でも私は、9匹目の犬ノンナでもありたいです」
成長した17歳の姿が美しかった。
名前ではなく、自分自身で在ろうとするその在り方が、心を打つ。
「……そうだな」
マクシムはうなずいた。
「ノンナ嬢は有能で、よく働く。犬のノンナも、誇らしいだろう」
ノンナは少し照れたように笑った。
「これからは、ノンナ=ユードーラ・アウレスピリアと名乗りたいです」
「ふさわしい名前だ」
マクシムは心からそう思った。
ノンナが「水を供えたい」と言って歩きだそうとすると、護衛がそれを制止した。
ノンナは肩を落としながら水場の位置を説明し、護衛が代わりに向かった。
「いまは何不自由なく暮らせているようで、やりたいことが全部できるわけではないですね」
「貴族というのは、そういうものだ」
マクシムは苦笑した。
「この服、ハティがいろいろと考えて用意してくれたんです。汚したら申し訳ないかな」
仲良しの侍女を気遣いながら、ノンナがつぶやく。
マクシムは微笑み、胸の奥が熱くなるのを感じた。
――可愛い。
その思いが込み上げて、言葉になった。
「ノンナ嬢、私と結婚して、ノンナ=ユードーラ・ソフォスアクシと名乗ってください」
その瞬間、風の音さえ止んだようだった。
ノンナは目を見開き、頬を染め、そしてすぐにその紅が消えた。
「ごめんなさい……」
か細い声が、風にさらわれるように消えていく。
マクシムはうなずいた。
見上げると、空はやわらかな水色だった。
ところどころ白い綿雲が浮かび、春風に乗ってゆっくりと流れていく。
ノンナを悩ませるのは、マクシムの本意ではなかった。
けれど……このまま諦めるつもりもなかった。