その日、サリエーリは朝からオペラの勉強をしていた。そこに訪ねてきたのは舞踏家ジョヴァンニ・ガストーネ・ボッケリーニである。
「やあ、君がガスマンの弟子か」
「あなたは?」
「私は詩人のジョヴァンニ・ガストーネ・ボッケリーニだ。実はここにオペラの台本があるんだが、君に作曲をしてもらいたくてね」
ボッケリーニの急な申し出に困惑するサリエーリは、重ねて問う。
「ボッケリーニと言えば、バレエのダンサーではないですか?」
「おお、知っているのか。実は詩人としてデビューする為にガスマンに作曲してもらう台本を書いたんだが、彼は今ローマにいるだろう? そしたら、師のカルツァビージが新人の台本作家は新人の作曲家と仕事をするのが良いって言ってね。君はまだオペラを全編作曲した事はないよね」
台本作家ラニエーリ・カルツァビージはサリエーリが父と慕うグルックと組んでオペラ改革に乗り出した人物だ。その弟子が書いた台本となれば、当然サリエーリも興味を惹かれた。
「本当に私が作曲していいのですか?」
「もちろんさ。新人二人で華々しくオペラデビューと行こうじゃないか」
サリエーリは台本を受け取ると、このチャンスをものにするために必死で読み込んだ。師はローマで仕事中だが、帰って来るのを待って完成させ、指導を受けようと決める。そして昼食を食べるとすぐに作曲を始めたのだった。
「なるほど、この《女文士たち》は、インテリ男たちの滑稽さと最後に見事想い人と結ばれるコリッラの姿が中心になる喜劇か。それならば……」
サリエーリは、夜を徹して作曲に当たった。翌朝になると、ボッケリーニが様子を見にやって来る。
「どうだい? 台本は気に入ってくれたかな?」
「ええ、とりあえずこれだけ作りました」
徹夜明けのサリエーリが目を輝かせて取り出した楽譜を見たボッケリーニは驚愕の声を上げた。
「なんだこれは! もう第一幕の導入部とフィナーレの大半が出来ているじゃないか」
まさかもうそんなに作曲されているとは夢にも思わなかったボッケリーニは、驚きと共にこの事を師に報告するのだった。
「さすがガスマンとグルックの秘蔵っ子だ。それなら安心して完成を待てるな」
弟子と笑い合って初演の日を待つカルツァビージだったが、この後予想外の事態が発生する。
「今回のオペラは不評だ。早く代わりの作品を上演しないと」
ブルク劇場で上演されていたオペラの評判が悪く、興行師は頭を抱えていた。ボッケリーニに新作はまだかと聞くが、サリエーリと約束した初演の日はまだずっと先。困ったボッケリーニはカルツァビージに相談する。
「なるほど、確かにあれは失敗だな。新作の作曲はもう出来ているのか?」
「サリエーリはガスマンの帰国を待って完成させるつもりだそうです」
「だが、ブルク劇場はもう待てないだろう。こうしたらどうだ?」
カルツァビージは、弟子にある策を与え、自分は知り合いに連絡を取るのだった。
「女文士たちの進行具合を確かめたいんだ。来てくれないか?」
ボッケリーニに呼ばれたサリエーリは、企み事があるなどとは露ほども考えずに書きかけの楽譜を持って向かった。
「やあ、待っていたよアントーニオ」
そこには、グルックとジュゼッペ・スカルラッティという二人の作曲家が興行師と共に待っていた。
「グルック先生! どうしてここに?」
事態が掴めていないサリエーリから楽譜を受け取ると、初見試奏を始める作曲家たち。興行師は何故か真剣な顔で様子を見守っている。ボッケリーニに視線で問いかけると、肩をすくめて首を振る。
「……ふむ、こことここに作曲上のミスがあるぞ」
スカルラッティが楽譜の誤りを指摘した。偉大な先輩達から添削を受けている事にはむしろ感謝すら覚えるサリエーリだが、どうしてこうなったという気持ちだ。師のガスマンに見てもらうはずだったのに、と。
「だが、この作品には聴衆を喜ばせるものが充分ある」
グルックは作品の出来栄えに満足していた。これなら上演しても大丈夫だと太鼓判を押したのである。興行師の顔がパッと明るくなり、サリエーリは事情を察した。
一七七〇年一月一〇日。《女文士たち》はブルク劇場で初演を迎えた。
サリエーリはチェンバロを弾きながら監督をし、上演が終わるとすぐに走り出し、物陰に身を潜めて観客の評判に耳を傾けた。初めて上演された自作品が観客に受け入れられるか、不安で仕方なかったのだ。
多くの感想が聞こえてきた。その中には「ひどく退屈だった」というものもあったが、概ね受け入れられていた。作曲家を褒める感想が耳に入ると、サリエーリは安堵して帰ったのだった。
《女文士たち》の初演は成功を収めた。その後ローマから帰ったガスマンは作曲の経緯を知り、ヨーゼフ二世のはからいで行われた宮廷での演奏会を聞いて弟子が一人前の作曲家になっている事を認める。
「だが、こんなにミスがある。まだまだ精進が必要だな」
ガスマンは曲の出来に満足したものの、楽譜に多くの修正点を見つけ更なる指導を行うのだった。
これからしばらく、サリエーリとボッケリーニは二人三脚でオペラを作る。だが、彼等のオペラが充分な成功を得る事はなかった。その後、サリエーリの才能が開花し大成功を収めるのは彼の初めてのオペラ・セーリア《アルミーダ》である。