ガスマンの弟子となったサリエーリは、主にオペラを作曲するための技術を叩き込まれた。当時は貴族のためのオペラを作曲しなければ作曲家として一人前と認められなかった時代だったので、当然の成り行きである。
そして、もう一人の師グルックは革新派のオペラ作曲家だった。彼の思想を簡単に説明すると、過度な装飾によって劇への興味が削がれる事を批判して、物語を重視し観客に分かりやすく伝えるべきということだ。そのために物語を的確に先取りし、技巧の誇示よりも明晰さを重視せよと主張していた。
近現代の小説における純文学と大衆文学の関係と言えば彼の思想が伝わるだろうか?
これをグルックは今から二五〇年も前の一七六九年頃に主張していたのである。
「アントーニオ、今日は歌手の稽古伴奏を任せる」
一七六七年一二月、ガスマンは弟子にオペラ作曲家となるための訓練の一環として帝室歌劇場の副指揮者助手をさせていた。
「はい、先生」
彼等が練習しているのは、グルックの新しいオペラ《アルチェステ》だ。サリエーリは歌手の稽古伴奏もし、さらに初演でチェンバロ奏者も務める事になった。
「これまでのオペラ・セーリアとはまるで違う。グルック先生はこんなオペラを書くんだ」
父と慕うグルックのまったく新しいオペラに初演から関わったサリエーリは、その理念と作風を身に染み込ませていく。
「伴奏をしないときも平土間で学びなさい。上演の様子、音楽の効果を確認するんだ」
ガスマンはサリエーリに間近でオペラを学ばせる。そして言い付けの最後には決まってこう付け加えるのだ。
「言い付けを守らないとイタリアに送り返すぞ!」
これは半ば冗談なのだが、行くあてのないサリエーリには恐ろしい言葉だった。必死で学ぶ少年だが、ある日のこと。
「オペラの舞台って凄いなあ、これも作りものなんだ」
幕間につい平土間を離れ、舞台セットに見とれていた。そこに突然幕が上がる。
「まずい、逃げないと!」
サリエーリは慌てて逃げ場を探すが、もう幕は開いてしまった。行き場が無くなった彼は目の前にあるテーブルの下に隠れるしかない。
「ど、どうしよう?」
焦ってももうどうしようもない。演奏が始まり、客の目は舞台に釘付けだ。サリエーリはこのまま幕が下りるのを待つしかなかった。
「おや? テーブルの下に何かいるぞ、犬かな」
四人の歌手がテーブルについて食事の場面を演じていたが、テーブルクロスを落とした一人が拾おうとしてかがんだ時、中に何かがいる事に気付いてしまった。
「ねえ、テーブルの下に犬がいるみたいだよ」
彼は歌の合間に、別の歌手に伝えた。
「えっ、嘘。嫌あああ!」
その女性歌手は動物が嫌いだった。叫んで椅子から飛び上がる歌手に、観客は爆笑する。なぜ動物嫌いの彼女に伝えたのだろうか。あるいはこうなるようにわざと意地悪をしたのかもしれない。
「出てきなさい! あら、サリエーリじゃない」
他の歌手が犬を出そうと中を覗き、ガスマンの弟子が隠れているのを発見すると、そこから逃がしてくれたのだった。
「この事は先生に言わないで!」
歌手達に懇願し、逃げ帰ったサリエーリはドキドキしながら師と夕食の席についた。
「アントーニオ、今日も言い付けを守ってオペラを学んで来たかな?」
「はい、今日は歌手達の歌がよく聞けました」
誰よりも近くで聞いていたので嘘ではない。怒られるのではないかと緊張していたサリエーリだが、そのまま何事もなく食事が終わり、ほっと胸を撫で下ろすのだった。
だが次の日、昼食の時にイタリア人の御者が現れる。
「何か御用で?」
「ああ、この子をイタリアに送り返そうと思ってね」
びっくりして飛び上がるサリエーリ。前日の失敗は師の耳に入っていたのだった。
「ごめんなさいガスマン先生、僕は嘘をつきました!」
泣きながら失敗の顛末を語ると、一同爆笑して彼を許した。
「ワッハッハ、冗談だよ。だが、もうあんな失敗をするんじゃないぞ」
このようにサリエーリは良い師に恵まれたが、終始真面目かつ勤勉に学んでいたというわけではなかった。
しばらくすると彼は師の目を盗んで作曲を始める。作曲すると基礎練習がおろそかになってしまうので、許可されるまでは作曲しないように言われていたのだが、どうしても作曲したい欲求が勝ってしまったのだった。
「作曲したらイタリアに送り返すぞ!」
決まり文句で脅す師匠だったが、それでもサリエーリの作曲欲を抑える事は出来なかった。
正式に作曲を許されたのは一七六八年からだが、それまでにもいくつかの宗教曲などを作曲していたという。
そしてサリエーリが二〇歳を迎える一七七〇年、彼が作曲した最初のオペラ《女文士たち》がヴィーンで初演されるのだった。