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第一幕 若き宮廷室内作曲家の誕生

神に愛された孤児

「宮廷楽長フローリアン・レーオポルト・ガスマンの後任には宮廷作曲家のジュゼッペ・ボンノを昇格させる。ガスマンが兼任していた宮廷室内作曲家になるのはアントーニオ・サリエーリだ。サリエーリにはイタリア・オペラ指揮者も兼任してもらう」


 一七七三年二月初め、ヴィーンに弱冠二三歳の若き宮廷室内作曲家カンマーコンポジトゥール兼イタリア・オペラ指揮者カペルマイスターが誕生した。


 彼の師であるガスマンは宮廷楽長ホーフカペルマイスターと宮廷室内作曲家を兼務していたが、この年に急逝する。皇帝ヨーゼフ二世は後任に前年皇帝の母マリーア・テレージアによって貴族に列せられたカール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフ男爵を望んだが、ヨハニスベルクに滞在する彼が応じる事はなかった。そのためボンノを後任とするのだが、彼は十年前からオペラの作曲をしておらず、加えて六一歳という高齢でもあり、歌劇場の指揮者にはガスマンの弟子であるサリエーリの方が良いだろうという判断だった。


「先生……私がガスマンの弟子として恥じない働きを出来るように、見守っていてください」


 若くして責任ある立場に就いたサリエーリは、恩師の死を悼みつつ、彼との思い出を振り返るのだった。




 一七五〇年八月一八日、サリエーリがイタリアのレニャーゴに生まれる。彼の父は同姓同名のアントーニオ・サリエーリ、母はアンナ・マリーア・スカッキ。二人の間に生まれた十人の子供の八番目がアントーニオであった。


 彼は六三年に母を、六四年に父を亡くす。父の商売は亡くなる少し前に失敗しており、遺産もない。孤児となったサリエーリの兄弟達はみじめな生活を余儀なくされるが、六六年初頭になると彼等の境遇を知った父の知人アルヴィーゼ・ジョバンニ・モチェニーゴが、音楽の覚えがあるサリエーリをヴェネツィアに連れて行き、あたたかく迎えた。


 ヴェネツィアは水の都として有名だが、音楽と演劇の都でもあった。サリエーリ少年はたちまちオペラの虜になり、これまでのみじめな生活から一転、目を輝かせてオペラを観劇し、近くに座るマエストロに憧れたりするようになる。


『マエストロがすぐ隣の桟敷にいたが、声をかけられず、そっと彼の毛皮の袖に触れた』


 後にサリエーリ自身が過去を振り返って語った当時のエピソードだ。彼はこの頃内気な少年だったのだという。


 モチェニーゴのはからいで音楽の教育を受けていた彼は、その年の五月に恩師ガスマンとの運命的な出会いを果たす。彼は六五年八月に女帝マリーア・テレージアの夫であるフランツ一世が崩御した事で、ヴィーンの劇場が全て喪に服して閉鎖していたために、新作オペラ《スキロスのアキッレ》を上演するべくヴェネツィアにやって来ていたのだった。


「サリエーリ少年をヴィーンに弟子兼アシスタントとして連れ帰りたいのだが、どうか?」


 ガスマンはサリエーリの声楽教師をしていたフェルディナンド・パチーニに紹介された彼を気に入り、モチェニーゴ家にサリエーリを自分の責任で教育したいと申し出たのだ。


 六六年六月、神聖ローマ帝国の首都ヴィーンに到着したサリエーリは、三七歳で独身のガスマンの住まいに寄宿する事になる。ガスマン自身もサリエーリと似たような境遇から音楽家になったため、自分の過去を重ね合わせたのかもしれない。


 この時点でサリエーリは奇跡的な程の幸運に恵まれていたのだが、彼の幸運はさらに続く。


 七月初めのある日、当時宮廷作曲家だったガスマンは、サリエーリを宮廷の室内楽演奏会に楽器奏者として連れて行った。宮廷の演奏会ともなればもちろん皇帝ヨーゼフ二世も臨席する。


「ヴィーンは気に入ったかね?」


 サリエーリの事を聞かされていた皇帝は、興味津々で彼に話しかけた。


「はい、このような素晴らしい場所にこれて大変幸せな日々を過ごしております」


 皇帝に話しかけられ、緊張しながらも喜びに満ちた笑顔を見せて答える。気を良くしたヨーゼフ二世は、さらに近況を聞いた後でオペラの楽譜を見せ、サリエーリに自分で伴奏しながら歌うように指示した。これは自分で宮廷の音楽家を選ぶ皇帝が、初対面の音楽家に対して行う試験であった。


「ガスマンよ、宮中の室内楽演奏会には必ずこの少年を連れてくるように」


 サリエーリは彼の試験に合格し、大変気に入られたのだ。


 彼の幸運はこれで終わらない。ヴィーンの宮廷にて、ヨーロッパ一の名声を博す皇室詩人ピエートロ・メタスタージオを紹介される。メタスタージオもまたサリエーリを大変気に入り、サリエーリが彼を自由に訪問して良いと伝え、訪問した少年に詩の朗読法を教授した。


 そしてもう一人、既にオペラの大家として認められていたクリストフ・ヴィリバルト・グルックに紹介してもらったサリエーリは、三六歳年上の彼を父のように慕うようになる。


 ほんの一年前までは物乞いをするほどに貧窮していた孤児が、のちの宮廷楽長となる宮廷作曲家に面倒を見てもらい、神聖ローマ皇帝に気に入られ、偉大な詩人と作曲家に囲まれて学ぶ、非常に恵まれた環境に身を置いていたのだった。




 一六歳のサリエーリは『神童』と呼ばれる年齢ではなかったが、確かに神に愛されたとしか言いようのない、奇跡的な幸運によって人生を一変させたのである。

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