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事故と出会い

 《宿屋の女主人》を読んだ時、サリエーリは登場人物の中でも女嫌いの騎士リーパフラッタに注目した。


 リーパフラッタは女に興味がなく、宿屋の主人であるミランドリーナに言い寄る貴族たちを軽蔑していた。そんな彼を見たミランドリーナは、自分に恋させようとやっきになる。見事恋に落ちたリーパフラッタだが、女主人は彼を無視して宿屋の下男と結婚し、また女嫌いに戻るのである。


 そんな彼の心の変化を生き生きと表現する事に力を注ぐ。第一幕では女を嫌う態度を、第二幕では苦しい胸のうちを、それぞれのアリアで歌い上げさせた。


 サリエーリの試みは成功し、一七七三年六月八日ヴィーンの劇場で初演された時に大喝采を浴びたのだった。


 大成功を収めた《宿屋の女主人》は、《ヴェネツィアの市》と並んでサリエーリの初期喜歌劇の代表作と位置付けられる事になる。




 少し前の事、ガスマンはイタリアのヴェネツィアにいた。


(サリエーリの新作オペラは素晴らしい出来だ。ここヴェネツィアで上演する事は出来ないだろうか?)


 かつてサリエーリと出会ったこの都に旅行で来ていた彼は、馬車に揺られながら物思いに耽っていた。


「ヒヒィーン!」


 突然、馬車を引いていた馬が暴れる。彼の乗っていた馬車は激しく揺れた。そして――


「先生!」


 報せを受け、すぐに師のもとへ駆け付けたサリエーリに、ガスマンは病床から笑顔を見せる。


「いやあ、私としたことが失敗してしまったよ。事故を起こした馬車から飛び降りたら、馬に引きずられてしまってね。だが、大丈夫だ。君は自分のオペラを成功させる事に専念しなさい」


 大切な舞台を前にした弟子に心配をかけまいと、無理に元気な声を出している事がサリエーリにはすぐに分かった。


「ゆっくり体を休めて下さい。先生が元気になるような良い報せを持って来ますから!」


 サリエーリは泣き出したい気持ちをこらえ、笑顔を作ってそう言うのだった。


(注:この事故が発生した時期について、七三年にガスマン最後のオペラ《田舎の家》が発表され、七四年初めに亡くなっている事から本作では《宿屋の女主人》初演の少し前としています)




 同時期に、スウェーデン国王グスタフ三世は自国に王立歌劇場を設立し、イタリア・オペラを根づかせようとしていた。ヴィーンで頭角を現し始めた若きオペラ作曲家は、スウェーデン王室にとってとても魅力的な存在であった。


「三年間の期限付きで、王立劇場の作曲家と管弦楽指揮者をしてもらえないだろうか?」


 突然の要請。サリエーリは北欧のスウェーデンから呼ばれ、困惑した。病床にある師のもとを離れる事も不安だ。ともあれ、正式に話が来た以上、独断で返事をするわけにもいかない。ガスマンと相談し、ヨーゼフ二世に判断を委ねる事にした。


「あまり考えたくはないが、もしガスマンが死んでしまったら後任を決めなくてはならない。その候補者であるサリエーリを国外に出すわけにはいかんだろう」


 こうして、スウェーデン王室からの招聘を断ったサリエーリだが、ついに運命の出会いを果たす。


「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト? あの神童と呼ばれた作曲家がヴィーンに来るのか」


 一七七三年七月。モーツァルトは父レーオポルト・モーツァルトと共に三度目となるヴィーン訪問を果たす。


 実は前回の訪問時にもサリエーリとモーツァルトは顔を合わせているが、それは一七六八年。サリエーリがまだオペラ作曲家としてデビューする前の事である。


 今回、モーツァルト父子は就職活動でやって来た。ヴォルフガングはザルツブルクの宮廷音楽家で、コンツェルトマイスターの称号も得ていたが、言ってしまえば片田舎の一音楽家に過ぎなかったのである。


「《ヴェネツィアの市》の主題を用いた変奏曲を作曲したそうだ」


「ええ、聞きました。あれは素晴らしい変奏曲です。陛下は彼をお召しになるのですか?」


 自分の曲を使って変奏曲を作曲した彼に、サリエーリは悪い印象などは持っていなかった。神童と呼ばれ、かつて女帝マリーア・テレージアに手厚くもてなされた事も知っている。あの天才と腕を競い合えれば……とも思うが、宮廷の音楽家を選ぶのはヨーゼフ二世自身であるし、現在のサリエーリは師の体調が気がかりであまり余裕がなかった。


「……母は慈悲深く彼等をもてなすだろう。だが、それだけだ」


 モーツァルト父子はマリーア・テレージアに好意を持って歓迎された。しかし、それ以上の成果は何も得られなかったのであった。


 その裏には、モーツァルト父子に対するハプスブルク家の冷たい目線がある。ヴォルフガングは幼い頃から父に連れられてヨーロッパ中の宮廷を訪問して回っていた。その事は決して悪い事ではなく、神童モーツァルトの名声を高めるのだが、なんとも巡り合わせが悪かったようだ。

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