ヴォルフガングは間違いなく天才だった。だが、世に天才は数あれど幼い頃から頭角を現し『神童』と呼ばれる者は多くはない。
何故なら、神童を神童たらしめるのは本人ではなく親の努力によるものだからである。
彼の父、レーオポルトはザルツブルクの宮廷音楽家だった。彼は音楽家の家庭出身ではなく、自身の才能と努力の末にその地位を手にいれた努力家である。
そのレーオポルトは息子のヴォルフガングが稀代の天才であることを確信すると、息子の天才ぶりを披露する旅に出る事を決めた。わずか六歳のヴォルフガングを連れて、広くヨーロッパ全域を回り、当時の主要な宮廷はほとんど訪問した。
幼い子供が遠路はるばるやってきて、見事な演奏をするのだ。歓迎しない宮廷はなかった。
モーツァルト父子は、まず南ドイツのミュンヘンを訪れた。その次は帝国の首都ヴィーンだ。ヴォルフガングは六歳の時に初めてヴィーンを訪れ、皇帝フランツ一世と帝妃マリーア・テレージアの前で演奏を披露した。この二日後にはハプスブルク家の皇子用にあつらえられた大礼服を贈られ、一〇〇ドゥカートという褒美を支払われた。これはレーオポルトの宮廷音楽家としての年俸の倍近い金額だった。
これほどの歓待を受けた地で、何故大人になったヴォルフガングは受け入れられなかったのか。
それは、もはや彼が『神童』ではなくなった事だけが理由ではない。
モーツァルト父子は、この後も各地を旅して回り、ヴォルフガングが一四歳になるとついにお披露目の旅行を終え、今度は満足のいく就職口を探して回るようになった。
ヴォルフガングは一三歳にしてザルツブルクの宮廷音楽家のコンツェルトマイスターという称号が与えられた。だがこれは称号だけで、無給の音楽家だったのだ。
ミラーノまたはフィレンツェで、ハプスブルク家直系の大公から才能に見合う地位を得られればと、オペラの作曲と演奏もしながら働きかけをする父子。
事実、ミラーノのロンバルディア大公フェルディナントは、彼の登用を真剣に考えていた。
しかし、そこに母マリーア・テレージアから手紙が。
『あなたは若いザルツブルク人を自分のために雇おうとしていますね。私には理解できません。(中略)乞食のように世の中を渡り歩いているような人たちは、奉公人たちに悪影響をおよぼすことになります。それに彼は大家族でしょう』
このような手紙を受け取ったフェルディナント大公がヴォルフガングを登用する事は当然なくなった。女帝の意向を無視するわけにはいかないのだ。彼女はモーツァルトを大家族と言ったが、実際には四人家族だ。もしかしたら何か勘違いをしていたのかもしれない。ともあれ、当時の宮廷音楽家には年俸の他に薪などの生活物資が支給されていたので、家族が多いと雇う側の負担も増えるのだ。
マリーア・テレージアは前述のようにモーツァルト父子を手厚くもてなした人物だ。だが、この時は事情が違った。
ハプスブルク家は当時、経済的に困難な状況にあった。先帝カール六世の成人した子供はマリーア・テレージア一人のみで、女性に継承権はなかった。だがカール六世は自分の子に後を継がせたい。その結果としてマリーア・テレージアとその夫フランツ一世の共同統治という形になったのだが、フランツ一世は小国ロートリンゲン出身。
バイエルンは継承権を主張し、フランスやプロイセンは領土をもぎ取って行こうとした。マリーア・テレージアは一六人もの子供を産み育てながら、これら列強との戦いを勝ち抜いてきたのだ。
そんな中で一七六五年、最愛の夫フランツ一世がこの世を去ると、マリーア・テレージアは一切の娯楽から身を引いたのだった。
モーツァルト父子がイタリアで勤め口を探したのは一七七一年である。
ミラーノで就職に失敗した裏にこのような事情があったとは露知らず、モーツァルト父子は一七七三年七月にヴィーンへとやってきたのだ。
「サリエーリさん、はじめまして! 僕はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトです。よろしくお願いします」
宮廷楽長ガスマンの弟子として有名なサリエーリとも、モーツァルト父子はコネを作ろうと接触してきた。サリエーリはヴォルフガングの才能を称賛するが、彼にもその師にも就職の口利きをする権限はない。ヴィーンの宮廷はヨーゼフ二世が自ら選んだ音楽家だけを登用するのだ。
「君ほどの才能の持ち主ならば、陛下はきっと気に入るはずだ」
サリエーリは、ヨーゼフ二世が当然彼の事を気に入ると思っていた。もちろんミラーノの顛末など知るよしもない。
「よくいらっしゃいましたね、ヴォルフガング」
女帝マリーア・テレージアは彼等に会い、好意的に接した。だが、それで終わりだった。就職もできず褒美もなければ引き出物もなく、モーツァルト父子は失意のまま帰国するのだった。
「何故モーツァルトはあのような扱いを受けたのだろうか」
疑問に思うが、皇帝の意向に物申す事はできない。それにこの時のサリエーリはそこまでモーツァルトに入れ込んでいたわけでもなかった。
「それにしても、先生の怪我は大丈夫だろうか?」
彼の頭の中は、恩師の健康を気遣う気持ちに埋め尽くされていたのである。