一七七三年も暮れようとしていた。ガスマンの病状は一向に良くならず、むしろ重症化していた。本人も既に死を覚悟し、サリエーリに身重の妻と娘を託す。
「アントーニオ、お前は本当に立派になったな。願わくば、私の死後遺された妻と子に良くしてやって欲しい」
「先生……ご心配なく。私が責任を持って彼女たちに不自由な思いはさせません」
サリエーリもガスマンの先が長くない事を理解していたのだ。
一七七四年一月二一日、ガスマンは息を引き取った。
後にサリエーリは約束した通りに未亡人を慰め、ガスマンの二人の娘|(妹はガスマンの死後生まれる)に音楽教育を施す事になる。
かくして物語は冒頭に戻る。宮廷室内作曲家兼イタリア・オペラ指揮者となったサリエーリは、恩師の死を悲しむ暇もなく多忙な日々を過ごしていた。
ガスマンの後を引き継いで宮廷楽長になったボンノが、同時に副会長の役目を引き継いだ音楽家協会で、同年三月に行われた慈善演奏会において、彼の作曲する
「関係ないのに、まるで先生の死を喜んでいるように聞こえる。どうやら私もまだ気持ちの整理が出来ていないようだ」
サリエーリはガスマンの後任であるボンノとはあまり親しくなれなかった。決して不仲というわけではなかったが、仕事上の付き合い以上の関わりを持つことはなかったのだ。
彼はさまざまな気持ちを振り払うように新作オペラの作曲に取りかかる。
「音楽は素晴らしいが、ドラマが幼稚だ」
一七七四年一〇月一一日。ケルントナートーア劇場で初演されたオペラは、このような評価だった。多くの人間が手を加えた台本は、それでも秀逸なものにはならなかったのだが、サリエーリの曲はなんとか評価される。
しかし、この時のサリエーリはそれどころではなかった。彼は初演の前日、一〇月一〇日に結婚していたのだ。
相手はマリーア・テレージア・ヘルファーシュトルファー。彼女はヴィーンの女子修道院で生活していた時に、その修道院の音楽室で弟子の伯爵夫人にレッスンをするサリエーリと出会った。
実はサリエーリが彼女に求婚したのはガスマンが亡くなる直前であった。師が病床にある時に求婚したのには、先の長くないガスマンが生きているうちに……という気持ちも少なからずあったのだが、間に合わなかった。
彼女がサリエーリに父を紹介するのに八日の猶予を求め、それを待つ間にガスマンと、更にテレージアの父カール・ヤーコプ・ヘルファーシュトルファーも急死してしまう。一月二四日の事である。
その後テレージアを引き取った後見人がサリエーリの収入が少ない事を理由に結婚を認めなかったのだが、それを知ったヨーゼフ二世が、楽長ボンノの補佐を務める事を条件に年俸を上げてくれたおかげで、結婚が認められたのだった。
彼女の後見人となったレーオポルト・ホフマンはサリエーリの確実な収入として宮廷室内作曲家の年俸一〇〇ドゥカートしか認めず、収入が少ないとしてサリエーリの求婚を拒絶した。
その二日後、宮廷室内楽演奏会に向かった時、ヨーゼフ二世が控えの間で背を向けて考え事をしている様子だったので黙って知人に近寄ると、その内の一人が彼を冷やかすような仕草をしたのだ。すると背を向けていたはずのヨーゼフ二世が振り返り、尋ねてきた。
「今の仕草はどのような意味であるか?」
知人が事情を説明し、それを聞いた皇帝から本当かと尋ねられたサリエーリはこれまで秘密にしてきた事を詫びながら事情を話した。
「そうか。それでは我慢せねばなるまいな」
皇帝はそう言って話が終わり、演奏会が普段通り執り行われた。
だが翌朝、サリエーリは宮廷顧問官に呼び出され、楽長ボンノの補佐をする事を条件に年俸を三倍の三〇〇ドゥカートに増額したと告げられたのだった。
その後、サリエーリはいくつかのオペラを作曲するが、数年に渡って不遇の時期が続く。これまでの数多くの幸運を考えれば、それでも彼は恵まれた立場ではあったが、ヨーゼフ二世の劇場改革によってイタリア・オペラの舞台が閉ざされ、ジングシュピール|(ドイツ語の歌劇)が推し進められた事もあり、ドイツ語の苦手な彼は自信を失いかけていたのだった。
そんな彼に、音楽家協会からオラトリオ|(演技や舞台装置を用いない宗教楽曲)の作曲依頼があった。サリエーリはメタスタージオの《イエス・キリストの受難》を台本に選び、オペラ形式で作曲する。
一七七七年一二月一八日及び二一日にサリエーリの指揮で行い、彼の愛弟子カタリーナ・カヴァリエーリも独唱を務めた。
「この台本で書かれた、最も表現豊かな音楽です」
メタスタージオは、臨席したヨーゼフ二世に語る。彼もヴィーンの現状やサリエーリの苦境に思うところがあり、この機会にサリエーリの音楽を褒める事でさりげなくヨーゼフ二世の姿勢へ苦言を呈したのだった。
さて、サリエーリの愛弟子であるカヴァリエーリはヨーゼフ二世の劇場改革で新たに幕を開けたドイツ国民劇場の最初のオペラ《坑夫たち》でゾフィー役を演じて成功し、スター歌手となる。
その成功を見届けたサリエーリは、イタリアのミラーノで新大公宮廷劇場の開場記念オペラを作曲するために一年間の休暇を得てヴィーンを後にした。
この機会に目をつけたのがヴォルフガングの父、レーオポルトだった。ドイツ国民劇場で演じられるジングシュピールをヴォルフガングが作曲すれば、間違いなくヨーゼフ二世に気に入られ、サリエーリにとってかわる地位が得られるだろう、と。
しかし、ヴィーンからレーオポルトに届いた手紙は、彼の期待を打ち砕き、息子をパリへ向かわせる事になったのだった。