『確実な事は、目下のところ、特別に迎えられた作曲家は一人もありませんが、それというのも、まさにグルックとサリエーリが皇帝にお仕えしているためであります。主君に誰かを紹介するのに、紹介する人を持ち出す手立てがございません。
主君に参上する仲介をしてくれる者もおりません。主君は万事ご自身のお考え、ご自身のお好みでご指図なされ、お選びになられるからです。みんなこの事を心得ており、誰も提案申し上げたり、推薦申し上げたりは敢えてなさいません』
これは一七七八年一月二三日にフランツ・エードラー・フォン・ホイフェルトがレーオポルト・モーツァルトに宛てた手紙に書かれた内容だ。彼は友人のレーオポルトからヴォルフガングがヴィーンのドイツ国民劇場でジングシュピールの
「くそっ、あのイタリア人め。どこまで邪魔をすれば気が済むんだ!」
レーオポルトは前回のヴィーンで何の成果も得られなかった事を踏まえ、サリエーリが妨害していると認識してしまう。彼はザルツブルグという片田舎の万年副楽長で、楽長になれない恨み言を息子に吐き出すような人物だった。首都ヴィーンで華やかな成功を収め、権力を持つ作曲家を敵視していたのだ。彼のこの思想が息子に多大な悪影響を及ぼす事になる。
さて、ヨーゼフ二世は自分で音楽家を選ぶ。それは事実なのだが、この時グルックはパリで活動していて、サリエーリはドイツ国民劇場に関わっていない。創立記念のオペラ《坑夫たち》を作曲したのは作曲経験のほとんどない宮廷楽団のヴィオラ奏者イグナーツ・ウムラウフだった。
要するに、ホイフェルトはグルックとサリエーリを自分の不義理の言い訳に利用したのだ。
もしこの時、彼が慣例を破って請願書を出していたら。あるいはそこまでしなくとも「ヨーゼフ二世はドイツ語オペラの作曲者を探している」とレーオポルトに返していたら。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはアントーニオ・サリエーリの代わりにヴィーンの宮廷楽長にまでのぼりつめていたかもしれない。
この手紙で息子をパリに行かせる事に決めたレーオポルトは、当時マンハイムで若い女性達と仲良くしてグズグズと滞在日数を伸ばしていたヴォルフガングを急かすのである。この時レーオポルトはザルツブルグから離れる事が出来ず、息子についていたのは母のマリーア・アンナであった。
一七七八年三月二三日、ヴォルフガングは母と共にパリに到着する。その手には父から送られた、以前パリで知り合った有力者たちのリスト。
しかし、かつてヴォルフガングの神童ぶりを王侯貴族に触れまわってくれたフリードリヒ・メルヒオール・フォン・グリムはどこかよそよそしかった。
「なんでグリム男爵はあんなに冷たいんだろう? ああ、やっぱりアロイージアと一緒にイタリアに行けばよかった」
ヴォルフガングはマンハイムで仲良くなった若い歌手を想う。彼はアロイージア・ヴェーバーに惚れこみ、この後も彼女のための曲を何曲も作る事になるほどだ。そして彼女を歌手として劇場に推薦するために一緒に旅行しようと企てていたのだった。
そんな彼を急かした父の言い分はこうだ。
「成功を手に入れたらヴェーバー嬢を劇場に推薦するのは容易い」
まったくその通りだが、あくまでも成功を手に入れられればの話である。
パリは非常に厳しい状況にあった。享楽的なルイ十五世が亡くなり、錠前作りが唯一の趣味というルイ十六世が王になっていた。パリの音楽界は互いの足を引っ張り合う陰謀渦巻く世界であり、彼が作曲した曲も一部しか演奏されずに終わる。
苦しい状況だが、それでもまた書いた交響曲第三一番ニ
だが、運命は残酷である。
彼の母は六月一〇日に気分を悪くして医者にかかり、そこから病床についていた。当時一般的であった『
『パリの医者は瀉血で大勢の人をあの世に送っている』
以前パリを訪れた時に宿を提供してくれたヴァン・アイク伯爵夫人は風邪で医者の瀉血を受け、命を失っていた。その当時に父レーオポルトは手紙でこのように語っていたのだ。レーオポルトは恩人と妻を共にこの危険な治療で失ってしまったのだった。
「お金を貸そう。君は早くこのパリを去るべきだ」
グリムはそう語り、モーツァルトを帰らせる。その裏で彼はレーオポルトに手紙で説明していた。
「彼はあまりに無邪気で、あまりにだまされやすい。パリではとても成功できないでしょう」
事実、モーツァルトは当時音楽界では当然のように交わされていた陰謀の数々を嫌い、ただ良い曲を書けば成功するに違いないと信じていた。清廉な人物であったサリエーリですら、この陰謀を上手く利用する術を身につけていたのに、である。モーツァルトはそれ故に当初サリエーリの行いを批判してしまう。特にサリエーリを敵視する父に向けた手紙では彼の事を悪く言うのが常だった。
そしてこの親子の間でやり取りされた手紙が、後年サリエーリが陰謀でモーツァルトを陥れたと判断される根拠となるのである。
――実際には非常に良くしてもらい、モーツァルト自身もすぐにサリエーリを慕うようになっていたのだが。