煙突掃除人ヴォルピーノはいい加減なドイツ語しか話せないイタリア人。女料理人のリゼルに恋した彼は、お金が欲しい。彼は、自分を侯爵と偽ってリゼルの主人ハービヒト夫人とその義理の姉ナンネッテに近づき、自分は間もなく裁判に勝って大金が手に入ると言う。彼女たちが自分と結婚したがれば、その恋人の貴族たちが困る。そこで手切れ金を要求しようと考えたのだ。
ヴォルピーノの企みは上手くいかず、女性たちは恋人と仲直りするというのが《煙突掃除人》の内容である。
いい加減なドイツ語しか話せないイタリア人。それはまさにサリエーリである。作中で彼はしばしば間違ったドイツ語を話し、イタリア語の二つのアリアを歌った。自分にはドイツ語は無理だと言わんばかりだ。
そんなジングシュピールの台本を書いたのはサリエーリの結婚立会人をした内科医のヨーゼフ・レーオポルト・アウエンブルッガーで、台本作家ではない彼が書いたという事は、ローゼンベルク伯爵が依頼して用意した台本ではないわけだ。
ドイツ語が苦手なサリエーリは、信頼できるアウエンブルッガーに頼んだのである。プロの作品である必要がない事は《やきもち焼きの学校》で証明している。そこは彼の我がままを通した形だった。
ヨーゼフ二世への当てつけのようなこの作品だが、作曲している間にまたもや大事件が起こる。一七八〇年一一月二九日に女帝マリーア・テレージアが亡くなったのだ。
彼女の死を悼み、国中が喪に服したので、サリエーリの新作ジングシュピールは翌年一七八一年四月三〇日にドイツ国民劇場ではなく、ブルク劇場で初演された。彼の愛弟子カヴァリエーリはこの時にナンネッテ役を演じる。
これは大した成功もしなかったが、サリエーリにやる気が無いのだから当然とも言える。この後も彼はドイツ語の喜歌劇を作曲する気はなく、また他国からの委嘱によるオペラの作曲を行う。彼自身もドイツ語の曲を作りたくなかったのだが、この時代のヴィーン大衆もまた、イタリア・オペラを好んでいたのだ。ヨーゼフ二世がいくら新しい風を吹かせようとしても、人の好みはそう簡単に変わらない。最初は目新しさから喜ばれたドイツ語のオペラ、ジングシュピールも、その後しばらく成功作を生み出す事が出来ずにいたのだった。
さてこの時期にザルツブルグの大司教ヒエローニュムス・コロレードがヴィーンにやって来ていた。ヴィーンに到着したのは一月で、彼の命により、三月一六日にモーツァルトもヴィーンにやってきた。彼はコロレードの父の館で開かれた音楽会での演奏職務によって、ヨーゼフ二世臨席の別の音楽会に出る事がかなわなかった。宮仕えの辛いところである。
だが、モーツァルトはそれが辛抱ならなかった。どうにかしてヴィーンで自分の才能を発揮したいと考えるモーツァルトはまた勤め口を探す。一月二九日にミュンヒェンで初演されたオペラ・セーリア《クレータの王イドメネーオ》が成功したことで作曲家としての自信を取り戻していた事も彼の暴走を後押しする。
『(ヴィーンに留まりたいと思っている事について)だって、当地で弟子が二人でもいれば、家にいるよりは実際いいからです。(中略)そして、これを、彼、人間の敵|(コロレード大司教の事)が許してくれないのです。(中略)ボンノが死ねば、サリエーリが楽長です。――それにサリエーリの代わりには、――シュタルツァーが跡を継ぐ事でしょう。シュタルツァーの代わりには――まだ誰なのかわかりません。――もう沢山です。――あなたにすっかりおまかせします、最愛のお父さん!(中略)ボンノのところではみんながあなたによろしくと言っています。僕に再会してほんとに喜んでいました。彼は信頼できる立派な人物です』
これは一七八一年四月一一日にモーツァルトが父に宛てた手紙からの抜粋である。この中で彼は『最愛のお父さん』という言葉を使っているのだが、実はヴィーンにおいて彼がこの言葉で呼びかけた人物がいた。
――アントーニオ・サリエーリである。