「ジングシュピール……イタリア人のサリエーリが? これなら僕の方がよっぽどいい作品を作れるよ」
前述の通り、サリエーリの作曲した初のジングシュピールはそれほどの成功を収めていない。モーツァルトは、自分ならイタリア人の彼よりいいものが作れると確信していた。何とか皇帝ヨーゼフ二世に自分の事をアピールしたいと思う。
そしてサリエーリもモーツァルトにジングシュピールを任せたい。二人の思惑は期せずして一致したわけだが、その二人の目論見も上手くいかない。サリエーリは皇帝が臨席する音楽会にモーツァルトを参加させ、さり気なく皇帝に彼の存在を思い出させたいと思っていた。
「今度ヨーゼフ二世が臨席する音楽会があるんだ。参加しないか?」
「是非とも参加させて下さい!」
これもまた素晴らしい機会なので特に考えずに返事をするモーツァルトだったのだが、コロレードが許さなかった。
「私の父の館で開かれる音楽会で演奏するのにそんなものに参加できるわけがないだろう」
これも当然である。だがモーツァルトは我慢ならなかった。
「もう嫌です。僕をコンツェルトマイスターの任から解いてください」
自ら解任を申し出るモーツァルトだが、目の前に任務が迫っているのに急に外す事などできない。
「そんなワガママが通用すると思っているのか、このろくでなしのガキめ!」
罵倒され、願いも叶わず。惨めな思いでヴェーバー家に向かうモーツァルトだった。
「モーツァルトは来れないのか」
一方サリエーリも期待していた皇帝とモーツァルトの関りが作れず、もやもやとした気持ちで自分の仕事をしていた。
「陛下、最近ヴィーンに滞在しているザルツブルグの作曲家の話を聞かれましたか?」
あくまで何事も決めるのはヨーゼフ二世だ。だが、世間話として彼の名を出す事は問題ない。
「うむ、モーツァルトの事か。なかなか良い曲を作るが、大司教と上手くいっておらぬそうだな。宮仕えには向かぬ」
「作曲の才能と宮仕えの能力は別という事でしょうね」
モーツァルトが大司教を怒らせているのは事実なので、サリエーリは変にかばいだてはせず、作曲の才能に的を絞ってアピールした。
「そちの見立てはどうだ?」
「人間的には未熟。よく言えば純粋、悪く言えば夢想家。感情の抑制もきかず、おおよそ誰かの下につくのには向いていません。ですが、彼の楽譜は今まで私が見たどんな楽譜よりも美しいものでした」
率直に言う。決して嘘偽りを口にはしない。サリエーリは自分の発言に責任が伴う事をよく知っていた。だから、心にもない事は言わなかった。
「……そして、ドイツ語が堪能です」
「そちはそれが言いたかっただけであろう」
最後に付け加えた言葉を聞いた皇帝は、笑顔でサリエーリをからかうのだった。
「お前はただちにザルツブルグに戻るのだ」
コロレードはモーツァルトに宮廷へ帰還するよう指示した。だが、モーツァルトは言う事を聞かない。ヴェーバー夫人の営む下宿屋に住み込むと、ザルツブルグには彼に関して悪い噂が届く。
――ヴェーバー夫人は大酒のみで、世間知らずのヴォルフガングは彼女にそそのかされてヴィーンに残っているのだ。
このような噂により、モーツァルトの父レーオポルトはヴェーバー夫人の陰謀によって息子がヴィーンから離れられなくなっていると思い込む。つくづく、思い込みの激しい陰謀論の好きな人物である。
六月には、コロレード大司教の執事長アルコ伯爵に尻を蹴飛ばされて解雇を言い渡されるのであった。
「ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵のところへ行ってごらん」
完全な無職となったモーツァルトに、サリエーリが助言をする。ガスマンと共に音楽協会の設立に尽力した、音楽に造詣の深いスヴィーテン男爵に、協会で会った時に話を通していたのだ。モーツァルトはスヴィーテン男爵に気に入られ、パトロンになってもらう事になった。
「経済顧問官アウエルンハンマーの令嬢が弟子にしてくれる作曲家を探しているらしいな」
モーツァルトが父への手紙で語っていた『弟子を取る』事も実現し、上流階級の弟子を増やしていく道を作るのにも、サリエーリは尽力した。だが、この行動はモーツァルトの目には『こそこそと裏でたくらみ事をしている』と映る。
「サリエーリは、ああいう汚い陰謀をしていなければとてもいい人なのに」
自分のために手を尽くしてくれているとは思わず、こんな事を口走ってしまう。
「そんな事を誰かに言ってはダメよ。ヴィーンでは彼はみんなから尊敬を集めているのだから」
この頃はヴェーバー夫人の三女コンスタンツェが、モーツァルトの話し相手になっていた。そんな関係もヴィーンのみならずザルツブルグにまで届く噂になる。
「コンスタンツェと仲が良いらしいな。ここヴィーンでは未婚の男女が仲良くしていたら、それはすなわち結婚を前提として付き合っているとみなされるぞ」
ある日、訪ねてきたサリエーリがモーツァルトにこんな忠告をした。
「ええ? コンスタンツェは優しくしてくれるけど、付き合っているわけじゃないのになあ。それで、今日はどういったご用件ですか?」
女性と仲良くする事に抵抗のないモーツァルトは、ヴィーンのこういった空気にはなじめない様子だ。そんな彼に、サリエーリは一通の手紙を渡した。
「陛下が君に依頼したい事があるそうだ。それを見るといい」
そう言い残して、彼は下宿屋を出る。その口元には抑えきれない笑みを浮かべて。
一七八一年七月三〇日、モーツァルトはヨーゼフ二世の依頼でジングシュピール《後宮からの誘拐》の作曲を始めるのだった。