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モーツァルトの婚約

 モーツァルトのジングシュピールが完成するのは一年ちかく後の事になるが、その間に彼とサリエーリの周りには多くの事件があった。


 まず、サリエーリが警告した通りにモーツァルトとコンスタンツェの仲が問題になる。《後宮からの誘拐》を作曲し始める直前の七月二五日、モーツァルトはこんな言葉を手紙に書いている。


『彼女に冗談をいったり、からかったりしますが、それだけですよ。私が冗談を言った全部の女性と結婚せねばならないとすると、少なくとも二〇〇人の妻を持つことになっちゃいます』


 だが、この後も二人の関係についての噂は広がるばかり。この噂を流しているのは、他ならぬコンスタンツェの母、ヴェーバー夫人なのだった。


「稼ぎ頭のアロイージアが結婚して出ていってしまったから、皇帝陛下から曲を依頼されるような作曲家に娘と結婚してもらいたいわ」


 アロイージアは歌手として成功していたが、宮廷俳優で画家のヨーゼフ・ランゲと強引に結婚し、家を出ていってしまった。仕送りをするとは言うが、ヴェーバー家としては収入的に不安がある。ヴェーバー夫人は夫フリーデマンが亡くなった後に子供たちの後見人となった男性(詳細不明)と共謀してコンスタンツェとモーツァルトを結婚させようと企んでいたのだ。


 それとほぼ同時に、モーツァルトは別の女性から求愛されて辟易へきえきする。弟子であるアウエルンハンマーの令嬢が、彼に熱を上げていたのだ。毎日二時間のレッスンでは満足できず、もっと一緒にいて欲しいと願う。


『(前略)そうしたら彼女は僕の手を取って、<モーツァルトさん、お気を悪くなさらないで、何でも仰って下さいな。私は本当にあなたが好きなんです>と言うんです。町では、僕たちは結婚するとまで言われています。しかも僕がどうして、あんな面相の人を選んだか不思議だ、などとも言われているんですよ』


 同年八月二二日の手紙でモーツァルトが語った内容だ。彼はアウエルンハンマー嬢の容姿について「画家が悪魔の絵を描きたいなら彼女の肖像画を描けばいい」とまで言ってこき下ろしている。


 余談だが、貴族の令嬢というと一般的に美女のイメージがある。これはあながち間違いでもなくて、貴族は金と権力があるので伴侶には見目麗しい異性を選ぶことが多く、その子女は高確率で美形になるのだ。それを数世代繰り返せば、一族皆美男美女という寸法である。とはいえ、貴族にも様々な種類があるのだ。例えば皇帝の家系であるハプスブルク家の場合は、親戚同士での婚姻を繰り返したために血が濃くなりすぎて様々な問題が発生するなどした。


 閑話休題。そんな噂も立っていたので、ヴェーバー夫人と後見人は焦って二人をくっつけようとする。コンスタンツェとも共謀し、モーツァルトの前で一芝居打つ事にしたのだ。


 後見人はモーツァルトの部屋に押し入り、コンスタンツェを傷物にしたとして「結婚か、さもなくば三〇〇フローリン支払え」と言って結婚契約書にサインを迫った。

(※フローリン銀貨はヴィーンの標準通貨。一フローリンはクロイツァー銅貨六〇枚分の価値。四・五フローリンで一ドゥカート金貨。後にモーツァルトがヨーゼフ二世からジングシュピール成功の報酬として支払われたのは一〇〇ドゥカート、つまり四五〇フローリン)


 婚前交渉をした覚えはないが、そんな大金は払えないので観念したモーツァルトは結婚契約書にサインをしてコンスタンツェのところに持っていき、見せる。と、彼女はその契約書を破ってしまった。


「ねえ、モーツァルト。あなたから契約の書類なんかもらう必要ないわ。約束を信じてよ」


 既に優しく接してくれていた彼女に好意を抱いていた『無邪気で、だまされやすい』モーツァルトは、この一件で彼女の事を愛するようになるのだった。




「……経緯はどうあれ、伴侶となる女性を決めたのなら、もう女にうつつを抜かすのはやめて作曲に集中したらどうだ?」


 成り行きを耳にしたサリエーリが、半ば呆れたようにモーツァルトをたしなめる。


「そんな事言って、サリエーリさんは美人の公女様と仲良くレッスンするんでしょう!」


 この頃、ヴュルテンベルク公女エリーザベト・ヴィルヘルミーネ・ルイーゼがモーツァルトから音楽を学ぼうとしていた。公女を弟子に持てば、社会的な立場は相当良くなるという事で、結婚に反対する父レーオポルトを納得させるためにこれを利用しようとしていたのだが、ヨーゼフ二世が横槍を入れた。


「公女には最高の教育を施すべきであろう。サリエーリが教えるのだ」


 声楽の教育者として最も優れた能力を持つサリエーリを公女の教育に推すのは当然ではあったが、これはモーツァルトにとってもサリエーリにとっても好ましくない横槍だった。


「仕方がないだろう、陛下のご意向なのだから。私だってわざわざヴィーデンのサレジオ修道院まで通いたくはない」


 既に地位が確立されているサリエーリにとって、年四〇〇フローリンの報酬で公女が住む修道院に週三回のレッスンをしに通うのは負担でしかなかった。


「でもヴュルテンベルク公女は美しいじゃないですか、アウエルンハンマーなんて悪魔のような見た目ですよ! あんなのに言い寄られる僕の気持ちを考えてください!」


「知るか、そんなこと」


「もういいです。お父さんへの手紙には皇帝がサリエーリさんをひいきして公女をかっさらったって書きますからね! 『皇帝は僕の面目をまるつぶれにしました。サリエーリにしか関心がないのです』っと」


 モーツァルトは父への手紙に言い訳を書いて送るのだった。この手紙は一二月一五日付けで、同じ日付の手紙で自分がコンスタンツェを愛するに至り、結婚を望んでいると伝えるのである。


「……まあ、君のお父上がそれで満足するなら少しぐらい私を悪者にしてもいいさ。それより、作曲に必要なものがあったら私に言いなさい。可能な限り手配するから」


「ありがとうございます! へへっ、サリエーリさんの方がよっぽど僕のお父さんみたいだ。お父さんって呼んでいい?」


「まったく、調子のいい奴だ」


 呆れつつも、モーツァルトが元気になった事に満足するサリエーリ。数日後、サレジオ修道院に向かい、公女ルイーゼにレッスンを行った。


「ねえ、サリエーリ。もうちょっとお話したいわ。いいでしょ?」


「ええ、もちろんでございます」


 終わりの時間が来ても気まぐれにサリエーリを引き留める公女に、逆らえる者などいない。この公女は後に皇帝となるフランツ大公と結婚する事が決まっている。その為にこの修道院で勤めを果たしているのだ。つまり彼女は未来の皇妃である。


(こんな事で時間を無駄にしている場合ではないのだが……陛下に彼を紹介しないと)


 サリエーリは、皇帝に紹介したいと思っている、ある人物の事を考えていた。その人物とは、司祭にして劇作家のダ・ポンテである。

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