《やきもち焼きの学校》の台本を書いたヴェネツィアの学校教師マッツォーラは、ドレスデンで宮廷詩人となっていた。大ヒットオペラの台本作家がいつまでもアマチュアのままでいるはずもない。
そんな彼を訪ねる者があった。ヴェネツィアで知り合った司祭ロレンツォ・ダ・ポンテだ。元の名前はエマヌエーレ・コネリアーノだが、キリスト教の洗礼を受けた時に改名した。司祭でありながら放蕩者だったダ・ポンテは、一七七九年にヴェネツィアを追放されており、面識のある宮廷詩人を頼って作家としての技術を学ぶのだった。
ダ・ポンテがヴィーンにたどり着いたのは八一年の末である。高名な作曲家であるサリエーリがマッツォーラと親しくしていたので、紹介状を持って会いに行ったのだ。ダ・ポンテは後に『回想録』でこう語る。
『サリエーリは当時最も有名な作曲家の一人で皇帝の寵愛をうけ、(中略)楽長でありながら文人たちの最高の理解者であった』
この時点ではサリエーリは宮廷楽長にはなっていない。ダ・ポンテが恩人であるサリエーリについていくらか誇張したとも考えられるが、当時の認識では既に彼が高齢のボンノの代わりにヴィーン音楽界の頂点に立っていた状態だったとも言える。
ダ・ポンテはイタリアのヴェネト地方チェネダでユダヤの家系に生まれたイタリア人だ。同じイタリア人のサリエーリとは相性がいい。
ヴィーンに到着すると、ダ・ポンテはその足ですぐにサリエーリの家を訪ねた。
「初めまして、サリエーリさん。私はロレンツォ・ダ・ポンテと申します。マッツォーラの紹介でやってきました」
「やあ、初めまして。マッツォーラは元気かい?」
サリエーリはこの司祭の資格を持つ詩人を気に入る。親友の紹介ということもあったが、サリエーリ自身がダ・ポンテの才能を高く評価したのだ。この詩人は前述の通り放蕩生活をしてヴェネツィアを追放された男だ。そんな人物でも才能を見出せば厚遇するのも彼の特徴である。
だが、サリエーリはダ・ポンテをヨーゼフ二世に紹介したいと思いながらも、なかなかそのチャンスが得られずにいた。
新たに公女の教育を任命された事もあるが、彼はメタスタージオ原作の新たなオペラ《セミラーミデ》の初演を控えていたのだ。これは以前ナポリで作曲を依頼されたものの休暇を取れずにお流れになってしまった作品だ。今度はミュンヒェンで初演となる。モーツァルトが
一七八二年一月、《セミラーミデ》は初演され、成功を収める。ナポリで一度依頼された事もあり、研究が進んでいたのも幸いした。
「ミュンヒェンでも成功したようだな」
ヨーゼフ二世はドイツ語のジングシュピールを推進していたが、個人的にはイタリア・オペラが好きだった。特にサリエーリが作曲したオペラは現地から楽譜を送らせ、帰ってきたサリエーリと共にその楽曲を弾いて楽しむのが常だったのである。部屋に呼ばれたサリエーリは、ヨーゼフ二世にダ・ポンテの事を話した。
「陛下、やはり私にはイタリア語の台本が向いています。《やきもち焼きの学校》を書いたマッツォーラの弟子という詩人が私を訪ねてきましたが、私は彼の書く詩が気に入りました」
繰り返しになるが、登用はヨーゼフ二世の独断によって行われ、これまでは皇帝に誰かを紹介する者はいなかった。だが、サリエーリは皇帝の寵愛を受けて発言力が増しており、モーツァルトの件も経て人物の推薦を行う事が可能になっていた。とはいえ、すぐにダ・ポンテの謁見が許されたわけではない。
「うむ……」
ヨーゼフ二世は考え込む。モーツァルトに依頼した《後宮からの誘拐》はもうすぐ完成するようだ。せめて一つはオリジナルのジングシュピールが成功するのを見たい。新たな劇場を作ってまで自分が推し進めてきた活動が失敗だったと認めるのは忍びないのだった。
サリエーリもこれ以上の無理は言えない。後は皇帝の心次第として、自分の職務に専念するのだった。
「リーバー・パパ(愛するお父さん)! ヴォルフガングが来たよ!」
(本当に呼ぶのか……)
モーツァルトはしばしば、サリエーリが管理する宮廷の書庫に保管されている、過去の楽譜を見せてもらいにやってきた。そんな時にサリエーリの事をこう呼んだと、サリエーリの弟子は語る。
「ジングシュピールは完成しそうか?」
「うん、もうほとんど出来てるよ!」
笑顔で答えるモーツァルトの表情には、確かな自信が見て取れた。
(モーツァルトのジングシュピールは成功するだろう。そうなったら、陛下はどういうご判断を下されるのか)
ダ・ポンテに会って欲しい。そうすればヨーゼフ二世はきっと彼を気に入るはずだ、と考えるサリエーリ。
そんな折の、四月一二日。サリエーリの師の一人である偉大な詩人メタスタージオが、ヴィーンにて八四歳でこの世を去るのだった。