サリエーリのフランス・オペラ作曲は簡単なものではなかったが、一から学んで作っているわりには順調に進行していた。
作曲面では問題がなかったが、政治的な問題が彼とグルックの前に立ち塞がっている。そもそもパリはグルックの新作を求めているのだ。二人の共作という建前を保持してなんとか凌いでいるが、やはりパリはグルックに疑いの目を向ける。
「本当に最初の二幕はグルックのものなのか? 彼は我々を騙そうとしているのではないか?」
幾度となく会議で交わされる疑問の言葉。オペラ座理事会はこの大事業を何としても成功させたいので、慎重になっていた。事実、グルックは彼等の疑う通りに騙しているのだから、彼等には何の非もないと言える。
グルックは一七八三年一月にまたパリへ書簡を送る。
『私は健康上の理由でパリに行けないかもしれません。その場合、弟子のサリエーリが《ダナオスの娘たち》の楽譜を持ってそちらに向かいます。代わりに報酬は一二〇〇〇フラン(当時のフランスの通貨。価値が一定ではないが約二五〇〇フローリンに相当すると思われる。サリエーリのイタリア・オペラ指揮者年俸の約三倍)に減額しても構いません』
これを見た理事会は、グルックがサリエーリに作曲させようとしていると判断した。グルックの目論見が完全に見破られていたのである。そして出した結論はサリエーリの作品を検分して上演の価値があるか見極めるというものだった。
一方サリエーリは、これだけ苦労して作曲したものが自分の作品と認められないのは我慢ならなかった。当然である。弟子の手柄を師が横取りするという事は、芸術の世界では頻繁に起こる事だ。いくら父と慕うグルックが相手でも、最低限の保険はかけておく必要があった。
サリエーリは『音楽雑誌』の発行人クラーマーに「グルックの指導を受けているが、作曲は自分一人で行った」と伝える。これによって後に《ダナオスの娘たち》がグルックの新作であるという噂が流れた時に全てはサリエーリの作曲であると報じられた。
「サリエーリの作曲だというのが本当だとしても、これは少なくとも初演が終わるまではグルックの新作でなければならない」
オペラ座理事会は、このオペラが成功するためには無名のサリエーリではなく高名なグルックが作曲したという事にして客を入れなければならないと判断した。その結果彼等が起こした行動は、オペラの大半がグルック作曲だという噂を流す事だった。
こんな陰謀による流言飛語の応酬が繰り広げられるパリに、サリエーリが完成した《ダナオスの娘たち》の楽譜を持って到着したのは一七八四年一月五日の事であった。
フランス王家は彼を温かく迎えた。事前の一七八三年一一月三〇日にヨーゼフ二世がまたメルシ・ダルジャントー伯爵へ手紙を送り、自分の妹である王妃マリー・アントワネットへの仲介を依頼していたのだ。
「お話はうかがっておりますわ。兄はいつもあなたの事を褒めていますのよ、サリエーリ」
自身もグルックから音楽を学んだ王妃マリー・アントワネットから口添えされ、サリエーリが持参した楽譜を検分し、彼の口から真実を聞いた理事会は、約束通り一万二千フランの報酬でこの作品を上演する事を決める。その宣伝文句はこうだ。
『騎士グルックと皇帝陛下のシャンブル付き楽長にしてヴィーン宮廷劇場楽長サリエーリ作曲』
真実がどうあれ、グルックの作曲という言葉は入れないわけにいかなかった。舞台を成功させるためである。その上、初演にはマリー・アントワネットが臨席する事になった。
一七八四年四月二六日、オペラ座にて《ダナオスの娘たち》が初演された。これは大成功を収めるが、聴衆は主にグルックを褒め称える。これを見越していたグルックは初演の日に合わせてヴィーンからパリのデュ・ルレに書簡を送った。
『《ダナオスの娘たち》の作曲は全てサリエーリ氏が行い、私は助言したにすぎません(後略)』
一七八四年五月一六日、『パリ新聞』にグルックの声明が掲載されると、パリの人々は《ダナオスの娘たち》がサリエーリ一人の作曲であると納得したのだった。サリエーリは師の心遣いに感激し、五月一八日の『パリ新聞』に答礼を掲載してもらった。
『(前略)音楽を一人で作曲したのは真実です。けれども私はその音楽の全てを彼の監督のもと、その天才に感化されて書いたのです』
サリエーリはオペラ座から更に二つのオペラ作曲依頼を受ける。マリー・アントワネットからは三〇〇〇フランの報奨金を与えられ、出版社から一二〇〇フランの版権料を受け取ってヴィーンに帰還するのだった。すっかり大金持ちである。
サリエーリの名声は更に高まり、ヨーロッパ中に広まる。一方ヴィーンのモーツァルトは結婚以来五つ目の住まいである、アム・グラーベン二九番地のトラットナーホーフに引っ越していた。半年で七五フローリンの家賃を一〇フローリン負けてもらっての引っ越しである。だがここには広いホールがあり、八四年三月には三回の予約演奏会を開いて新作のクラヴィーア協奏曲を披露、一七四人もの予約が集まるほどの人気だった。
モーツァルトは決して人気がなかったわけではない。だが、彼は自分の才能に比して正当な評価を得ていない事を不服に思い、華やかな成功を収め続けるサリエーリの姿を、強い羨望と嫉妬を持ちながら見ていたのだった。